EMINA  時を越えた4つの絵物語    美奈Ⅰ Prologue

 

  

 

   E M I N A



                                               



  Mina  秋


 アルジェ 揺らぐ太陽

 艶やかに舞う白い陶器の欠けら 

ゆっくりと砕け散る永遠の時のはざま


曲がりくねった狭い石畳
周囲を閉ざす壁に
鋭利な陽ざしと漆黒の闇が
溶け込むように交錯する


あたりに反響する軽い靴の足音
宙を潤す女の吐息
カスバ 午後2時22分、乾ききった白い翳
風に舞う汗と香水
砂に時の埋もれた銀の懐中時計

 石造りの建物に覗く白装束の男の眼差し
黄色いレモンの一しづくに込められたミューズの薫り
遡る時のかげに揺れる 果て亡き人の宿命 そして

ベールの向こうの 神々の悪戯・・

 

 

 

 

 

 

 

  個 展


 黄金色の秋も終わりに近づく或る日の夕刻、
枯れ葉舞う公園の遊歩道 女は暮れ行く夕陽に照らされ、
柔らかなベージュのコートに身を包み、
銀座の小さなフォト・ギャラリーに向かっていた。
女の中で様々な想いが巡っている。
ある男の個展の最終日だった。
自分の青春に温かな彩(いろどり)を添えてくれた
ただ二度とはそこに戻ることの出来ない
そんな大切な日々の記憶であった。

 銀座の大通りを一歩入ったギャラリーの1階は広い窓の落ち着いた喫茶室になっていた。 若い学生風の男女が窓際で楽しそうに談話している。
背後に微かな人の気配を感じ取って若者が振り向くと、辺りには誰の姿もない。一瞬、薫るような妖艶な女の余韻を感じ取りながら、再び連れの女性と話を始めた。

 女は一人エレベーターをあがり、暖かなホールに入った。
ギャラリーは少し薄暗く落ち着いたクラッシックの音楽が流れている。
受付でペンをとると女は、尾崎 美奈と署名した。

その上の行には、震えた筆跡でkunzと記されている。

 

 若い受付嬢は、一瞬はっとして顔を上げた。何か不思議な巡りあわせを感じ取り、感慨深げに女の深く美しい茶色の目を見つめる。そしてそのまま何も言わず優しく会釈した。
 
美奈はそっと微笑んで、遠慮気に目を伏せた。
この個展の主が遠く待ち望んだ客であり、彼の描く真実の絵物語の大切なヒロインの一人でもあった。

語りつくせぬ深い物語を内に秘める女の美しい微笑みだった。
ウールのコートを脱ぐと黒のシルクのミニのドレスだった。
何処か南からの風がそよぐ。すらりと伸びた美しい素脚は
薄いブラウンの網デザインに覆われている。
しっとりと落ち着いたホールに、人の心の琴線に触れさせる
一筋の神秘的な花の香りを漂わせているようだった。

 美奈は淡い照明に照らし出された男のプロフィールと写真の前に進んだ。そしてしばらく写真の中の男の目を見つめ、バッグから薄いピンクの絹のハンカチを取り出すと小さな形のいい鼻元に添えた。
細い指で、女は再度ブラウンのサングラスを外した。
茶色の大きな美しい瞳は潤んでいた。
充血した目でもう一度、男の眼差しのその先にある渇いた心の風景を追ってみた。

 


                                        


 

 ホールにはカッチー二の“アベ・マリア”が静かにながれている。
やがて女はゆっくりと歩き、壁に貼られた作品の
写真のパネルに次々と吸い寄せられるようにして
エナメルのハイヒールの細い足をその先へと進めていった。

 寂しそうな目で微笑む一枚の少女の写真があった。
 “ 1988 'Sueno ;Salvador ” とある。 


見覚えのある写真だった。 忘れもしないあの日、恵比寿のライブハウスにて。
女には入り込めぬ孤独な男だけの空間。 夢幻の物語の中に
哀しげな表情で彷徨する男の横顔があった。 空しく宙を揺れる蒼色の煙・・。
一本の煙草の火の残る灰皿の傍らに、その少女の写真はあった。

男はそれを角ばった小麦色の指で大切そうに持ち上げた。
 

 Sueno・・スペイン語で夢。
少女がその小さな微笑の先に想い描いていた夢。
男の目はその少女のいたいけな思いを、その幼い笑顔の中に追っているようだ。
やり場のない無力感に打ちひしがれ、男は眉を寄せ、背を丸めている。
もう若くもない男の銀色の髪がうつぶせた額からこぼれ落ちていた。
テーブルにそっと少女の写真を置くと、男は一人ため息をついた。
原稿を手にした男の日焼けして締まった腕には一筋の古い傷跡がある。

 

この世に生き続ける限り、決して拭い去ることのできぬ心の痛手の数々・・。

無情にもこの男の人生を追うようにして、逃れえぬ生の証(あかし)として、小麦色の腕にそれは刻み込まれていた。男は、もう片方の手でそっと撫でてみた。


 その時、美奈は男に気づかれぬよう その淋しげな横顔を、何故か瞳を潤ませ
遠くからじっと見つめていた・・。

 男の撮った戦禍の村の貧しい人々の表情は、どれも何処か生き生きとしている。

苦しみの表情の中にも眩いばかりの命の光が燦然と輝いていた。身なりが貧しいが故にその瞳の輝きは一層だ。あるときは辛く鋭く、或るときは土中に眩く宝石のように美しく・・。
その光は、今生きる人の現実のありのままを語っている。 
美奈には、ファインダーを覗く作者の瞳の奥にある苦悩が、
今も痛いばかりに胸に伝わってきていた。
男の目のとらえた写真の一枚一枚には、‘真実’という名の鋭い写実性がある。

さらに、生来のどこか印象派の画風の彩(いろどり)、人であれば誰もが心の何処かを密かに揺さぶられるであろう物語がそこには添えられていた。

 金髪の美しい白人女性が、片腕をなくした現地の女の子を手当てしている写真。

後ろで束ねた金髪が、眉を結ぶ額の上に数本こぼれ落ちている。女の優しい眼差しに少女は少しはにかんでいる。
 女は白いブラウスを汗で濡らしている。孤高な使命感に燃える女の、飾り無い綺麗なエロテイシズムが一枚の写真の中に醸し出されていた。

 その同じ女性が、硬く緊張した表情で、整然とビルの立ち並ぶどこか人工的な清潔さの感じられる前世紀風の異国の街並みを、場に不釣合いな端正な身なりで歩いている。 張りつめた空気の中、女の青白い横顔の奥に隠された義憤とある種決意の表情を写真はとらえている。 
 ” 1989' Maria  Santiago ”  とあった。

 醜悪な目の警察部隊の男が振り下ろす警棒を、素手で防ごうとする
若い学生。 顔は恐怖に歪んでいた。雨に濡れた石畳の匂い・・。

 カービン銃の銃口をこちらに向け、口元には不敵な笑みを浮かべ、引き金に指を入れる瞬間の氷のように冷たい警官の目をズームで捉えた一枚。

 プラカードを腕に抱き、前方を見据えるジーンズ姿の長髪の女子学生。
力強い捨て身の意志を感じさせる静かに固く結んだ唇。
放水車に追いまくられ、警棒に殴りつけられ、傷つき検挙される大勢の群集・・。 写真のピントは逃げ惑う人々を追って所々ぼやけている。
混乱の地獄絵の中に、先ほどの金髪の白人女性の姿が微かに小さく光るように捉えられていた。

・・そして何故か写真はそこで途切れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 灰色の空を背に浮かび上がる朽ちた原子力発電所。
修復された4号炉のセメントの外壁のモノトーンの大きな写真に続き、どこかの病院の子供たちが何枚かに映し出されていた。 

 添えられた表題は  ” 天使の涙 ”


 冷えた病室のモノクロの光景にどの目も寂しげで、哀しいまでに肌は無垢に白く透き通っていた。
幼い手に抱かれた子馬のぬいぐるみが愛くるしい。
女の子たちの多くは首筋に同じ一本の手術の跡が痛々しく残されている。
花咲かんとする若く美しき樹に、黒く錆び付いた運命のくさびを打ち込まれるかの様にその後の辛い未来を予感させている。
髪の毛の無い小さな男の子が、一生懸命に青白い頬でカメラに笑顔を作ろうとしていた。

 



 白い雲の映る民家の窓から、呆然とした目で遠くを見つめる女の
印象的な写真があった。柔らかに風になびく草原と一軒の家。
“ 1987' 無題 kiev ” とある。

 その同じ家の中には一枚の女の青色の肖像画と
若い女性の写真が額に入れ白い壁に並べて貼りつけてある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 砂漠に咲く一輪の花。
冷たき11月の風の吹きすさぶ最果ての村。
先頃迄の人肌の温もりの残る 今は主人の居ない家。
窓際に取り残され 全てを知り尽くす子馬の縫いぐるみの悲しげな眼差し。
灰色の砂塵と伴に消え去る人の愛の絆。
廃墟の村に残る寂しき一輪の花・・。
炎に燃え紅き血の色に染まったあの夜の白き無垢の花。
嵐と伴に去りゆく君の熱き涙の面影


  

  異邦人

 絵の中の女の目は、先ほどの写真の女性の眼差しに漂う、今壊れ散らんとする青磁の薄い陶器の様な不安定で可憐な美しさと、どこか重なるものがあった・・。

 広い背の 黒のスーツ姿でサングラスの年老いた白人の男がソファに座っている。

背後には女の肖像画を中に映し出したパネルがさらに二枚並んでいる。 しかも、その横には、はっと目を惹く、実物の大きな裸婦像の額絵が立て掛けてある。色調は異なるが、写真の中の肖像画と同じ女性を描いたもののようだ。 不思議な構図である。

 照明の影に埋もれ、皴にまみれた額にかすかな傷のある白髪の老人の横顔が、ふとうかがえた。 厳かでもあり、堅固な石と化した亡霊のような、そんな冷たい実在感である。裸婦像は、身元の知れぬその老人と一身一体のように、数奇な運命の連鎖を漂わせている。

 

 先ほどのキエフの草原の家の青い絵に続き、次のふたつの写真に収められた絵は、ひとつは背景が煙草の煙のくゆるパリのしゃれた画廊風の白いカフェに・・、

’Cafe Pasaje’とある。 店内で本を読む若い女性のモノクロームの写真がその横に一枚並べてある。うつむいた黒い瞳を覆う長いまつ毛、黒のドレスから伸びた柔らかな白い腕が印象的である。背後の窓からはエッフェル塔が遠くに小さくぼやけて見えている。

 

 そして、最後のひとつは、どこか血のように紅いラテンの花咲き乱れる屋敷、.パテイオに向け窓を開け放たれた寝室に、掛けてある・・。南米のどこかの街を思わせる。

’ Kiev’から一連の写真パネルの中に収まった女の肖像画は、同一の人物像ながら
‘青’、’緑’、’紫’と基調の色使いがそれぞれ異なっていた。そして’黒衣’の老人の背にある実物の大きな額絵・・。それは、無垢の’白’だった。 どこまでも続く南仏蘭西の白い海岸をバックにしている。

 同時代に描かれた4つの絵画が、世界の異なる場所に、それぞれ散っていった。

互いにそれと知ることなく、時代はくだり、ふたたび縁のある人々の命に寄り添うように・・。

 妖精のように澄んだ瞳は天を仰ぎ、生きているかのように今跳びたたんとしている。
背後には薄っすらと螺旋に渦巻く黄金の炎が女を取り巻いている。

 それぞれに、並行して進むいくつかの小さな物語を、その黄金螺旋は何処かで紡ぎ、結びつけているようだ。
 

 作者は何故、この3つの絵の入った写真パネルをここに並べるよう指示したのだろうか・・。そして、最後には、額に入った眩いばかりの原画の絵。 

 金文字で’1941 Emina’と記されている。

 まるで、それら一連のパネルに命を注ぎ込み、血を通わせ、それが時代がかった’フィクション’でないことに念を押すかのように・・。

 

 その刹那、先ほどの石のような異邦人の老人の光る視線の気配を、美奈は背後に感じ取っていた。  そして唐突に、・・自分を愛した騎士の亡骸(なきがら)を、その胸に抱く古(いにしえ)の時代の’王女’の押し殺した嗚咽(おえつ)の声が、美奈の傍らをさっとかすめた気がした。美奈は、作家を苦しめた’Dejavuの呪縛’の世界に、いま自分も、さ迷い始めている気がしていた。

 

 

 

 

                       

 

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 パネルには、一山超えた向こうは霧に煙り、木立ちに覆われた雪山の頂に張り付くようにして、オレンジの朝日に照らされた欧州の古城がある。 

  ” 郷 愁 ” 

 

 命を賭した永いメッセージを込め、その男は大空高くから孤独な白豹の姿をかりて咆哮しているようだ。 美奈の心の中で、雪崩のようにいくつもの謎がいま突然氷解する気がして、胸がうち震えていた。 自分に宛て時間をかけ一枚ずつ手渡されていたハメ絵の絵札を結びつける秘密の鍵を、目の前に投げ与えられたようでもあった。 いつかのあの日の懐かしい男の囁きが、美奈の白い耳元に何処からか聞こえてくる気がしていた・・。
  

 



" 貴方の為に一輪の’希望’という名の白き花を
窓際に飾りましょう。
時々、思い出してくれたのなら
温かな心の目でそっと窓を見上げてみてください。
あの日々の偽りなき愛の証、明日の貴方の幸福への祈りを
その一輪の小さく白き契りに込めましょう。
姿は見えずとも思いは貴方の為の真っ白き一輪の花・・。
貴方と伴に過ごしたあの聖夜
暗闇に静かに降りしきる雪を待たずして
この窓から花が消えたとき、
それは仄かな薄紅色の魂の灯が
真っ白き貴方の為のこの体と伴に消えるとき・・。”



" ・・それならば、僕は紫の可憐な忘れな草をこの便りに添えましょう。
瞬く星の輝きに包まれて、とわの愛を契った
異郷の地の、懐かしきセピア色の夕暮れ。
遠くより打ち寄せる静かな波の音と薄紅色の小さな貝殻。
海辺の白い砂をゆっくりと踏む二人の裸足の指の温もりの記憶。

僕は海辺で涙ににじんだ君の命の手紙を読んでます。
一輪の可憐な紫色の花と、遠き星に瞬く君の面影・・。”


 



 やはりどこか東欧の街らしい、枯葉を敷きつめた石畳の街路樹。
時の止まったかの様な厳かな風情の大学のキャンパスの中庭。
楽しそうに会話して歩く若い男女の学生達の晴れやかな表情。

   ” Krakow (クラクフ) ”
 

 

                                                       

 

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 そして、それと対照的に、冬の郊外 沼林の濃い霧に浮かび上がる錆付いた鉄柵。それは重々しい煉瓦造りの建物を遠くまで取り囲んでおり、その先に硬い鉄門がある・・。

薄っすらと遠くの煙突に煙の上がる影が見える。夜の霧の中、温もりの無い人いきれのする灰色の廃墟。   

 ” 東欧の霧の中で ”

生の不条理を象徴したかの様に
無機質で濃淡の激しいモノクロの写真だった。

 

その横に、古い時代の廃墟となった苔むした石造りのホテルの写真がある。森へと続く街道筋にぽつんと孤立するように一軒建っている。入口のランタンの灯が消えてからどれだけの月日が過ぎ去ったのか、窓からは大きな柱時計が人気のない暗闇の中に見えていた。

美奈が通った今は懐かしい恵比寿の店に、似ている。

 

 ” 街道   hotel' Rond' ”

 

 先ほどの黒の老人の姿はもうなかった。

美奈はため息をついた。写真の一つ一つに、苦悩と愛、
そして真摯な命の通った男の熱い視線を感じ取っていた。
しばらくそうやって立ち止まっては身を震わせ、
写真の前に吸い込まれるように、眉を細め作品に見入った。
パネルにはどれも表題のみで何故かコメントは記されてなかった。
 

 夕陽に照らし出された橋の欄干に
一羽の鳥が止まり
じっと遠く高く煙る雪の山々を見ている。
橋のたもとには白い可憐な花々が咲き乱れている。

その中に小さな石の墓標が見え隠れする。

 

 ”  あの日々  白い橋のたもとで  ”


どこか、エキゾチックな心休まる風情を感じさせる写真・・。

いずれ朽ちていく命の最後の温かみと美しさを、その情景は漂わせている。

空のどこかから、花に託した男女の寂しげな詩が聴こえてくるようだった。


女の熱い息づかいを感じさせるハイヒールの足音が、
一歩一歩、人のまばらになったホールに静かにこだましていた。

 美奈は一枚のパネルの下でしばらく立ち止まると、
目頭をシルクのハンカチでそっと拭った。  

 “ 1999'  ‘ 透明 ’ Cuiaba,Brasil ” 

 そこには肌の色のまちまちな子供達と一緒に幸せそうな笑顔を送る
一人の小麦色の肌の若い女の姿が映しだされている。
温かき青春の日々。若く麗しき美奈だった。
幸せな美奈の笑顔の向かいには
あの日の優しい男の眼差しがあったはずだった。

 
 そしてパネルはやがて赤い大地の難民の写真へとつづいた。
それと少し距離を置いて 黒人の子供達が身の丈あまりの自動小銃を背負って歩いている。
一人の少年が悲しみと絶望の入り混じった身震いさせんばかりの怜たい視線を、こちらに送ってくる。 この世のあらゆる悲惨を一身に抱かえるとこんな目になるのだろうか・・。

 

    “ 悲しみの大地 ” 

 中東の戦災で破壊されたビルの瓦礫で茫然と頭を抱えている男の像。
 バグダッドの小児病院に収容される髪の毛の無い幼い子供達の、言葉にならぬ何かを訴えかける目。 罪の無い透き通った無垢な瞳の中に、人はどう振り払っても拭い去ることの出来ぬ哀しみ、人の世の底知れぬ不条理の陰を見る。 その虐げられた幼い姿を見守る母親の苦しげな表情・・。    

    ” 黄色い砂漠にて ”

 

 

 そのとなりには、モノクロで日本のどこかのキリスト教の聖堂に収められた傷ついたマリア像・・。

 美奈は、しばらくそこで足をとどめていた。そしてハンカチで目頭を押さえた。

 ” あの夏の日  朽ちたマリアの涙 ” と記してある。

 

 

 やがて美奈は静かなホールの絨毯の上を、ゆっくりと先に足を運んだ。

一人の粗末な身なりの日焼けした東洋人の男が、夕陽に照らされて呆然と遠くを見据えている。腕には小さな傷ついた幼な子を抱いている。 

 

 ” 癒しひと ”

 

  かつて何十年の昔、多くの犠牲を伴う事故のあった原子力発電所の棟が、遠く金属の屋根に覆われ煙っている。どこからか黒煙が上がる中、銃をわきに抱える多数の兵士の隊列を収めた一枚。

 

 ” 占 拠 ”

 

・・ ホールの出口の手前まで美奈は長い時間を経てたどり着いた。

照明に照らされたセピア色のモノラルの大きなパネルが一枚。

 日の丸をプロペラの翼につけた戦闘機を展示した背景に、無数の若い航空兵たちの肖像が壁一面貼ってある、どこかの戦争記念館を写真に収めたものだった。

 さらに、その隣には、城址を背景に、マントに身を包んだ学帽tの若者のブロンズ像の写真・・。

その先に芝の広場があり、心地よくそれを覆うように沢山の枝葉を広げた古齢の楠の樹がある。何処かの旧制高等学校跡のようであった。

 

  ’ ・・友の憂いに、我は泣く ’

 

 ’ なれは、人知れず地球上のすべての痛み、苦しみと悲しみを、その細き身に引き受け、愛と慈しみ、そして創生の光をその熱き胸より放たん・・。 ’

 

 

 いつの時代、世界中の何処にも共通する、人間同士の争いによって生まれる生の不条理と悲惨、そして若う人の微かな希望を伝える、そんな遠い時代の日本の写真で、ギャラリーの長いパネルは終わっていた。


・・ ’Fin de la guerr’ 

 

’ 争いの終末 ’
・・とわに見果てぬ夢。
作者がこの言葉の中に伝えたかったこと・・。

 果たして彼は、孤独な豹のように重い過去から背負った呪縛を解くことができたのだろうか・・。 少なくとも、遠く時空の呼び寄せた美奈という名の魂が、男に堅く絡みついた長い宿命の網の目を、にわかに融いてくれていたことは確かだろう。


小鼻にハンカチを添えて写真に見入る舞奈の背後からは、往年のブラジルの歌手Maysaの静かな歌声が流れていた。

 
 美奈は、ホールの窓から、夜の銀座のネオンの
街並みを、少し頬を紅潮させ、潤んだ目で眺めていた。
楽しそうに若い恋人達が、腕を組んでどこかに向かう姿に、
この国の見せかけの平和を思った。でも、ここには彼らの関わり知らぬ
真実の真っ白な画布に揺らぐ、淡い‘命’の色をした絵物語があった。
 
 ギャラリーはやがて、聴き覚えのあるしっとりとした
ブラジルのショーロの曲になっていた。
あの日の男の優しい影が自分を迎えてくれているような気がして
美奈の目に思わず涙が溢れた。



 美奈はここに来るのを、今日まで躊躇(ためら)っていた。
主人の不在のままの個展の最終日であった。

そこには、自分の心の奥底を懐かしく揺さぶる多くの’顔’があった。

・・貧困・暴力、日常性の内面的’自己’から遠く離れた、新鮮な’他人’という顔であった。

それを受け入れて人は、普遍の世界に初めて参入できるのかもしれない。
 

 美奈は来てよかったと思った。 しばらくは眠れぬ夜が続き、
辛く切ない回想の夢に苦しむことになったとしても・・。            

                                         

 

                                                                                              

 

 

 
 
             
 
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