人は相手の顔の表情に敏感です。

相手が嬉しそうな顔をすれば、自分も嬉しい気分になります。

相手が恐ろしい顔をすれば、自分も恐ろしい気分になります。

相手が哀しそう顔をすれば、自分も哀しい気分になります。

相手が楽しそうな顔をすれば、自分も楽しい気分になります。

その他様々な感情がありますが、どうも人間は顔の表情で感情の伝達を行う仕組みになっているようです。



人間誰しも、やる気が出ない、行動するのが億劫だと感じる時があるものです。

厄介な状態ですよね。そういう時、人はどうすればいいのでしょうか。

物事には、良い側面と悪い側面がありますから、

決して、やる気がでない、行動するのが億劫であることが悪い事であるとは言いません。

体が休めと命令しているのかもしれない。

今休むことで、明日は元気になれるのかもしれない。

しかし、その状態が逆にストレスに成り得ることも確かな事です。

毎日を有意義に過ごしたい、時間を無駄にしたくない。

そういう気持ちの強い人ほど、ストレスを感じると思います。

ここでは、そういう人達のためにストレスだけでも回避する自己啓発法を提案します。



僕は、よく鏡の中の自分と向き合う時間があります。しかも結構長い時間向き合います。

最低15分~20分は向き合ってないと気が済まないでしょうか。

別に服装や髪のチェックをしているわけではありません。

自分の目を見つめ続けるのがちょっと心地がいいし、集中できるんです。(引かないでくださいあせる)

よくこう思います。

「僕は、鏡の中の彼と100%共感している。僕は、彼が何をどう感じているか100%理解できる。」

もちろん、鏡の中の彼が憂うつそうな顔をしていれば、それに共感することができます。

そして今度は、彼がその憂うつな気分になった原因を探ります。

鏡の中の彼の目を見つめながら、彼のここ2、3日の行動を時系列で思い出します。

2、3日で足りないなら、さらに遡ります。

すると、気分が下降し始めるきっかけとなったエピソードが見えてきます。

まあ、大体直感的に見えるものですが、そのエピソードが今にどう関係しているか理解できれば、より納得できます。

これで、鏡の中の彼に100%共感し、100%の理解を持つ事ができました。

悩みや不安の正体とは、「事実がはっきりしない状態」のことであり、

ここまで来ると憂うつな気分になった原因がはっきりして、ある程度気分が軽くなるものです。

ここまでで十分だと思われる方もいるかもしれませんが、まだ何も啓発してません。


ここからが自己啓発ですビックリマーク


文頭に「人は相手の表情に敏感である」と書きました。

この現象を応用してみましょう。

相手の表情に敏感であるとするなら、鏡の中の彼の表情にも敏感なはずです。

鏡の中の彼の表情を都合良く作ってやれば良いのです!!

人間の顔には、多数の筋肉があります。

顔の筋肉の名前は分かりませんが、誰しも意志の力で動かすことはできるはずです。

「憂うつな気分の時に、そんな面倒くさいことができるかビックリマーク

と言われるかもしれませんねあせる

そこで、顔の筋肉の内最も力の要らない筋肉から動かすことをお勧めします。

僕の場合は、目元の筋肉ですね。

筋肉に力を入れすぎないでください。疲れてしまいますからね。

軽くです、かるーく。

微妙な力の入れ具合で表情がかなり変わりますから気をつけてください。

その調子で、笑顔または自信に満ちた表情を作ってあげてください。

自分の感情がその表情につれて、変化してくることに気がつくと思います。

感覚としては、鼓動が少し高まり、体が少し火照ってくる感じでしょうか。

そうすると、ほんのちょっぴり元気が出ます。(元気玉ですねドキドキ)

そのちょっとの元気を行動のスタートエネルギーにして下さい。

皿洗いでもいいです、洗濯物を干すでもいいです、買い物に行くでもいいですし、誰かと会う約束をするでもいいです。

何か建設的なことにエネルギーを使えば、生活が有意義に感じられ、

後は雪だるま式にエネルギーが湧いてきます!!

どうでしょうか。気になる方は試してみてください。


今の話ですが、鏡を置く場所も考えるべきだと思います。

①鏡を最も人気の少ない場所の内で、最も居合わせる確率が高い所に持ってくること。(一人で笑ってると端から見てちょっと気持ち悪いですからねあせる)

②鏡の前に専用の椅子を置いておくこと。(自己啓発専用の椅子です)



世の中には自己啓発書というものが数多く存在しますが、

僕は自己啓発書には、自己啓発の限界があると感じています。

確かに元気の出るような言葉が綴られています。

それを読んだら、元気が出るかもしれません。

「言葉」にはどこまでも詳細な描写を可能にする力がありますが、

対象を100%描写できた文章など、この世のいつの時代にも無かったはずです。

できたとしても、無限量の文章が必要でしょう。

これは、0と1の間に無限個の数があるのと似ています。

0と1の間には0.1から0.9の数字があります。

0と0.1の間には0.01から0.09の数字があります。

0と0.01の間には0.001から0.009の数字があります。

これを続けると、0と1の間には無限個の数があるにも関わらず、0と1の間は有限であると考えられ、矛盾に陥ります。

僕は、文章にもこのような性質があると考えます。

自分が作った「鏡の中の彼」の表情には、無限量の文章でしか表現できない自己啓発文が含まれていると考えられないでしょうか。

僕は、これこそが一人でもできる究極の自己啓発だと考えます。
一時期、「お金」って一体何なんだろうと考えていた。

経済学を知らない僕だが、知らないなりに考えていた。

お金が生まれ、お金が死んでいく場所があるのではないか?

そう思っていた。

お金が生まれる場所ってどこだ?お金が死んでいく場所ってどこだ?

友達に聞いてみた。

「日銀に決まってるじゃんビックリマーク

即答された。

が、納得できなかった。

僕は、紙幣としてのお金の発生源を知りたいわけじゃない。

お金って何で必要なの?ってこと。

それは、貨幣が存在する3大理由、

「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」

が知りたかったのか?

む~まあまあ納得できるが、まだ物足りない。

お金の概念が生まれる瞬間が見たいってこと?

あ、そうかもしれない!!

そして、気付く。お金の正体って「恩」なのではないかと。

「昔々、狩猟民族の村が在りました。

村には二人しかおらず、彼らは生きていくために、毎日狩猟に明け暮れていました。

一人が狩りに出ている間、一人は村の守をすることになっていました。

今日は、狩りに出ていた一人が獲物を捕えて帰ってきました。

二人とも大喜びです。

夕食の場で、今日の獲物を二人で分け合います。

一人が、『僕が狩りをしている間、村を見張っていてくれてありがとう。

僕の狩りがいくら成功したとしても、君が村を守ってくれなかったら、

ハイエナやハゲタカに村を襲われて、夕食どころじゃなくなっていたかもしれない。

だから、今この獲物が食べられるのは君のおかげだよ。』

するともう一人が、『いや、僕はただ村を見張ってただけだよ。

君が危険を冒してまで狩りをしなければ、僕は今夜空腹のまま過ごすことになったんだ。

僕が今生きていられるのは、君が体を張ったおかげだよ。』

という会話が交わされている。」

僕は、この場面にはすでに「お金」と呼ぶべきものが行き交っているように思えます。

その正体が「恩」なのではないかといった理由もこのことです。

ちょっと、極端な例だったでしょうか。


「人は一人では生きていけない」という言葉をよく聞きます。

僕の言い方でいうとこうなります。

「人の最小単位は二人である」

「最小単位」と言って「二人」というのは矛盾しているかもしれませんが、

これが正しいとすると、人間は本来「恩」を感じずにはいられない生き物のはずです。

物で溢れるこの現代は、この「恩」が非常に細分化されている時代です。

今、私が打っているこの文字一文字でさえ、誰かがこのフォントを1ビット1ビット奇麗に作り上げてくれたから、

このようにブログが書けるんです。

このブログサイトが出来上がるまでに、一体何人の方が関与して来られたのでしょうか。

そのような人たち一人一人に「ありがとう」と言うことは出来ません。

そこが怖い所です。恩を忘れてしまう第一歩になってしまいます。

逆に、相手の些細な気遣いを見逃す鈍感さも避けたい所です。

これを書いてて、自分の感性もまだまだだなぁ、と思います。

修行が必要だとつくづく思いますねビックリマーク
僕は、4年前にある決断をした。

その決断に対する代償は決して小さいものではなかった。

しかしその決断のお陰で、僕は何ものにも代え難いある3人の方と知り合うことができた。

何が僕にその決断をさせたか。それはまだ秘密キスマーク


今日、「資産防衛セミナー」という聞き慣れない勉強会に出てみました。

「資産」を「防衛」するのだから、お、この人は「資産」を持っているのだな!?

と、お思いのあなた。僕は今「資産」ゼロです(笑) へへっあせる

このセミナーはどうも北海道初だそうです。

東京では定期的に行われているそうなのですが、

北海道にも有益な情報をと、ありがたく開催してくださいました。

講師の方は、金融、法律、教育の各分野でのスペシャリスト3名!

講師の方を除いて、参加したのはたったの9人!

しかも北海道の人間はごくわずか。僕はツイてました。

今の日本財政の現状と、若い僕たちが生きていくための今後の身の振り方について、

かなり希少価値の高い情報を、丁寧に分かりやすく説明してくださいました。

正直僕は、経済学については殆ど無知と言っても良いぐらいなのですが、

20年30年後の日本がどんな危機的状況に陥る可能性があるのかひしひしと感じることができました。

それを感じただけでも、出席した甲斐があったなと思っています。

本当にためになるセミナーでしたニコニコ


物事には必ず原因があります。理由があります。

どうやってこのセミナーの存在を知ったのか?

それはあの4年前に遡ります。

4年前に出会った方の一人に、北海道にお住まいの方がいるのですが、

その方とは、この4年間たまにですが、連絡を取り合っていました。

今年の7月に、3年ぶりでしょうか、その方の計らいで再会を果たす事ができ、

さらに、僕の家の近くにある行きつけの喫茶店を紹介してくださいました。

そして、今月始めに僕がなんとなく気になったもので、その方にメールした所、

直接お会いするということになりまして、その機会に今回のセミナーの存在を知ったのです。

そのセミナーの講師の方の名を聞いてびっくり。

4年前に出会った方の内のもう一人の方だったのです!!

これは行かなくてはと思いました。あ、いや「あ~この人行ってしまうな」って感じでした。

もう一人の方とも今月、本当に久々に連絡を取る事が出来ました!

実は全てのきっかけは4年前にこの方に、後のお二方を紹介して頂いたという形です。

もうありがたさに優先順位が付けられません。感無量です。

皆さんお元気そうで本当に良かったですニコニコ

人生何が起こるか分かりませんが、それぞれが夢に向かって邁進し続けているのであれば、

それほど嬉しい事はありません音譜

そんなこんなで、感動的なセミナーとなりました。


しかし、感動はまだ終わらなかったアップ

セミナーの後に親睦会もありましたドンッ

講師の方3人と、9名の受講生達での飲み会。

僕は、こういう席での身の振る舞いがまだ慣れてなくて、かなり緊張しました。

(いろいろこぼしました汗)

しかし、話すにつれて気が緩んできたせいか(酔ってきたせいか?)、楽しく話せるようになりましたニコニコ

4年前の話、懐かしかったなぁ。一生の思い出だろうなぁ。

あと、ほぼ同い年の受講生の人の家が、僕の近所であることが判明!

というか、あらゆる人が近所で活動していることが判明!

今の家に引っ越したのもツイていたことが、今更ながら分かりました。

飲み会は、0:00頃まで盛り上がり、終電が近かった僕はお先に失礼しました。

でも、帰り際に明日鍋でもやろうと受講生の人に誘って頂き、もち了解しましたビックリマーク

明日が楽しみです。おっと、もう今日か。


最後に一言。

「縁」は存在するかもしれない。

「縁」という言葉が存在するということは、人間は「縁」と呼ぶにふさわしい何かを感じ取ることができるという証拠。

でもそれを感じられるようになるには、「縁」という言葉を聞いただけじゃ駄目で、

「縁」を感じ取れるような経験をしないといけない。

じゃあ、どうやったらその経験をすることができるか?

それは、「縁」を感じ取ることができる人に教えてもらうことであると思う。

「教育」という言葉が教育しているのではない。「教育者」が「教育」の意味を知っているからこそ、人は育つんです。


もう寝なきゃ。明日は、午前から大学の友達とレンタカー借りて紅葉を見に行ってきます。

それも楽しみだにひひ 

今日は、貴重な体験を本当にありがとうございましたビックリマーク
「初ブログ」の記事に、「僕は何のためにブログを書くのでしょうか」ということを述べた。

ブログを書く理由として考えられるものを列挙してみる。

①他者に伝えるという意識を持てば、文章を書く技術が向上する

②日記を書くことで、自分の生活を客観的に観察することができる

③読んでくれる人に少しでも元気になってもらうため

④これまでお世話になった人で、遠く離れてしまった人たちに、自分の「今」を伝えるため

ぐらいでしょうか。まだまだありそうです。

最近、ブログを書くのが楽しくなってきました。

(下手な)小説でも書いたらもっと面白くなるかもと思っていますニコニコ

あ、紀行でもいいですね。

あと、写真も載せていきたいと思ってます。携帯写メですけどね。。。

でも、ブログばっかり書いてて、この人は普段何をしているんだ?と思われないよう気をつけます。

僕は、考え方こそが人生を左右すると言っても過言ではないと思っています。

考え方には大きく分けて3段階あります。

①事実の把握

②事実の分析

③結論、決断、実行

これは、あの大哲学者アリストテレスも実行していたものです。

この考え方に出会ってから、僕の考え方は大きく変わりました。

想像してみてください。

「午後の昼下がり、営業でこの辺りを回っていたが、

少し眠気も差してきたので喫茶店にてコーヒーでも飲む事にした。

店内には、大型のテレビが設置してあり、高校野球の中継をしていた。

席についた私は、メニュー表を手に取って、ウエイトレスが来るまでにコーヒーの種類を考えていた。

種類が決まり、ウエイトレスに注文を付けると、コーヒーはすぐに運ばれてきた。

カップコーヒーにミルクポット、シュガーステッィク、マドラーがついてきた。

ミルクを入れようとした私だったが、野球の試合が大きく動いたことに気を取られてしまい、

ミルクを服にこぼしてしまった。」

ここまでを読んでみると、人によっては

大事なスーツが汚れてしまい今後の営業に支障が出てしまう。クリーニング代が無駄にかかってしまう。

一端、帰宅して予備のスーツを来てこなければならない、時間はかかるし、交通費もかかる。

そうすると、次の営業の約束時間までに間に合わない。営業ができなければ、後で上から叩かれる。

などなど、今後の成り行きが悪くなると思われるかもしれません。

今ここで述べたのは、3段階の考え方の内、①②番目の「事実の把握」「事実の分析」ということになります。

さらに言えば、消極的な「事実の分析」ということになります。

消極的な分析があるのなら、積極的な分析もあるのですか?と言われるかもしれません。

もちろんあります。

ミルクをこぼしたことによって、ウエイトレスがハンカチを貸してくれるかもしれない。

後日ハンカチを返すことによって、彼女と仲良くなるかもしれない。

それをきっかけに、以後その喫茶店が良い気分転換の場所になるかもしれない。

自分の注意の浅はかさを学び、次からは気をつけるようになるかもしれない。

ミルクをこぼすこと自体、気が抜けている証拠であり、

一端家に帰り服を変えることによって、気分を新たにすることができるかもしれない。

それによって、次の営業で大口の契約が取れるかもしれない。

などなど。考えれば、たくさんあります。

大切なのは、「ミルクをこぼした事実には本来良いも悪いもない」ということです。

これはミルクに留まらず全ての事実に当てはまる事です。

評価するのは、当の本人次第だということです。

もし、一つの事実に対して積極的分析と消極的分析が同じ量だけあるとしたら

積極的分析の道を選択する人間になりたいと思いませんか。

僕は、そうなりたいと考えています。