梅崎正直さんヨミドクター編集長でお子さんは自閉症

 

 

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「お父さん、これは個性だと思いますか?」

 

向かい合った医師からそう言われ、反応できなかった。一瞬、問いの真意がわからなかったのだ。

 

「個性……と思いますが」

 

「これは個性ではありません。専門家なら見まがうことはない。息子さんは自閉症です」

 

当の本人は、床に並べた玩具をひたすらいじっている。妻の胸に抱かれた次男がぐずり始めた。

 

「個性ではない。障害です」医師の厳しい言葉に…僕が初めて「自閉症」と向き合った日

 

単語が二語文にならず

 

区役所の保健所(当時)に呼び出されたのは、長男・洋介(仮名)の3歳児健診の後、1996年の冬のことだ。

 

言葉が遅いこと、単語は多く発するが、いっこうに二語文になっていかないことが、通常の発達と違っていることは感じていた。

 

公園に行っても、他の子と遊ぶことはなく、すべり台ばかりを何時間も、日が暮れるまですべり続けた。

 

当時は、「自閉症スペクトラム」という言葉が、ようやく聞かれ始めた頃。

 

いくつかあった専門書を読んだが、自閉の特徴の中には、わが子には当てはまらないことも多くあった。

 

例えば、「視線が合わない」とか。

 

ときおり、きらめくように言葉を発することもあって、「障害」はまだ、僕ら夫婦にとって現実の問題とはなっていなかったのだ。

 

「弟がすぐに追い抜く」と

 

だから、保健所から呼ばれたときにも、発達に関して相談をする程度に思っていた。部屋に入ると、精神科医とだけ名乗った医師とカウンセラーが並んでいた。

 

そして、始まってすぐに突然落ちてきたのは、その医師の言葉だった。

 

両親のただならぬ気配を感じ取ったのか、ちょうど1歳になる次男が泣き始めた。すると、医師はこう言った。

 

「今に、この子が追い抜いてしまいますよ」

 

心の準備がなかった妻が、泣き始めた。

 

僕はといえば、なぜか顔は笑っていた。

 

不思議なことに、笑いが止められなくなっていた。周りからどう見えているんだろう、おかしな親と思われるんじゃないか……と思っても、それは止められなかった。

 

後に、「笑い」をテーマに取材をしたとき、ある大学の先生から教わった。

 

人は予想を超えた衝撃を受けると、笑うことがあるという。

 

「笑うしかない」というのは、そうしなければ自分を支えられないからなのだろうか。どんなに引きつった醜い笑みだったとしても、あの日の僕は。

 

泣く妻 跳びはねる息子

 

「個性ではない。障害です」医師の厳しい言葉に…僕が初めて「自閉症」と向き合った日

 

千葉の郡部に引っ越すことが決まっていた僕らに、

 

「(大都市の)ここなら様々な支援が受けられますが、引っ越した先には何もありませんよ。覚悟してください」

 

という言葉が追い打ちをかけた。

 

まだ泣いている妻と、傍らで上機嫌にぴょんぴょん跳びはねている長男を連れて、区役所からのバスを待った。

 

バスはなかなか来なかった。真っ青に晴れ上がった空に風景がこびりついて、まるで油絵だと思った。

 

ようやく来たバスで駅に行き、そこで別れた。僕はその足で職場へと向かったのだ。

 

いつもより遅い時間の都心へ向かう列車はすいていて、僕はぼんやりと座っていた。特段、悲しいとも、つらいとも思わなかった。

 

ただ、それまではかわいいだけだった息子とのいろんな思い出や、他人の言葉や、漠然とした考えが、意識を出たり入ったりした。

 

無意識のうちに涙が

 

40分ほどたって、職場に最寄りの水天宮前駅が近づいた。当時は、そこが地下鉄の終点だった。心の中は空白に近かった。

 

だけど、気がつけば、両目からは涙がボロボロと流れ出ていた。

 

他の乗客が 怪け訝げん な顔でこちらを見ている。

 

人はおかしいから笑うのでなければ、悲しいから泣くのでもない。

 

ただ、あふれ出るのだと知った。

 

医師の厳しい言葉は、現実を見ない若い両親の目を覚まさせるためだったのだろうか。 思えば、僕と息子の歴史は、この日、始まったのだ。

 

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