9月4日はブルックナーの200回目の誕生日である。そのせいもあってか9月は比較的ブルックナーが演奏される機会が多いように思うが、まさにその誕生日には広島では広島交響楽団がブルックナーのミサ曲3番を演奏していたとか(聴きに行った知り合いによると非常に良かったとのこと。)。さすがに平日に広島まで遠征はできないが、東京でも都響が音楽監督大野和士の指揮でブルックナーを演奏したので足を運んでみた。

 

9月4日(水)東京文化会館

ベートーヴェン ピアノ協奏曲3番(独奏:ポール・ルイス)

ブルックナー 交響曲7番

大野和士/東京都交響楽団

 

前半はピアニストのポール・ルイスを迎えてのベートーヴェンのピアノ協奏曲3番から。ルイスは、ハイドンからブラームスに至るドイツ古典派からロマン派までの作曲家のピアノ・ソナタの演奏で知られたイギリスのピアニストで、確かブレンデルの弟子である。技巧を売りにするよりも、曲を内省的に深めていくタイプであり、ブレンデルほど衒学的ではなく、比較的自然体で素直な奏者という印象がある。内声の動きをくっきりと浮き上がらせ、ハーモニーの移ろいを大切にするのが特徴といえば特徴かもしれない。協奏曲録音は少ないがベートーヴェンのピアノ協奏曲はビエロブラーヴェクとBBC交響楽団と全曲を録音している。

 

ベートーヴェンのピアノ協奏曲3番は唯一の短調の作品である。モーツァルトのピアノ協奏曲24番の影響を感じるが、確実にベートーヴェンの個性が刻印された作品で、明らかにモーツァルトの影響から完全に抜けた独特の4番や5番に比べると、伝統的な形式に則っているとはいえ、表現内容は限りなくロマン派に近付いていて、その意味ではベートーヴェンのエポック・メイキングな協奏曲ではないかと思っている。

 

まず大野と都響の序奏がなかなか味わいがある。重過ぎずかといって軽過ぎず、ロマンティックになり過ぎず、かといって、必ずしも古典派的にコンパクトにもならず、べた付かず、ただ短調の作品に相応しい沈殿したような抒情性もほのかに香る。ルイスのピアノはテンポが速い。ペダルはかなり踏んでおり、むしろペダルを効果的に使って音響を組み立てている。音色はすっきりとしていて透明感はあるが、あまり音色自体の美しさを磨き上げている感じではない。正直にいうと、好みからいえばペダルを使い過ぎだし、打鍵も抑制は利いているが今一つ突き抜けず、最初はあまり好みではなかったが、聴いているうちに、その音色には慣れて来て2楽章辺りからは気にならなくなった。あまり振幅は大きくなく、ピアノ独奏が一段落するところで少し派手に鳴らすことがあるにせよ、基本的には中程度の音量で弾き進める。内声の移ろいを上手に浮かび上がらせているのはピアノ・ソナタの録音の印象と同じであるが、実直で地味な印象ともいえる。ただし、全てのパッセージがきっちりと考え抜かれていて、折り目が正しく、その完成度は高い。その安定感、完成度の高さが見えてくると、このピアニストの実力が改めて見えてくる。

 

そしてルイスは非常にオーケストラをよく聴いている。この人の演奏を聴いていると、ピアノとオーケストラが対話する部分が随分と多いことに気付かされる。オーケストラ部分を伴奏と思ってバリバリ弾くようなソリストとは全く違う。ちゃんとオーケストラを聴き、その表現を受けて独奏部分も弾くので、ピアノも含めたアンサンブルの精度が非常に高い。オーケストラ部分までしっかりと読み込んで、全体として音楽を捉えていることがよく伝わってくる。知性派である。また、ルイスの演奏で聴いていると、実はベートーヴェンのピアノ協奏曲3番のピアノ・パートが、後の合唱幻想曲に似ているなと感じられた。カデンツァなどでは熱量のある独奏になっていたが、隙なく仕上げられているものの、もう少し華やかさがあってもいいようにも感じられた。

 

最も秀逸だったのは2楽章で、抑制の利いたピアノの歌い口に気品が漂っていた。都響もピアノの美学によく反応し、素晴らしいアンサンブルになっていた。3楽章は快速な演奏で、ルイスのような演奏スタイルであれば、そこまでテンポを上げなくてもとも思ったが、ぐいぐいと曲を弾き進めていき、端正かつ抑制的ではあるものの、それなりに熱量を発散して弾き切っていた。終始一貫して非常にコントロールが利いていて、音楽的な好みはともかくとして、その安定感と完成度の高さは抜群であった。よく練り上げられた、匠の技を聴かせていただいたという気持ちであった。

 

アンコールは、得意のシューベルトから。ピアノ・ソナタ21番の3楽章を弾いていた。シューベルトのピアノ・ソナタを2日に渡って演奏する演奏会が予定されているので、弾き込んでいるからなのか、あるいは、プロモーションのつもりなのか。協奏曲よりも自由度が増して、かなり速いテンポながら、内声部をくっきりと聴かせつつ、意外に華やかに演奏しており、やはりこのピアニストは協奏曲よりも独奏の方が向いているのかもしれないと感じられた。これを聴くとシューベルトのソナタ21番を聴きたくなるが、配布されていたチラシによると、21番を演奏する日のチケットは完売とのこと。残念である。

 

後半は200回目の誕生日の節目の日のブルックナーの交響曲7番である。大野にはあまりブルックナー指揮者という印象はないし、何年か前に聴いた9番はテンポが速過ぎて、妙に軽く感じられ、あまり感心しなかった。ただし、ブルックナーの中では最も歌謡性の強い7番であるし、オペラ的な手法が演奏に活きるのではないかとも思われ、少し期待していたが、結果的には、いわゆるブルックナー的な演奏ではないかもしれないが、なかなかの名演であった。

 

まず特筆すべきは弦楽器の素晴らしいカンタービレ。冒頭のチェロのメロディから物凄い歌い込みである。詩情豊かに、朗々と歌う。それを受けて他の弦楽器も細かい音型までよく表情を付けてしっかりと歌い込む。弦楽器の肌理の細かい濃厚な表情付けが曲を終始一貫して貫いていた。大野のブルックナーはこの7番でもややテンポが速めで、割とすいすいと前進するのであるが、そのテンポの中で弦楽器が濃厚に歌っているので、非常に感興が深い。

 

それに比べると、特に金管は少しであるが乱れも見られたし、アンサンブルの練り上げはもう一歩というところもあったが、音は良く出ており、特にトゥッティになるとその迫力はなかなかであった。割と癖のない音色で爽快に鳴らすので、これはこれで悪くはない。

 

1楽章はよく歌うが、テンポは首尾一貫して速めで常に前に前にと進んでいく。この推進力は凄く、その中で細かく表現がきちんと付けられており、それが有機的に繋がっていた結果、密度の濃い演奏になっていた(この繋がりがうまくはまらないと、単に速くてさらさらした演奏になってしまうかもしれない。)。ヴァイオリンなどは主要旋律に対して、それを受けるような音型を奏でることが多いが、それらも一つ一つ丁寧に表情が付いており、それが主要旋律から自然に受けられていく。そのオーケストラ内の対話が実にスムーズなのである。1楽章の終結部など、じっくりと盛り上げたくなりそうなところだが、大野は比較的淡泊にぐいぐいと先に進めていくが、そういう解釈だとすると一貫しており、かえって自然で違和感がない。

 

そしてこの演奏の白眉は2楽章である。この楽章はテンポも少しゆっくり目となり、弦楽器が深く、朗々と、豊かに歌う。ブルックナーの交響曲の中でも屈指の歌謡性の強い緩徐楽章を、これほど感興豊かに歌った演奏にはなかなか会ったことがない。都響の弦楽セクションの表現力が最大限の威力を発揮していた。ひたすら芳醇な弦楽器の音色に痺れていたが、時折、ちょっと緩いホルンとワーグナーチューバのアンサンブルに現生に呼び戻される。頂点に向かって上り詰めるところの劇的な表現力は、新国立劇場で大野指揮で「トリスタンとイゾルデ」を何度も演奏した経験も役に立っているのだろうか、頂点のシンバルの一撃が非常に効果的であった。2楽章が終わったところで拍手したくなったほど。

 

ブルックナーの中でも屈指の格好いいスケルツォである3楽章も最初の低弦のリズムから引き締まっていて力強い。やはり金管が時々吹き損じていたり緩いのだが、鉄壁の弦楽アンサンブルがしっかりと音楽の骨格を作っているので、それに上手に乗って金管も徐々に燃焼度を上げていき、なかなか迫力のある演奏に仕上がっていた。

 

そしてこの曲の中で一番軽めに感じられる4楽章も、軽快で躍動感のある演奏になっていた。全体的に快速なテンポの中にあると、軽量級の4楽章の軽さが気にならない。コラール風のパッセージなども、美しく響かせていて、すこぶる濃厚である。コーダもしっかりと盛り上げつつも、あまり引っ張らずにあっさりと最後の音まで突き進んで、さっと終わらせる。大野の解釈は一貫して淡泊なのだが、その爽やかな駆け抜けっぷりがこの7番については良い方向で作用したようだ。このさらりとした淡泊に進める中で、細部では濃厚に歌わせるというのは、これはもしやシューリヒト的な解釈なのかもしれない。

 

7番という選曲も良かったのかもしれないが、独特ながら意外にブルックナーへの適性を示した大野であるが、声楽の扱いが巧みなマエストロには、折角なのでミサ曲3番やテ・デウムなども演奏してもらいたいなと思ったところである。とはいえ、殊勲賞は矢部達哉率いる弦楽セクションの充実度であった。ただただ称賛したい。

 

酷暑や台風などいろいろとあった夏が過ぎて、久しぶりの演奏会はなかなか素晴らしいものであった。9月のブルックナー月間(勝手に命名)は上々の滑り出しである。