都響のブルックナー生誕200年記念に近時ブルックナーに力を入れているフルシャが登場した。退任するパッパーノの後任としてロイヤル・オペラのシェフに就任することが決まっているフルシャであるが、かつて都響の首席客演指揮者を務めていた。ウェルザー=メストがウィーン国立歌劇場と喧嘩別れをして降板した際に、都響の第九の予定をキャンセルしてまでウィーンでヤナーチェクを振ることを選び(人間として気持ちは分かるが)、代役として第九はインバルが指揮していた記憶がある。それもかなり以前の話、遺恨は晴れたということか、チェコ・プログラムとブルックナーをメインに据えたプログラムで都響に復帰である。オール・チェコ・プログラムは行きたかったがどうしても仕事の兼ね合いで行けなかった。ブルックナーは聴き逃せない。

 

7月4日(木)サントリーホール

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲1番(独奏:五明佳廉)

ブルックナー 交響曲4番「ロマンティック」(コーストヴェット1878/80年)

ヤコブ・フルシャ/東京都交響楽団

 

最初はブルッフのヴァイオリン協奏曲1番から。独奏は五明佳廉が担当した。五明は前にも都響と共演して、準メルクル指揮でプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲1番を弾いていた。東京生まれというが、カナダやアメリカで育ったらしく、何となく見た感じも所作も少し日本人離れしている。このヴァイオリン奏者の演奏については、プロコフィエフの時にはあまり好みではないなと思ったが、ブルッフはどうであろうか。

 

ところで、ブルッフのヴァイオリン協奏曲1番は、ヴァイオリンを習っていると、通常初めて弾かせてもらえる主要なロマン派のヴァイオリン協奏曲である。ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルトの協奏曲などは課題に与えられても、ロマン派となるとザイツなどいかにも練習用の曲を与えられ、ようやくまともな曲を弾かせてもらえると意気揚々と練習するのがこの作品なのである。その結果、ヴァイオリンをやっている人はまずこの曲に独自の明確なイメージを持っている。オーケストラのヴァイオリン・パートの人達も恐らく自分の弾いた時のことを無意識に思い出しながら弾いているに違いない。下手に弾こうものながら、うちのコンマスの方が上手いぞなどと思いながら弾いているに違いない。ヴァイオリン奏者ならなかなか自信がないと取り上げる気にならない曲ではないか。

 

五明は舞台姿は派手めであるが、それほどヴァイオリンの音量は大きくはないようである。1楽章冒頭のヴァイオリン・ソロはヴァイオリンの一番低い音のト音から始まるが、深々と朗々と歌うことの多いこの最初の音を、五明は随分と小さく弾き始めた。上昇していくパッセージを小さな音で、ポルタメントを多用して弾いていく。それほど長くない部分にいろいろな技を駆使して音楽を多彩に表現しようとしている。その傾向は全体的に貫徹されていて、メリハリを付けたり、ポルタメントや溜を多用し、陰影を濃く付けていく。それはそれで面白いのだが、そのいろいろな工夫や繰り出す技が、正直にいうとブルッフの音楽に合っているのだろうかと思う。元々、ブルッフの音楽が割と濃厚なロマンティックな作りになっている。むしろそれを、凛として格調高く弾くことで、そのロマンティシズムが生きるのだが、五明のようにあれこれといじってしまうと、細部にばかり耳が行ってしまい、全体的な音楽のフォルムがよく見えなくなってしまう。しかも、音色が比較的細身で神経質な印象で少しキンキンする瞬間がある。もちろん、こういう演奏を好む好む人もいるかもしれないが、少々、違和感を感じながら聴いていた(もしかすると、自分のブルッフ・イメージと違ったからかもしれない。)。

 

2楽章も細かく表情を付けようとしているのは分かるのだが、少々やり過ぎに感じられ、もう少し自然体に音楽そのものを描き出してくれればいいのに、という感想しか出て来なかった。そういうった五明の小技が面白かったのは3楽章であるが、他方、ようやくオーケストラが馬力を出せる楽章になると、ヴァイオリンの音色の細さが気になってしまう。パッセージを弾き切るところなど、背筋を伸ばして弓が楽器から離れたところで思い切り上げるなど、弾き姿はなかなか映えるのだが、どうも最後まで素直に演奏に身を浸せない演奏であった。会場が盛り上がっていて、何度も舞台に呼び戻されていたので、会場の反応は悪くなかったので、好んだ人も多かったのかもしれない。やはり相性が悪いようだ。

 

アンコールは、ピアソラのタンゴ・エチュード3番。自ら日本語で曲名を紹介していた。これはセンスの良い選曲である。ピアソラ再評価の火付け役であるクレーメルの演奏が有名だが、確か原曲はフルートのための作品である。クレーメルの演奏を聴いてあまりの素敵さに、楽譜を入手して練習してみたことがあるが、にわか仕込みではタンゴ風にも、クレーメルのように鋭角的に鋭く弾くこともできず、上手に弾けなかった残念な記憶が残っている。五明は、この曲を、徹底的にいろいろな技巧を駆使して、まるでヴァイオリン技法の万華鏡のように変化を付けて弾いていた。時にはかすれたような音まで駆使してねっとりと歌い、単音のパッセージを重音にしてみたり、テンポをめまぐるしく変化させ、ピアソラの曲を素材に自由自在に音楽を紡いでいく。もしかすると、こういう作品を得意とする演奏家なのかもしれない。そう考えると、タンゴ風ブルッフだったと考えれば、存外、ブルッフの演奏も一貫した解釈であったのかもしれないと思い直す。アンコールから逆算して演奏家の解釈を読み直すという貴重な経験であった。まあ、ブルッフをタンゴ風に演奏する意味があるのかは次の問題ではあるが。

 

後半はブルックナーの交響曲4番である。フルシャは、新しいブルックナー全集に依拠し、コーストヴェットが校訂した第1稿、第2稿、第3稿の全てをバンベルグ交響楽団とまとめて録音している。ついでに、草稿の断片などブルックナーの交響曲4番に関して残されている全ての楽譜も音化して録音している。要するにブルックナーの交響曲4番を極めた指揮者であるといえる。似たような企画をラトルがロンドン響とやっていたが、2枚組に全曲と、違う稿の一部を録音しただけのラトルに比べると、フルシャの仕事は徹底している。是非、ポシュナーが成し遂げたように、他の交響曲も全ての稿を録音してもらいたいものである。最近、かつてロジェストヴェンスキーが試みて途中で終わってしまった、ブルックナーのいろいろな稿を録音する企画を、シャラ―やポシュナーなどが実現していっている。既に稿は「選ぶもの」ではなく、「どれも楽しむもの」と化しているということだろう。

 

フルシャの解釈は実にオーソドックスなものである。楽譜に忠実なのだが、比較的快速なテンポで実に自然にグイグイと進めていく。音は重心を重く取りすぎず、柔らかく、むしろハーモニーと横の流れのバランスを重んじる。各楽器を思い切り鳴らさせるのではなく、様々な楽器が積み重なってハーモニーが作り上げられていることを、各パートのバランスを精妙に取ることで表現することで曲の重厚感を作り上げる。各楽器の音の層がミルフィーユのように重なってまるでオルガンのような音響を作り上げる。都響も帰って来た首席客演指揮者の要求に真摯に応えていて、実に精緻な演奏になっていた。都響だからこそ実現できるブルックナーといってもいいかもしれない。弦の国チェコ出身の指揮者が指揮しているためか、弦楽器の音がよく浮かび上がり、逆に、金管の音量が少し小さく感じたが、スコアのとおりの編成で演奏していたようでもあり、そこはフルシャの解釈なのだろう(録音でも同様の印象を受けた)。

 

1楽章はどんどん前に進んでいくような前進性のある演奏なのだが、細部がきちんと作り込まれているので音楽の密度が高く、充実感が高い。曲を知り尽くしているので、曲を実に自然に組み立てており、次のパッセージへの移行が実にスムーズである。あっさりとしているようでしっかりと味付けがされている。2楽章は弦を主体によく歌わせているが、やはり表現は薄味のあっさり目であるが、滑らかに自然体で音楽が進んでいく。3楽章は、音量を精妙にコントロールして音楽の向かっている方向性を明確に出しつつ、颯爽と快速に音楽を進め、豪快に鳴らす。実に爽快な演奏である。そして4楽章もよく練り上げられた演奏で、すっきりとした歌い口で、颯爽と進んでいく。鮮やかに音響を組み立てている。やや軽量級の演奏との印象もあるが、やはり丁寧にハーモニーを組み立てているので、音響の多層性を見事に作り上げられていた。

 

ブルックナーにイメージされやすい、長大さ、重厚さ、無骨さ、壮大さといったものはない。颯爽としていて、流麗で、むしろ、あっという間に曲が終わったように感じられたほどである。ブルックナーの音楽が、意外に巧妙に作り上げられている印象すら与えてくれた。神に向けられた眼差しよりも、人々に対する温かい眼差しを向けているようなブルックナーである。そんなフルシャがブルックナーにこだわっているところが面白い。ロトのブルックナー・シリーズが、ロトのセクハラ・スキャンダルで中断してしまうのではないかと想像されるところである。フルシャには、着実にブルックナーに取り組んで、新時代のブルックナー指揮者として大成してもらいたいものであるし、ロイヤル・オペラで忙しくなるかもしれないが、また都響を振りに来ていただきたいものである。

 

ちなみに、フルシャは翌日5日も午後に同じプログラムをサントリーホールで指揮していた。実は、午後に休暇を取って聴きに行こうとしたのだが、諸般の事情で定時に間に合わず、後半のブルックナーのみを聴いた。しかも、遅くなったのでブルックナーが始まるまで、ホールの近くで暑さとやけ酒でビールを飲んでしまい、あまりいいコンディションで聴けなかったが、指揮者とオーケストラに多少緊張感があった1日目に比べると、2日目の方が、指揮者とオーケストラの肩の力が抜けて、全体の印象は変わらないものの、より伸びやかでより豪快な演奏に仕上がっていたように感じられた。終演時のフルシャがより満足そうにしていたのも2日目であった。ただ、1日目のように、指揮者とオーケストラに少し緊張感があった方が、音楽にも緊張感があり、それが良く作用していた部分もある。どちらがいいとは一概に言えないが、個人的には、2日目のより天真爛漫な演奏の方が好みだったように思う。