日本の天皇皇后両陛下の訪英のニュースが盛り上がっているが、英国がロンドンのロイヤル・オペラが来日している。このカンパニーを率いるパッパーノは2002年から20年以上にわたり音楽監督を務めているが、今期を限りに退任し、フルシャにその座を譲るという。持ってきた演目はヴェルディの「リゴレット」とプッチーニの「トゥーランドット」の二つ。正直、高すぎて手を出さずにいた公演であったが、神奈川のマチネーのみややお値段はリーズナブル。たまたま予定をやり繰りできたので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、なぜか不機嫌そうな上司から休暇を取得し、やはり清水の舞台から飛び降りる覚悟で残っていたわずかなチケットのうち1枚を取得して足を運んでみた。パッパーノ長期政権の有終の美を目撃できるだろうか。

 

6月25日(火)神奈川県民ホール

ヴェルディ 「リゴレット」

 

マントヴァ公爵 ハヴィエル・カマレナ

リゴレット エティエンヌ・デュピュイ

ジルダ ネイディーン・シエラ

スパラフチーレ アレクサンドル・コペツィ

マッダレーナ アンヌ・マリー・スタンリー

モンテローネ伯爵 エリック・グリーン

ジョヴァンナ ヴィーナ・アカマ=マキア

マルッロ ヨーゼフ・ジョンミン・アン

マッテオ・ボルサ ライアン・ヴォーン・デイヴィス

チェプラーノ伯爵 ブレイズ・マラバ

チェプラーノ伯爵夫人 アマンダ・ボールドウィン

小姓 ルイーズ・アーミット

門衛 ナイジェル・クリフ

ロイヤル・オペラ合唱団

アントニオ・パッパーノ/ロイヤル・オペラハウス管弦楽団

 

演出はオリバー・ミアーズによるもの。大きな絵画を背景に用いるなどしつつ、舞台自体はオーソドックスな美しいものであるが、暴力的なシーンや性的シーンがあるので、本国英国では12歳以上限定とされているとのこと。「リゴレット」は元々血なまぐさいドラマであるが、確かに、モンテローネ伯爵を執拗に短剣らしきもので突き刺す場面など一部必ずしも必要と思えない暴力的なシーンがあったが、欧州の過激な演出の数々を思うと、そのレベルはかわいいもの。他にも、マッダレーナとマントヴァ公爵の性的な行為を暗示するような演技もあり、要するに、全体的に美しくセンス良く作り上げているものの、一部、香辛料のようにエロ・グロを効かせるという、美しさと刺激をバランスよく配置した演出ということが出来るであろう。演出にはほとんど違和感はなかった。

 

ロイヤル・オペラは評価が難しいカンパニーで、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ドレスデンのゼンパー歌劇場、バイエルン国立歌劇場など欧州の主要なオペラ・ハウスに比べると、オーソドックスな演出とスター歌手を集めているものの、オーケストラや合唱団が特に優秀という印象はない。むしろ、ややオーケストラなどは見劣りするくらいだが、大国英国で一番手のオペラ・ハウスということで、こちらは世界有数という形容詞が相応しいロイヤル・バレエがあることもあり、その知名度は高い。音楽監督として長期政権を担っているパッパーノは、名前はイタリア系であるが、英国出身の指揮者で、ベルギーのモネ歌劇場からロイヤル・オペラに転じた(モネ歌劇場の後任は我らが大野和士)、ある意味では歌劇場の叩き上げである。あまり個性を出すタイプの指揮者ではないが、演出の傾向と同様に、オーソドックスに手堅くオーケストラをまとめ、歌手にもよく合わせられるまさに劇場人である。

 

パッパーノの指揮は重さはないが、冒頭からオーケストラを上手に鳴らし、雰囲気を作ることに長けている。ロイヤル・オペラのオーケストラも、ワーグナーなどを映像で観ると、少し非力な感じもするが、恐らく弾き慣れているであろうヴェルディは身の丈が合っているのかなかなかしっかりと弾いている。パッパーノの熟達したタクトの下で声楽とのバランスも精妙に取られており、音楽を盛り上げつつ、声楽の邪魔には絶対にならない、実に巧みなバランスである。リゴレットという重苦しい悲劇には、もう少し劇的に、重く演奏してもいいようにも思うが(そのような演奏の方が好みではあるが)、実際に劇場で聴くには実に聴きやすいバランスであった。なお、神奈川県民ホールは存外音響が良く感じられた。

 

歌手の中では圧巻であったのは、下馬評も高かったジルダを歌ったネイディーン・シエラである。第1幕で帰宅したリゴレットとの絡みで第一声を出した瞬間から客席を魅了した。当たり役であるというが、よく響く、豊かな声量と安定したテクニック、何よりジルダを歌うのに相応しい清涼感のある声質と、初々しさを上手に表現した演技、(遠目に見た限りでは)その容姿もジルダにピッタリである。声量でリゴレットを圧倒してしまう瞬間が何度かあったが、シエラの熱唱に刺激を受けてリゴレット役のデュピュイも声量が上がったので、そういう意味でも公演の質を上げていた。しかし、何より長大なアリア「慕わしき御名」を実に見事に、かつ、魅力的に、恋に揺れる乙女の心を等身大に表現していたのには圧倒された。シエラは、若い頃に、マントヴァ公爵のようにいろいろと背景を隠した男性との恋で失敗したことがあり、ジルダの気持ちには強く共感できるとインタビューで語っているが、そういった実体験が奏功しているのかは分からないが、非常に心のこもった歌唱であった。最後までシエラが歌うと舞台が華やぎ、公演のレベルまで上がるような、独特の存在感があった。

 

リゴレット役のデュピュイは、それほど特徴のある歌手ではないが、温かみのある豊かな声量で、この諧謔的な道化の悲劇を表現していた。道化というよりも、一人の父親としての心情表現がより前面に出ていたように感じられたが、宮廷での傍若無人な振る舞いを自らは忌諱しつつ、立場上、周囲が嫌がる行動をとっているリゴレットの苦悩は、何やら現代企業の中間管理職を思わせ、そういう意味ではリゴレットが現代的な主題として表現していたようにも思われる。最初は少しインパクトが薄い印象であったが、ジルダと絡みだした辺りから急に人間的に深みを感じさせるようになり、第2幕からはどんどん表現に劇性が加わり、なかなか聴かせてくれた。第2幕で、宮廷の廷臣達に娘を返してくれと懇願したり、凄んだりするところなど、娘を心配して揺れ動く感情の中で、職場でもある宮廷で周囲を相手する現実との折り合いを必死に付けている様子を迫真の演技で表現していたし、第2幕最後の復讐の歌も、ジルダが止めるのも一切耳に入らない、怒り狂ったような勢いのある歌唱が素晴らしかった。復讐の歌は、最後にジルダが高音を出し、シエラがなかなか力強い声を出して客席を圧倒したが、その直後に、デュピュイもふわっと声量を上げて、リゴレットの存在感も出して第2幕を終えるなど、なかなか芸も細かい。

 

マントヴァ公爵役のカマレナは、ややずんぐりした小柄な体格ながら、陽気で女好きで我がままで、しかし不思議と人に嫌われないという好人物を上手に演じていた。声はマイルドで美しいが、あまり強烈な印象があるタイプでもない。全体的に単なる好人物といった感じで小さくまとまっていたし、有名な「女心の歌」なども、もう少し突き抜けるようなパンチ力があればとも思うが、癖のない透明感のある声が好印象でもあり、全体的に無難な仕上がり。

 

スパラフチーレとマッダレーナの兄妹はどちらも強い存在感はないが、歌も演技も上手で、第3幕の有名な四重唱でも、他の歌手に負けずに存在感を放っていた。モンテローネは、少し声質が高く聴こえる歌手で、もう少し地の底から響くような呪いの言葉が聴きたかったが、それは欲張りというものだろう。

 

ロイヤル・オペラ合唱団は、演技は非常によく訓練されており、さすがは合唱大国の英国の一流が揃っているだけあり、ハーモニーも水準が高く、練り上げられたアンサンブルで表情豊かに力強く歌っていた。特に、第1幕の最後や第2幕の最初の部分の男声のみの合唱部分の水準が高く光っていた。

 

全体的にジルダが主役かと思うほどシエラが目立っていたが、リゴレット役のデュピュイも善戦しており、水準の高い公演であったと思う。パッパーノの指揮も水準が高かった。強烈な印象を与えるというものではないが、何か良質な舞台を観たという気持ちにさせてくれるし、やはり天下のロイヤル・オペラは良質の歌手を連れて來るとも思ったところ。欧州の本場に行ってオペラを観たいという気持ちにさせられてしまう。

 

しかしながら、いつ観てもリゴレットは不思議な話である。マントヴァ公爵に酷い目に合わされたモンテローネ伯爵の呪いはなぜかリゴレットだけに効果を生じる。純情な乙女のジルダは、百戦錬磨のドン・ファンのマントヴァ公爵に、裏切られていることも、報われないことも分かりつつ、初恋の一途さからか、一方的な献身的な愛情を捧げ、自ら犠牲になる。権力を持ち、色事にも順調なマントヴァ公爵だけが何もないまま、陽気に楽しく生き延び、道化の恵まれないリゴレットは、仕事柄周囲を馬鹿にしたせいか、ひたすら不幸になる。何ともやり切れない。しかし、鈍感力の強い上司が元気に順調に行くのに、その下にいる中間管理職は辛い思いばかりして不幸になるというのは、現代社会でもよくある話かもしれない。恵まれる者がより富み、恵まれない者がどんどん不幸になっていく、いわば不幸のスパイラルを描いたオペラと考えると、人間社会に普遍的なものを描いているのかもしれない。

 

公演が終わったところで、職場の同僚から、ちょっと悪いことが起こったので、翌日に相談したいというメールが入っていたのを見て一気に現実に呼び戻された。マントヴァ公爵ではなく、よりリゴレットに共感しつつ劇場を後にした。

 

とはいえ、パッパーノ政権はなかなか充実した果実を産みだしていたのではないだろうか。