本年限りでの引退を表明している井上道義の快進撃が続いている。かつて音楽監督・常任指揮者を務めた京都市交響楽団の定期演奏会に登場するというのだが、その演目が凄い。得意のショスタコーヴィッチでプログラムを固めたのはいいのだが、チェロ協奏曲1番と2番に交響曲2番という不思議な組み合わせ。ただし、チェロの独奏をロシアの名手クニャーゼフが務めるというし、合唱まで動員する交響曲2番はそう滅多に実演で聴けるものではない。京響は聴いたことないし、週末だし、ついでに観光で行きたかった場所もあったので、週末京都遠征に出掛けることにして、足を運んでみた。

 

6月22日(土)京都コンサートホール

ショスタコーヴィッチ チェロ協奏曲1番

ショスタコーヴィッチ チェロ協奏曲2番

ショスタコーヴィッチ 交響曲2番「十月革命」

アレクサンドル・クニャーゼフ(VC)

京響コーラス(合唱指揮:福島章恭)

井上道義/京都市交響楽団

 

なお前日の金曜の夜には休憩なしでチェロ協奏曲1番と交響曲2番のみを演奏したとのこと。チェロ協奏曲を1番と2番と続けて演奏するというソリストも凄いが、こんなプログラムを考えた井上も凄い。2時半開演で、当初は2時からプレトークがあると予告されていたが、開演10分前の2時20分に変更になったとホームページで訂正が入っていた。京都コンサートホールは京都駅から北に20分弱地下鉄に乗った北山駅の近くにある。古いホールであるが、オルガンも備えた立派なホールでロビーも広々としていて素敵だが、古いせいかお手洗いなど数が少なく混雑する。なお、このプログラムでも完売御礼というのが引退前の井上人気の凄さである。もちろん、京都の井上ファンのみならず、全国からショスタコーヴィッチ・ファンも駆け付けたであろう(DSCHと作曲者のイニシャルを大きくプリントされたTシャツを着た客もいた)。

 

プレトークでは、客を増やすためにどれだけ苦労したのかなど、京響との思い出を話しつつ、昔からの知り合いだというクニャーゼフについて紹介していた。素晴らしいチェリストであるが、政治的には辛い立場とのことで、今回も自分の楽器の持ち出しを許可されず日本で楽器を借りて演奏するという。大きな音の出る楽器だから安心してもよいとも言っていた。チェロ協奏曲2番について、ふざけた曲だが、ソ連の物売りの掛け声のようなものが引用されている話など、愛情に満ちたコメントを挟みつつ、紹介していたし、交響曲2番については、歌詞をきちんと読んでもらいたいといい、プログラム冊子以外にも、大きな文字で対訳を記した紙も配られていた。指揮者の希望が全て叶えられている。これはもはや、ショスタコの、ショスタコによる、ショスタコのための演奏会である。いや、道義の、道義による、道義のための、演奏会というべきか。やりたい放題とはこういうことだろう。

 

さてまずはチェロ協奏曲1番である。大柄なクニャーゼフが登場した。クニャーゼフはロシアを代表するチェロ奏者だと思うが、意外に録音は少ない。ドヴォルジャークのチェロ協奏曲やラフマニノフのチェロ・ソナタの録音などを聴いたことがあるが、ショスタコーヴィッチはチェロ・ソナタとヴィオラ・ソナタのチェロ用編曲を弾いているし、ベレゾフスキーなどと組んだラフマニノフとショスタコーヴィッチのピアノ三重奏曲集はなかなかの名演である。派手に弾くよりも、内面に沈んでいくような、独特の嫋々として抒情性が特徴かと思っていたが、ショスタコーヴィッチのチェロ協奏曲をどのように料理するか。

 

前日も演奏していたはずのチェロ協奏曲であるが、1楽章はやや大人しく始めた。井上指揮する京響も慎重に始める。クニャーゼフは、どのようなパッセージも軽々と弾いてしまうのだが、とにかく全体的にレガート気味に弾く。弓の扱いが驚くほど巧みで、全ての音をなだらかにスムーズに弾けてしまう。ショスタコーヴィッチのチェロ協奏曲なんて、音を短く切って、リズミカルに弾くのだろうに、そのあまりのスムーズさに驚く。1楽章は少々おとなしい印象だったが、2楽章は徹底的に歌い込んでいて、驚くような抒情性を湛えていた。レガート気味の弾き方、内面に沈殿していくようなクニャーゼフの音楽性の全てが、この2楽章と合致していたのだろう。驚くような美しさと、ほんのり香り立つ悲しき抒情、涙腺が緩むタイプの演奏である。続くカデンツァも技術的には軽々と弾いているが、その音楽は暗く、重く、そして深い。終楽章は、調子が出て来た京響ともども抒情的ながら豪快に弾き切っていた。凄い演奏である。

 

20分の休憩を挟んでチェロ協奏曲2番となる。体力のあるロシア人ならではの大技である。2番の方がクニャーゼフの芸風には合っていそうであるが、井上の指揮も2番の方がより感情移入されていた。冒頭の低弦のうねるような動きから、何やらただならぬ緊張感を孕む。素晴らしい演奏ではあったが、クニャーゼフの入り込んだような抒情的な演奏が、この曲の曲調と合い過ぎてしまっていて、あまりにも渋く内面的な音楽になっていて、聴いていて少し辛く、痛々しくも感じられた。ショスタコーヴィッチは何を思ってこの諧謔に満ちた、不思議な抒情的な作品を作ったのだろうか。先日、井上指揮する日フィルと佐藤晴真が演奏した際には、いろいろと面白く聴かせる工夫が感じられたが、このクニャーゼフの演奏は、全てにおいて自然体で、ただそこから立ち上る雰囲気が全くもってソ連において生きることの困難さと、そこにしぶとく生命力豊かに生き抜く人々を描いていたように感じられた。まさに本場の空気を知っている強みだろうか。アンコールは無伴奏チェロ組曲3番からサラバンドであった。2曲のチェロ協奏曲を弾いた後にさらにアンコールを弾いてくれる体力も凄いが、このサラバンドがまた心に染みわたる素晴らしい演奏であった。2回バッハの無伴奏を録音しているというのは伊達ではない。最後のショスタコーヴィッチのチェロ協奏曲の共演にクニャーゼフを選んだ井上の気持ちはよく分かる。

 

続いて舞台の後方に混声合唱が入っての交響曲2番となる。若き作曲家が最もアヴァンギャルドに走った作品であるが、まだレーニンが亡くなって3年というスターリン体制が固まる前の自由な空気のあった時代(井上のプレトークでは、警察も裁判所もきちんと機能していない何でもありの自由な時代とのこと。)にまだ20歳の若きショスタコーヴィッチに十月革命10周年として委嘱された作品であるとのことである。合唱こそレーニン賛歌となっているが、音楽は実に自由で前衛的で尖っている。そう、最後の合唱さえ体制に迎合的であれば、何をやってもいいじゃないかという、そんな自由な空気が感じられる。

 

井上道義は、この交響曲2番を2回録音しているが、日比谷公会堂での全曲演奏の際は、サンクトペテルブルク交響楽団を起用し、もう一度、大阪フィルとも録音している(2番と3番というマニアックな1枚)。今回は、京響を起用したのはなぜか。それは演奏が始まるとすぐに分かる。京響は決してパワーフルでも、(失礼ながら)凄い腕利きでもない。ただ、演奏が非常に丁寧で真摯である。そんな京響が、分かりにくい若きショスタコーヴィッチのスコアに真剣に取り組んでいるのだ。冒頭の静かな細かい音型から、とにかく徹底的にきちんと弾こうとする。その集中力が、技術的に軽々と弾けてしまう団体に比べて、音楽に緊張感を醸し出している。その妙にきちきちとした音楽への向かい方が、アヴァンギャルドなショスタコーヴィッチのある種の格好良さを巧みに描き出していた。途中のヴァイオリン・ソロもコンサートミストレスの会田莉凡が生真面目ながら完璧なテクニックで弾いていて素晴らしい。何とも凄い音楽の密度の濃い、凝集した演奏になっていたのである。なるほど、井上はこういう2番を演奏したかったのかと、京響を起用した井上の慧眼に感服する。

 

合唱が入って来ても京響コーラスが力強く、また、非常によく練れた合唱で水準が高い。合唱指揮の福島章恭の名前は知っていたが、なかなか見事な指導をする人であると感心しながら聴いていた。ロシア語の発音もきちんとしているように感じられたし(ロシア語言語指導として、高橋健一郎という名前がプログラムに載っていた)、実に気合の入った合唱が、この曲の妙なテンションの高さに合致していた。歌詞の最後の1行は歌うというよりは叫ぶのだが、そこだけ合唱団が全員譜面を閉じて、楽譜を胸のところに抱えて叫ぶという素敵な演出もあり、最後まで感心し通しであった。やはり京都の文化の深さは侮れない。

 

正直にいって、ショスタコーヴィッチの交響曲の中でも随一のわけの分からなさがある交響曲2番ではあるが、こんな水準の高い演奏を実演で聴ける機会はそうはないだろう。京都まで足を運んだ甲斐があったというものである。井上は、もしかしたら、大阪フィルとの演奏が、上手すぎて、もっと一所懸命に必死で弾くような演奏をやりたかったのかもしれない。もう一度全曲の録音を出すという井上が、既に2回目の録音のあるこの2番をもう一度出すつもりがあるか(レーベルの真意も)は分からないが、これは掛け値なしの名演であったので、是非とも商品化をお願いしたい。

 

引退までの2024年もそろそろ折り返し地点に来ているが、益々の井上道義の快進撃を今年は楽しみにしたい。