6月のN響のB定期には鈴木優人が登場し、オール・ウィーン・プログラムを指揮した。シェーンベルクとウェーベルンという新ウィーン楽派の作品と、シューベルトという旧ウィーン楽派(?)の作品を並べている。シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を聴いてみたいと足を運んでみた。

 

5月20日(木)サントリーホール

ウェーベルン パッカサリア

シェーンベルク ヴァイオリン協奏曲(独奏:イザベル・ファウスト)

バッハ(ウェーベルン編曲) リチェルカータ

シューベルト 交響曲5番

鈴木優人/NHK交響楽団

 

最初はウェーベルンのパッカサリア。ウェーベルンの「作品番号1番」であるが、まだ十二音技法での作曲を始める前の作品であるが、10分強の作品である。パッカサリア様式で書かれているので、一つの音型が通奏低音のように繰り返され、それに様々な素材が乗せられていく。若書きの作品ながら、作曲技法は高く、編成の大きい管弦楽を駆使した佳作である。鈴木指揮するN響は落ち着いたゆったりとしたテンポで演奏を始めるが、徐々に熱力を増していき、最後はかなり熱っぽい演奏になっていた。ただ、あまり音響が整理されておらず、音が複雑に絡み合っているところは、やや雑然と各奏者が演奏しているところがあり、ゴチャゴチャした印象もあった。音楽の自然な流れを重視して、あまり手を加えないということだったのかもしれないが、ウェーベルンのような作曲家の作品であれば、もう少しバランスを整えて、声部を整理し、音楽の構造が分かるように演奏してもらいたいように思う。我々は既にブーレーズを経験してしまっているのだから(別にブーレーズ風に演奏してもらいたいという訳ではないが。)。

 

続いてシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲である。アメリカに亡命し、カリフォルニアに居を構えたシェーンベルクが自発的に1936年に作曲したそうである。独奏が非常に難しいとのことで、作曲者は初演をハイフェッツに依頼したものの断られたとか。弾けないというよりも、曲調がハイフェッツに向いた作品とは思われないので断ったのだろう。結局、ベルクのヴァイオリン協奏曲を初演したクラスナーが初演したという(共演はストコフスキー指揮するフィラデルフィア管)。クラスナーは新ウィーン楽派の盟友というべきヴァイオリン奏者で、ウェーベルン指揮でベルクのヴァイオリン協奏曲の録音が残っているし(ロジンスキとも録音している。)、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲もミトロポーロスと録音している。最近人気が上がって来ているようで、今回演奏したファウストのみならず、ヒラリー・ハーンも録音しているし、随分前だがコパチンスカヤを独奏に、どこだったかのオーケストラが演奏していた(詳細は忘れたが、忙しい時期だったので、仕事の合間を縫って当日券を買って行こうと駆け付けたら、既に完売で、悲しい思いでサントリーホールからとぼとぼと職場に戻った記憶がある。)。

 

ということで、実演を聴きそびれたこの曲を、シェーンベルク生誕150年ということもあるのだろう、イザベル・ファウストという大物を迎えてN響が取り上げてくれたことは嬉しい。演奏から生真面目な印象があるが、舞台上のファウストは比較的おおらかな雰囲気で、出てくるだけで場が和む。譜面台を置いて演奏していたが、とにかくヴァイオリン独奏の完璧な仕上がりが素晴らしい。ファウストのヴァイオリンは、細部まで手堅くきっちりと仕上げられており、歌心はあるが、それが比較的さばさばしていて、ウェットさはない。あまり感情移入をするタイプではなく端正な演奏をする。ベルクのような匂い立つロマンティシズムのようなものがある作曲家だと、ファウストの演奏は健康的に過ぎるように感じられていしまうが、あまりウェットなところはないシェーンベルクの作品には、その怜悧で端正な演奏がよく合う。あまり馴染みがあるとはいえないシェーンベルクの作品を、淡々と、しかし技術的には最良のレベルで再現してくれた。

 

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲は、古典的な3楽章構成で、ヴァイオリンと管弦楽の扱いなどもかありオーソドックスながら、十二音技法を使って作曲されており、正直、それほど耳に聴きやすい音楽でもない。演奏中に出て行った客が何人もいたので、耐えられなくなったのだろう。また、周囲の客もかなり睡魔に負けていたようで、そこかしこから寝息が聴こえて来て、少し集中力を削がれたが、ファウストの独奏の凄さに注目していると目が離せず、40分弱の作品ながら長いと思わずに聴けた。曲は確かによく分からない曲であり、ちゃんと聴き込んでからいけばよかったとほぞを噛んだが(最近そういうことが多い・・・)、演奏の力でそこは楽しめた。

 

ただし、鈴木の指揮するオーケストラは、やはり熱っぽく演奏しているが、全体的には整理不足の感がある。もちろん、ブーレーズ以前は多少雑然とした演奏もあったようであるので(例えば、ウェーベルンの指揮もそれほど整理している感じはないし、シェルヘンなどもやや雑然とした響きを出すこともある。)、もしかすると、鈴木流のピリオド・アプローチなのかもしれないが、より洗練された演奏を聴き慣れていると、何ともこなれていない音響に聴こえる。鈴木の指揮技術がまだその域に達していないということなのか、N響が言うことを聞いてくれないのか、あるいは敢えてそのような解釈なのかよく分からないが、ゴチャゴチャした音響を、もう少し整理して曲の構造を明確にしてもらいたかったし、必ずしも音量の大きいわけではないファウストの音をオーケストラがかき消してしまう部分も散見されたのも残念であった。ということで、ひたすらファウストの独奏に拍手した演奏であった。アンコールはルイ=ガブリエル・ギュマンの無伴奏ヴァイオリンのためのアミュズマンから Altroとのこと。軽快で爽快な舞曲風の曲で、ファウストのスピード感のあるノリノリの演奏が素晴らしかった。

 

後半はまずバッハの「音楽の捧げもの」から6声のリチェルカータをウェーベルンが管弦楽編曲したもの。経済的に困窮していたウェーベルンがアルバイト的に行った編曲であるというが、バッハを編曲しようとすると、普通は各声部を一つ一つ各楽器に振り分けて、対位法的な効果が音色の違う楽器で視覚化されるように編曲しそうなものなのだが、そこはウェーベルンである、一つの声部の途中でどんどん楽器が変化していき、その旋律がぶつ切りにされ(もちろん、プロが演奏すれば、楽器間でちゃんと受け渡されてはいるのだが)、断片化され、点描化される。何か、ボソボソと呟いているような不思議なバッハになる。このリチェルカータはウェーベルン自身の指揮した音源も残されており、楽器がどんどん変化することで、バッハの対位法的な音楽が解体され、その瞬間瞬間の響きが強調されるようで古いが面白い演奏である。バッハを音列としか見ていないのだろう。そのような曲を、バッハ・コレギウム・ジャパンの首席指揮者でバッハ経験の豊かな鈴木優人が振るというのであるから何か期待は高まるが、鈴木の解釈は、ややバッハの方に引き付けられた流麗な演奏で、解体されたようなオーケストレーションを、改めて旋律を結び直し、バッハらしく演奏していた。ただ、その作業がかえってウェーベルンの管弦楽編曲の妙を照らし出しているようで、どこで敢えて楽器を変えたのかなどが視覚化され、なかなか面白い演奏となっていた。ある種の逆転の発想に結果的になっていたのかもしれない。

 

最後はシューベルトの交響曲5番である。ウェーベルンはシューベルトの舞曲も管弦楽編曲しているので今回のプログラムは常にウェーベルンがキーワードとなっている気もするが、鈴木は読響とも8番「グレート」を演奏していたので、シューベルトに力を入れているのかもしれない。ピリオド派はシューベルトが好きらしく、アーノンクール、ブリュッヘン、インマゼール、マナコルダなど交響曲全集を録音している名匠も多い。「未完成」と「グレート」に次いで演奏されることが多い5番であるが、作曲家が19歳の頃の作品であり、可愛らしさのある優雅な佳作である。割とシンプルで演奏がよくないとあまり面白くないところもあるのだが、鈴木指揮するN響は、もちろん抜群に上手でアンサンブルも完璧なのだが、鈴木が指揮した場合に読響であればかなりピリオド奏法に近付き、鋭角的な、切れ味の鋭い音色を出すのであるが、N響は、N響としてはピリオド的な弾き方になっていたかもしれないが、割といつもの感覚で弾いていたようであり、弦楽器のリズムが重めで、全体的に軽快さや切れ味には乏しかった。要するに重ったるい演奏であったのである。3楽章や4楽章では、その重さが迫力に転じていたので、それほど悪くはなかったが、1楽章は何となく優雅さよりも愚鈍な感じになってしまい、2楽章も軽やかな美しさというよりも、妙な重ったるさがあまりシューベルトらしくない気がした。ヤノフスキとあれほど鋭く引き締まったシューベルトを演奏したN響であるが、まだ鈴木の意思が貫徹されていないのか、あるいはN響のようなスーパー・オーケストラ相手であれば、このような重厚な演奏をしたかったのだろうか。いずれにしても、シューベルトについては、ちょっと違うなあという感想が残った。

 

これでN響の定期演奏会のシーズンは終わりのはず。途中いろいろと演奏会はあるようだが、N響には9月から新しいシーズンに向けて夏に充電をしておいていただきたい。