クロアチア出身の個性派ピアニストのケマル・ゲキチであるが、フロリダ在住であるが武蔵野音大の客員教授をしているそうで、定期的に日本で演奏会を開く。ブーニンが優勝した1985年のショパン・コンクールで個性的な演奏に審査が分かれてしまい、ファイナリストに選ばれなかったが、それに抗議した審査員が次々審査員を辞退したという事件があったとか。同じ旧ユーゴスラヴィア出身のポゴレリッチにも似たような話があるが、確かにその個性的な演奏には刮目すべきものがある。あまりこのピアニストのことは知らなかったのだが、少し前にたまたま聴いたリストのピアノ協奏曲集の録音が個性的ながら素晴らしく、すっかり気に入ってしまった。聴き逃す手はないと思っていたのだが、6月5日の東京公演はどうしても都合がつかず、諦めていたのだが、たまたま福島市でも同じプログラムで演奏会を開くことを発見。福島は遠いが、ついでに温泉にでも入って日頃の疲れを癒してくれば一石二鳥かと思い、遠征して足を運んでみることにした。

 

6月8日(土)ふくしん夢の音楽堂

ショパン ノクターン2番、ワルツ1番「華麗なる大円舞曲」、ワルツ6番「子犬のワルツ」、幻想即興曲、前奏曲15番「雨だれ」、舟歌、ポロネーズ6番「英雄」

リスト 愛の夢3番、3つの演奏会用練習曲3番「ため息」、リゴレット・パレフレーズ、ハンガリー狂詩曲2番

ケマル・ゲキチ(Pf)

 

まず福島市の音楽堂であるが、福島駅からはちょっと離れたところにあり、連続テレビ小説で取り上げられた福島出身の古関裕而の記念館の隣にある。外から見ると割と地味な印象のあるホールであるが中は青いタイル張りの壁が特徴的でかなり美しく、それほど大きくはないが、パイプオルガンもある。なお、今年が開館40周年であるという。音響は、タイル張りのせいもあるのか、西欧の教会のような音響をイメージして設計されているのか、かなり残響が長く、そこが好みを分けそうである。後ろの方の客席は売り出していなかったようで、前の方に客が詰め込まれていたが、まあまあの入りである。「鬼才降臨」と書かれた派手なチラシにどれほどの集客力があったのか分からないが。なお、この福島市の音楽堂の次の公演予定はこちらも別の意味で「鬼才」というべきモルゴーア四重奏団であった。もしや福島県民は鬼才好き?

 

ゲキチはトレードマークの長髪を後ろでくくり登場するや、いきなりマイクを持って英語で話し始める。通訳はなし。福島の人は英語力が堪能なのだろうか。最初に、1989年の日本で初めて演奏会を開催したのが、この福島の音楽堂であり、これまで4回演奏会を開いてきたが来るたびに懐かしい気持ちになるといったことを述べた後、今回のプログラムでは、ショパンとリストの作品を演奏するが、19世紀の演奏会では、ピアニストは即興的に曲に改変を加えたり、曲を弾き出す前に即興的なパッセージを入れたりするのが慣習であったので、それをこの21世紀に再現したいと述べていた。アメリカ在住ということで、比較的聞き取りやすい英語ではあったが、ホールの残響もあり、正確には聞き取れなかったが、大要は、そんな感じであったと思う。

 

前半はショパンの名曲が並ぶ。ただし、そこはゲキチのこと、当然に一筋縄にはいかない。最初のノクターンから弾き始める前に不思議な前奏が入る。即興で弾いているのか、事前に作曲して準備して来ているのかはよく分からないが、何となくホール内の雰囲気を整え、ピアニスト自身の気持ちを高めて、気が整ったところで弾き始めているような感じがあった。確かに、例えばヨーゼフ・ホフマンの古いライブ録音などを聴くと、謎めいたイントロが入ることがあり、このような即興的なイントロを入れるのは19世紀的な習慣なのかもしれない(行ったことはないが、ポップスのコンサートなどでも曲に入る前にベースやドラムがリズムを刻んだりすることがあるのだと思うが、それと同じか。)。ゲキチの場合は、適当に無造作に弾いているようでいながら、一応、その後に演奏する曲のメロディを少し予告したりしており、何か面白い。

 

そして、肝心の曲の本体であるが、ゲキチの演奏はとにかく自由で奔放である。ペダルは割と使うし、会場の残響が長いので、音が濁ってしまうこともあるが、そんなことは構いもせず、高音域の弱音が鐘のような信じられないほど美しくコントロールされているのに対し、鳴らすところの思い切りのいい強烈な打鍵との表情の幅が異常に大きい。多少のミスタッチは気にせずに、思い切りスピードを上げたり、急にゆったりとして繊細に歌い込んだりもする。何か深い洞察があって解釈をこねくり回してやっているというよりも、ゲキチが素直に解釈したらこうなったという自然さがあり、かなり変態的な解釈・演奏なのだがすっと受け入れられる。このピアニストはとても素直な人なのだと思われる。

 

ゆったりと歌う有名なノクターンはかなり即興的な装飾音や重音によるスケールのようなパッセージを入れ込んでいたし、「華麗なる大円舞曲」も、リズムを変幻自在に変化させつつ華麗に演奏し、小粋なイントロを付けた「子犬のワルツ」は、いたずら小僧のように無邪気に猛烈なスピードで弾きぬけ、幻想即興曲は、ゆったりとしたところをねっとりと歌わせつつ、右手の速いパッセージのテンポが実に自然に揺らされる。そして、「雨だれ」は再弱音を駆使してしっとりと歌い上げる。ゲキチにしてはさっぱりとした印象の舟歌を経て、最後の「英雄」ポロネーズは強烈な打鍵を駆使して物凄い迫力と振幅の大きい演奏で圧倒する。中間部の下降音型が再弱音から最強音まで盛り上がるところは、まるで「ローマの松」のアッピア街道を彷彿とさせるほどの迫力である。45分ほどの前半のショパンであるが、正直ショパンはいつも連続して聴いていると途中から飽きてくるのだが、ゲキチの演奏には、次にどんな技が繰り出されるのか、どう料理するのかワクワクしっ放しで全く退屈させられることなかった。いやはや「鬼才」である。

 

後半はオール・リストとなる。ゲキチのピアニズムは、ショパンも悪くないが、よりリストにおいてその本領が発揮されたように思われた。元から演出過剰なリストについては、ゲキチはあまり即興的な変更はあまり入れず、むしろ曲の面白さを実に表情豊かに描き出す。後半最初の「愛の夢3番」は実に感興豊かに歌い込む。そして、派手な装飾音やアルペジオなどは、思い切り派手に表現する。元が歌曲というこの作品では、ピアノがメロディに思い切り味付けをしており、その派手なピアニズムについ耳が行ってしまうが、ゲキチの場合には、大きな歌曲のうねりの中に、スパイスのように超絶技巧を入れてくる。音楽の骨格が非常にしっかりと作り上げられていて、それを超絶技巧で包み込んでいるのである。派手で激しいのに、実に愛らしい「愛の夢3番」である。次の「ため息」も、静かに始めつつ中間部では、ミスタッチも厭わず、猛烈な勢いで派手にピアノを打ち鳴らす。ホールの残響の長さもあり、会場全体がピアノの和音に埋め尽くされるような、強烈な迫力で、その力強さ、思い切りの良さに圧倒される。音楽の起伏を付けるために、ここは思い切り派手にやりたかったのだろうと思うが、そういう時の思い切りの良さは圧巻である。打鍵は強いが、決してガツンという感じではなく、ピアノを鳴らし切るような音量の大きさである。圧倒された。

 

続いてリゴレット・パラフレーズになるが、これはヴェルディの4重唱で本当に4人が歌っているように各旋律を歌い分ける。恐らくゲキチはオリジナルのリゴレットをしっかりと把握し、4重唱の名場面での各登場人物の心理のアヤまでも理解した上で、それを精妙にピアノに移し替えていく。このように演奏されることで、リストの編曲の妙もよく分かる。本当に、オペラの一場面がそこで奏されているような気持にさせられるが、そこにゲキチならではの、少し芝居がかったような、演出やや過剰な濃厚な表情付けが付けられ、音楽が実に躍動的に立ち上がってくる。これは素敵な演奏である。

 

最後は有名なハンガリー狂詩曲2番となる。これは想像通りのやりたい放題の演奏で、速いところは思い切り派手に、ゆっくりのところは芝居気たっぷりにゆったりと歌う。テンポは伸び縮みし、静かなところは耳をそばだてないと聴こえないような再弱音を使ったかと思うと、ピアノが壊れるのではないかと思わせるような派手な轟音を響かせる。特に後半の畳みかけ方は半端なく、最早指の回りが演奏のテンポに付いていけていないのではないかと思わせるほど豪快に駆け抜ける。こんなに自由にやられたら、リスト自身が聴いても脱帽するのではないだろうか。圧巻であった。

 

ゲキチは割とお茶目なキャラクターで、聴衆の中に拍手しながら、帽子を振っている人がいると、自分の頭を指さして笑ってみせたり、立ち上がって拍手を始める客がいると、そちらを指さして嬉しそうに反応する。ちょっと拍手が少ないぞという身振りをして、大喝采を浴びるとアンコールを3曲やった。1曲目は一言「ショパン」と叫んで弾き出した、練習曲作品25の1番の「エオリアンハープ」で、これは奇を衒ったところは全くない、実に美しい演奏であった。続いてビティエールの「ダンザフェスティヴァル」という妙にラテン的なノリの楽しい曲が奏され、最後はバッハの狩のカンタータから「羊は安らかに草を食み」の編曲(有名なペトリ編曲であろうか)で徹底的に静謐な音楽を歌い込んで終わる。

 

ピアノ・ソロのリサイタルはずっと同じピアニストのピアノの音色を聴き続けるので、少し退屈することもあるが、ゲキチの演奏会は全く退屈するということはない。常にこのピアニストの繰り出すものに耳目を傾けていなくてはならない。まさに「鬼才降臨」である。

 

演奏会場ではCDやDVDを販売しており、終演後はサイン会もあったようである。売っていたのはゲキチ自身のレーベルから出しているものとのこと。最後はちゃっかりきちんと商売もしている。こんな楽しい演奏会を聴けるのであれば、福島まで行った甲斐があったというものである。