今年の年末での引退を表明している井上道義が都響の定期演奏会に登場し、都響を指揮した。得意のショスタコーヴィッチの6番と、ベートーヴェンの「田園」という「6番」プログラムである。今年はブルックナー・イヤーのはずだが、井上が、引退前のラストスパートで、ライフワークのショスタコーヴィッチを振りまくっているので、ショスタコーヴィッチ好きとしてはどうしても井上のショスタコーヴィッチを聴く機会が増え、結果的に何のアニバーサリーでもないがショスタコーヴィッチ・イヤーかの状況になっている。井上のショスタコーヴィッチは聴き逃せないし、やや演奏機会の少ない6番が演奏されるということもあり足を運んでみた。

 

5月30日(木)東京文化会館

ベートーヴェン 交響曲6番「田園」

ショスタコーヴィッチ 交響曲6番

井上道義/東京都交響楽団

 

前半はベートーヴェンの「田園」から。弦楽器を8-6-4-2型のかなり小編成にして対抗配置による演奏であった。コンサートマスターは4月に就任したばかりの水谷晃。編成が小さいなと思ったが、そういえば、井上はオーケストラ・アンサンブル金沢とも関係が深く、小編成のアンサンブルの扱いもお手の物である。それにしても、ハイドンやモーツァルトならいざ知らす、ベートーヴェンでここまで小さな編成とは強気である。ただ、演奏が始まると、井上の狙いがよく分かる。

 

まず弦楽器の人数が少ないので、かなり粒の揃いがいいのだが(逆に、ちょっとした縦の線のズレも目立つ。)、その精度で少しゆったりとしたテンポで、妙にくっきりと弾かせる。弾き流すようなところが皆無で、楷書体できちっと楽譜をなぞって弾かせる。その結果、小編成だからこそ、各楽器がどのように積み重なって和声が形作られて行っているのかが妙によく聴こえる。妙にクリアなベートーヴェンで、曲の構造を白日の下にさらしながら曲が進む。これは意外に面白い。編成が小さいので音に重さはそこまでないが、その分、機動力はある。しかも、人数が少ない分、各奏者が力一杯弾くので、決して迫力や音圧にも欠けるところはなく、文化会館のホールをきちんと音で満たしてくれる。弦楽器と管楽器で時々縦の線がズレていたのがご愛敬であったが、全体的に、小気味よい演奏だし、個々のパートの彫りが深く、くっきりと演奏しているので、特に管楽器のソロ部分がクリアに浮かび上がっていた。

 

楽器間の対話がよく表現されていた1楽章がなかなかアンサンブルが濃密で良かったのだが、秀逸だったのは2楽章で、冒頭の弦楽器による伴奏的音型から音楽が躍動していて表情豊かである。弦楽器が濃厚なら、管楽器も負けずと濃厚に表情を付け、最後のカッコウの声のようなソロ部分もなかなか思い切った濃い表情が付いていて聴かせる。3楽章は機動力豊かで重さはないが疾走感があったが、途中でいきなり追加の奏者が入って来て驚いた。確かに、そこまで出番がない楽器が幾つかあるのだが、トランペット、トロンボーン、ピッコロ(自信がないがティンパニも?)がいきなり途中で入って来て、舞台に向かって右手の後ろ(対抗配置になっているセカンド・ヴァイオリンの後ろの辺り)の空いていた席に一列に並んでこしかけて演奏し始めた。面白い演出である。4楽章は、激しい嵐というよりは、軽快に大雨を表現したような軽みがある中で、ティンパニなどを思い切り叩かせたりしている。どうしても、弦楽器の数が少ないので、響きは薄めになってしまうので、音のシャワーではなく、切れ味鋭い機動力の高い音の動きで激しい天候を表現する。聴き手よりも先に演奏している側が感動してしまったようになることもある5楽章も、そこまで感動的にするよりも、大雨のあとに、さっと太陽が差したような、すっきりとした平和で美しい音楽を目指していて感動を求めてベタベタとすることもない。表情は濃密なのだが、さっさと音楽を進めるのが功を奏していたのだろう。4楽章から5楽章に移るところのホルンがちょっとボロボロになってしまい可哀そうだったが、他にあまり大きく目立った瑕はなかった。なかなかの名演であったと思う。

 

よく考えると井上のベートーヴェンは初めて聴いたが、なかなか良く考えられていて面白く聴けた。井上のおおらかな音楽作りと曲の相性も良かったのだろう。この「田園」は客席も気に入ったようで、井上が前半が終わったところなのに、何度も呼び戻されていた。

 

後半はショスタコーヴィッチの交響曲6番となる。この作品は3楽章制であるが、ゆったりとして静かで内面的で長大な1楽章が曲の半分近くを占めており、それに軽めでテンポの速い、短めの2楽章と3楽章が続く。4楽章制の交響曲から1楽章を欠けさせた形式ではないかなどとも言われるが、かなり深みのある、沈殿していくような深さのある1楽章と、諧謔的なスケルツォ的な2楽章に、駆け抜けるプレストの3楽章と徐々にテンポを上げていき、最後は大騒ぎで終わるという、案外単純な構造であるともいえそうである。2楽章と3楽章は面白いが、1楽章の深みが今一つまだよく分からず、1楽章についてはあまり満足のいく演奏に出会ったことがないこともあり、必ずしも得意な曲ではなかった。しかし、今回の井上の指揮は非常に良く、この曲を実に表情豊かに聴かせてくれて、聴いていて全く集中力が途切れることがなかった。

 

インバルなども盛んに振っているためか、ショスタコーヴィッチの音楽には慣れている都響が井上との最後の共演ということもあって、渾身の力をふり絞って弾くので、実はかなりアンサンブルが難しいらしいこの交響曲6番を完全に正確無比に演奏していた。そのアンサンブルの練り上げの凄さ、演奏陣の集中力、弦楽器が細かい音まで精緻に弾くのも凄かった。なお、弦楽器は16-14-12-10-8型になり、対抗配置ではなく通常配置であった。1楽章は静かながら随所で不協和音が鳴り、不安定な情感が煽られる不穏な音楽であるが、音楽の起伏に寄り添って素直に演奏する井上と都響が、曲を実に分かりやすく解説してくれていて、非常に聴きやすい。なるほど、こういう曲であったのかという発見が多く、また語り口が上手く楽しく聴ける。やや単純化されていた気もするが、非常に聴かせ上手であり、それと同時に、これからソ連が戦争に巻き込まれるという時代背景と、交響曲5番で名誉回復したとはいえ、まだ不安定な立場にあったショスタコーヴィッチの心の揺らぎを見事に捉えた演奏でもあった。

 

2楽章は都響の演奏がやや生真面目過ぎる感じもあったが、とにかく演奏の精度が高く、鉄壁のアンサンブルに圧倒される。本気の腕利き集団都響のアンサンブル力は凄い(コンサートマスターが矢部達哉だったらより一体感があったかもしれないが、それでも凄い精度である。)。そして、ウィリアム・テル序曲のような軽快なリズムが特徴の3楽章も精緻なアンサンブルで展開させるが、曲の後半から最後で多いの盛り上がるところを、井上が少しコントロールを緩め、オーケストラのマグマを解放して、大騒ぎで終わった。その迫力は凄まじく圧倒的なエネルギーを照射していた。これはこの曲の圧倒的な名演であった。

 

どうも、エクストン・レーベルが井上にショスタコーヴィッチの交響曲全集を出そうと持ちかけているらしく(マーラーも全集にするつもりだとか)、井上がかなり戦略的にいろいろな曲を、適性のありそうなオーケストラを選んで振り分けている感じがする。大フィルと録音した、2番&3番、4番、7番と11番の録音がこの新しい「全集」に組み込まれるのかはよく分からないが、若き作曲家の暴走というべき4番は群響を振って渾身の熱演をしたし、1番と10番から13番は底力のあるN響を順次振ってきているし(既に10番が音盤化されている。)、12番は九響とも演奏した。今回取り上げられた6番は、何年か前に紀尾井ホール室内管を指揮して演奏してた記憶があるが、今回、この難曲を凄腕集団の都響で演奏した。8番はポリャンスキーの代役で指揮した新日フィルとの演奏が既に音盤化されている。5番と9番は読響と(5番は新日フィルとも)演奏していたし、2番は京響と演奏予定があり、14番はオーケストラ・アンサンブル金沢と演奏予定がある。11月には新日フィルと7番「レニングラード」を演奏するようである。3番と15番がどうなるのかよく分からないが、井上の演奏履歴を全て見ていないので、どこかで演奏していたのだろう。これだけショスタコーヴィッチを幅広く演奏してくれる井上の引退は、ショスタコーヴィッチ好きとしては残念だが、12月まで元気に予定を消化して、しっかりと井上のショスタコーヴィッチのベスト・オブ・ベストな全集を発売してくれることを期待したいところである。

 

それにしても、ショスタコーヴィッチの交響曲6番がこれほど素敵な曲だとは、その発見だけでも足を運んだ甲斐があった。やはり今の井上は絶好調である。