2026年に退任することが公表された音楽監督ノットと東響。これから総仕上げに入るということであろうか。その別離を予感させていたわけでもないだろうが、終曲の題名が「別れ」であるマーラーの「大地の歌」をメインにした演奏会を開催したので足を運んでみた。

 

5月12日(日)サントリーホール

武満徹 鳥は星形の庭に降りる

ベルク 演奏会用アリア「ぶどう酒」

マーラー 大地の歌

髙橋絵理(ソプラノ)

ドロティア・ラング(メゾ・ソプラノ)、ベンヤミン・ブルンス(テノール)

ジョナサン・ノット/東京交響楽団

 

武満、ベルク、マーラーと並べ、ベルクの「ぶどう酒」から第1曲が「酒興の歌」であるマーラーの「大地の歌」という酒精が前半と後半をつなぐという、いかにもノットらしい凝ったプログラムである。

 

最初の曲は武満の「鳥は星形の庭に降りる」である。武満らしい色彩感のある輝くようなハーモニーで、たゆたうような音楽が続く作品である。正直、苦手な武満の曲はよく分からないのだが、現代音楽を得意とするノットの演奏は細かく音楽の表情を変化させ、オーケストラの音色を精妙にコントロールし、楽器間のやり取りを明確にし、すっきりとしつつも、エッジの利いた、コントラストを強調したもので、非常に鮮烈な印象であった。やはりノットは凄い指揮者だなと思わされたし、こういう演奏で聴くと武満の曖昧模糊とした印象の音楽も、すっと耳に入ってくる。やはり曲はよく分からなかったが名演であったと断じて良いだろう。

 

続いてベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」である。未完に終わった「ルル」の作曲中に作曲された後期の作品であるが、プラハで訪れた実業家の家で振舞われた素晴らしいワインの思い出と、その実業家の妻との密かな恋(写真で見てもダンディなベルクは恋多き男であったらしい。)を背景に持つ作品であるという。ボードレールの「悪の華」のドイツ語訳詞をテキストに使っているという。「ぶどう酒の魂」「愛する者たちのぶどう酒」「孤独な男のぶどう酒」という酒飲みであれば共感してしそうなタイトルが並ぶが続けて演奏される15分ほどの作品である。

 

曲はベルクらしく12音技法を駆使した凝った作りで、ちょっと聴いて理解できるようなものではないのだが、その複雑なテクスチャーの中に、不思議なぬくもりと、ふんわりと漂うロマン性がベルクらしい佳品である。ソプラノの高橋絵理が歌っていたが、最初は少し声が出ていないようであったし、やや細身な声ではあったが、かなりテキストをしっかりと読み込み、細身の声をむしろ鋭い表現にも活用しつつ、なかなか表情豊かに歌っていて、聴いているうちにその声と表現力に引き込まれた。ノットも巧みに音楽の綾を作り出して万全のサポートをしており、これまた曲はよく分からなかったが、非常に優れた演奏であった。これも名演と断じていいだろう。ソプラノの高橋は二期会で活躍しているらしく、7月には蝶々夫人のタイトルロールに出演予定だという。今後注目したい逸材の予感がする。

 

休憩を挟んでマーラーの「大地の歌」である。2日前にカーチュンのマーラーの9番を同じサントリーホールで聴いたばかりであり、短期間にマーラーの最後の交響曲を連続して聴くという不思議な経験である。もっというと、少し前にインバル指揮の都響で10番のクック補筆完成版もあったし、昨年末にはルイージとN響で「千人の交響曲」もあった。何となくマーラー後期の作品が次々と演奏されているような印象だ(秋にはバッティストーニ指揮する東フィルの7番もある。)。

 

9番のジンクスに怯えたマーラーが「方違え」をするように敢えて交響曲と明記せずに作曲した「大地の歌」であるが、確かに、連作歌曲集とも、歌唱入り交響曲ともいえそうな不思議な作品である。この作品を範にしたと思われるショスタコーヴィッチの交響曲14番もほとんど連作歌曲集だ。もっとも、演奏時間や管弦楽の編成、曲の規模を考えると、単なる連作歌曲集というには巨大過ぎる。やはり交響曲なのだと思わざるを得ない。交響曲全集に入っていたり、入っていなかったりするのが、シベリウスの「クレルヴォ」と同様に位置付けが難しいのかもしれない。

 

マーラーを得意として既にバンベルク響とマーラーの交響曲全集を録音しているノットであるが、やはりマーラーへの適性は高いようで、第1曲の「酒興の歌」の冒頭から活き活きとホルンを響かせていた。テノールのブルンスは明るめの声で朗々と歌い始める。オーケストラの音量が大きめなので、時々、声が管弦楽に埋もれてしまう瞬間もあったが、なかなかの美声をよく響かせていた。この勇壮な第1曲は元々楽しく聴ける曲であるが、ノットの緩急をよく使い分けたメリハリの利いた指揮と、ブルンスの朗らかな歌唱でとても充実していた。

 

第2曲の「秋、孤独な男」はメゾのラングが歌う。ハンガリー出身というラングであるが、あまり特徴を感じない、いい意味でも悪い意味でも無難な印象の歌手である。ノット指揮の管弦楽部分は表情豊かなのだが、歌が声は悪くないものの、一本調子に歌ってしまっていて今一つ盛り上がらない。

 

このように全体的にブルンスが歌うと音楽が躍動して溌溂とするが、ラングが歌うと少し停滞するという繰り返しで、楽章の曲の性質もあるだろうが、聴いているうちに、最後の長大な「別れ」がラングで大丈夫だろうかと不安になった。結論からいえば、ノットの指揮が良かったのと、ラングの歌い方がある意味で妙な諦観のようなものを醸し出していたので、最後の「別れ」は意外に歌い方と曲が合っていたように思われたし、ノットが繊細にオーケストラをコントロールして静けさの中に、常に美を生み出そうとしていたところと相まって、全体としては悪くなかった。これは思いがけない化学反応である。もちろん、好みからすれば、もっと表情豊かにこの「別れ」を表現してもらいたいとは思うのだが。管弦楽だけであれば、かなりの名演の部類に入るように思われたが、歌手について課題があったのではないかと思われる。

 

今回改めてノットの能力の高さと、東響との関係の良さを実感した。退任までコロナ禍で実現できなかった積み残しの宿題(何度も裏切られたブルックナーの交響曲6番や、幻になった演奏会形式での「トリスタンとイゾルデ」など)をきちんとやって有終の美を飾ってもらいたいし、退任後も折に触れて振りに来てもらいたい。