日フィルの首席指揮者のカーチュン・ウォンはグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールに優勝したという。それがどんなコンクールであるかは知らないが、マーラーを得意としているようだ。大変評判がいいカーチュンだが、いつも凝ったプログラムの組み方には感心しつつ、その指揮については、どうも好みが合わないようで、あまり感心したことがなかった。マーラーは交響曲4番を聴いたことがあったが、これまたあまり好みの演奏ではなかった。どうも感性が合わないのかなと思いつつ、マーラーの交響曲の到達点である9番を指揮するというので、行くか悩んでいたが、どんどんチケットが売れていくのを見て、ついつい残り数枚のうち1枚を入手してしまい、足を運んでみた。

 

5月10日(金)サントリーホール

マーラー 交響曲9番

カーチュン・ウォン/日本フィルハーモニー交響楽団

 

声楽の入る8番「千人の交響曲」と「大地の歌」の後に作曲された器楽のみによる交響曲で最後の完成した交響曲。4楽章がアダージョという特異な構成で評価も人気も高いのだが、実はこの曲は、何やら凄い曲らしいというのは分かるのだが、実はまだ理解が追い付いていないらしく、他の交響曲に比べると苦手な作品である。それはさておき・・・

 

カーチュンは暗譜で指揮していたが、日フィルから驚くほど鮮やかな音色を引き出していた。冒頭から普通はそれほど強調されないハープを鮮やかに鳴らし、弦楽器のハーモニーも美しく響かせる。非常に精妙に音量をコントロールしていて、いろいろな楽器の音色が鮮やかに聴こえてくる。あまり低音を強く出さないので、重心の低い、重厚な演奏にはならないが、とにかくその瞬間瞬間を実に美しく響かせる。日フィルは最初は少し緊張感もあったが、徐々に調子を出し、音色もどんどん芳醇になっていく。テンポは(遅めの録音をよく聴いているせいでそう感じたのかもしれないが)やや速めで、あまり曲に耽溺するのではなく、どんどん前に進めていく。ちなみに、プログラムでは演奏予定時間が「約81分」となっていたが、これは「約80分」でも良かったのではないかと思う。

 

ではそんなカーチュンのマーラーの9番の印象はというと、本当に美しい演奏なのだが、正直にいえば、あまり迫ってくるものがない。響きを徹底的に磨き上げていて、そこは凄いレベルに達しているのだが、マーラーの音楽は美しいだけではない。特に9番には、不思議な安らかさと、不思議な諦観と、そしてその背後にある、人生に対する希望といった、マーラー自身の錯綜した感情が注ぎ込まれている。それを交響曲5番や6番のように大騒ぎしながら表現するのではなく、もう少し洗練された手法で表現しようとしているように感じられる。逆にそこがこの作品の表現を難しくしており、なかなか満足のいく演奏に出会えない理由になっているようにも思う。

 

しかし、カーチュンにとっては、そういうことはあまり関心が(少なくとも演奏を聴く限りでは)なさそうである。1楽章からは作曲家の心の揺らぎは聴こえてこないし、ひたすら美しい音の奔流が続く。不協和音的にかき鳴らされる頂点も実に美しく響かせている。2楽章も無理して可愛いらしい音楽を作っているようなところが、本当に単に可愛らしいだけの音楽になっている。3楽章は中では一番劇的な楽章であるが、カーチュンは、実に鮮やかに整理し、スピーディーに颯爽と振ってしまう。しかし、4楽章の前に敢えて馬鹿騒ぎ的な「ロンド・ブルレスケ」を配置したマーラーの意図を考えれば、この楽章はかなり無理をした大騒ぎなのではないだろうか。あえて4楽章をアダージョにしたとすれば、チャイコフスキーの「悲愴」もそうだが、無理をした大騒ぎから続くことであの感情の込められた4楽章が生きる。カーチュンの解釈は、3楽章と4楽章は全く性質の違うものとして、別々に捉えているようだ(実際に3楽章から4楽章に入るまでの間に、あえて指揮台から降りて随分と長めの間を取っていた。)。そして、4楽章はひたすら美しい。しかし、この妙にメランコリーな、ひたすら美しい旋律に耽溺させるような音楽を、純粋に美しく響かせるだけでいいのだろうか。

 

最後の音を実に小さくデリケートに終わらせて、非常に長い間を置いてから力を抜いて拍手を受けた余韻をたっぷりと楽しませてくれたカーチュンに、聴衆の熱狂的な拍手も凄かったが、正直にいえば、ずっと何か居心地の悪さのようなものを感じ続けた(4楽章の後半に隣人の寝息にかなり邪魔されたというだけではないだろう。)。このひたすら美しさを求めた、磨き上げられた、しかし何らの葛藤をも内在しない演奏をマーラーの解釈として評価すべきなのだろうか。マーラーはもっと心の葛藤をその交響曲に封じ込めた人ではなかったのだろうか。

 

他方、そもそも音楽を聴くということは、日常から離れて、何か美しいものを聴きたいという人もいるだろう。わざわざ他人の葛藤を追体験したくもないかもしれない。そもそも、ユダヤ人の天才音楽家マーラーの抱えていた葛藤を、多くは凡人の日本人である我々聴衆が理解できるだろうか。また、解釈の多様性という意味でいえば、マーラーをひたすら美しく解釈することも一つの道であるだろう。むしろ、これまでのマーラー解釈の垢を洗い流し、純粋に美しい音楽として再構築したと思えばカーチュンの解釈は優れて現代的な解釈なのかもしれない。そもそも、葛藤や対立、人と人との間のぶつかり合いを忌避するのが最近の人間関係の在り方らしい。仲良く、表面的に友好的にコミュニケーションを取り、過度に互いに干渉せず、スマートに生きる。それが現代社会で求められるものなのかもしれない。そうだとすると、カーチュンの解釈は実に現代的である。

 

ついでにいうと、恐らくカーチュンは物凄く良い人だと思う。オーケストラのメンバーにも好かれるだろう。才能もあるしアイディアもある。このマーラーは、カーチュンが自信を持って、「美しいでしょ」「格好よいでしょ」「素敵なメロディーでしょ」と語りかけてくるようだ。ただ、マーラーの音楽に内包された何かが決定的に欠けている感じもする。そこが、聴いていて居心地が悪く思った理由のようだ。ただ、現代社会が求めている、技術的な高さ、美しさ、調和といったものを求める層には素晴らしい演奏なのかもしれない。別にZ世代だけではない、割と高齢な客層が多いクラシックの演奏会でも、存外、そういう美学が支配しているのかもしれない。

 

何かもやもやとした気持ちを抱いて帰途についた。このカーチュンの演奏は、ネットでもいろいろな人が絶賛しているし、恐らく多くの人には素晴らしい演奏であったのだろう。ただ、帰宅して、試しにラトル指揮するベルリン・フィルの録音をかけてみたら、(もちろんそんな比較は無意味だろうが)改めて、そうだ、マーラーというのはこういう音楽だと膝を打った。結局、音楽に求めているものが違うという一点に尽きるのだろう。

 

やはり残念ながらカーチュンとは相性が悪いようだ。