上野の春の祭典はプッチーニのオペラを毎年演奏している。昨年のトスカはターフェルがスカルピアを歌いその存在感に圧倒されたが、今年はプッチーニの中でも随一の人気作である「ラ・ボエーム」が演奏された。出演している中で知っている歌手はいなかったが、いつも割とよい歌手や指揮者を集めている企画であるし、ロドルフォを歌うポップが、別のコンサートのちらしでは「パヴァロッティの再来」とのいかにもな過大な文言で広告されているのを見て、逆にちょっと気になって、足を運んでみた。

 

4月14日(日)東京文化会館

プッチーニ 「ラ・ボエーム」(演奏会形式)

ロドルフォ ステファン・ポップ

ミミ セレーネ・ザネッティ

マルチェッロ マルコ・カリア

ムゼッタ マリアム・バッティステッリ

ショナール リヴュー・ホレンダー

コッリーネ ボグダン・タロシュ

ベノア 畠山茂

アルチンドロ イオアン・ホレンダー

パルピニョール 安保克則

東京オペラシンガーズ(指揮:仲田淳也)、東京少年少女合唱団(指揮:長谷川久恵)

ピエール・ジョルジョ・モランディ/東京交響楽団

 

まず最初に驚いたのがオーケストラである。指揮者のモランディはスカラ座の首席オーボエ奏者から指揮者に転じたという人で、欧州でオペラを中心に活躍をしているという人であるが、オペラの冒頭から東響が出す音がまろやかで、まるで欧州のオーケストラのような音色になっている。どちらかといえばイタリアのオペラハウスのような音色というべきであろうか。柔らかく、艶があり、しかも柔軟に伸び縮みし、歌心に満ちている。歌う所はじっくり歌うが、ここぞというところは勢いをもって一気に走る緩急の付け方も見事である。まさに、カンタービレを体現したよう。歌手への目配りも万全で若き芸術家達の活き活きとした模様を見事に描き出していた。

 

歌手はまずマルチェッロを歌っていたカリアが、包容力を感じさせる豊かな声で魅了してくれた。柔らかいのによく通る声で、全く無理なく声を会場全体に響き渡らせていた。話題の「パヴァロッティの再来」のポップは正直にいえば看板倒れで、確かに輝かしさのある明るめの声質はパヴァロッティ的であるといえばそうかもしれないが、調子が出ていなかったところもあるかもしれないが、声が今一つ出切っていないようで、伸びて行かない。残念ながらパヴァロッティを実演で聴いたことはないので比較はできないが、頭の上から声がわっと出てくるような、抜けるような陽性の声の持ち主であったのではないかと録音等からは想像しているのだが、ポップはそういうタイプではなさそうである。第1幕でボヘミアン達が部屋で大騒ぎしているところではロドルフォ役のカリアにも、ショナール役のホレンダーにも、コッリーネ役のタロシュにも押され気味に感じられた。

 

ミミ役のザネッティが登場するとロドルフォ役のポップも頑張らないといけない。自己紹介の歌では、少し声を張り上げていたが、やはり今一つ声が出切っておらず、ちょっと風邪気味の詩人が、熱に浮かされて凄い勢いで自分のことを語っているような、浮ついた熱気のような感じがあった。これに対し、ミミ役のザネッティは、少しどすの利いたような、鋭さを感じさせる声で「私はミミ・・・」と歌い出す。声量が豊かで、威力もあるので、はかなげなミミというよりもトスカのような貫禄があり、アリアが頂点に到達すると、トゥーランドットのような迫力で凄い。ミミに向いた歌手であるかと言われるとイメージに合わない部分もあり、かなりパワーフルで、少し粗さもあるが、全体的に存在感があり、ある種のスター性のあるオーラがある(ミミにしては生命力と存在感がありすぎるかもしれないが)。

 

第2幕のカフェ・モミョスの場面では合唱団と少年少女合唱が加わる。少年少女合唱は、最初はオーケストラの後方で東京オペラシンガーズの前に並んでいたが、その後、舞台の前方に出てくるなど演技を交えて楽しそうに歌っている。そして、東京オペラシンガーズの合唱が陽気でノリがよく非常に力強い。多少粗っぽくなっても音楽の勢いを削がないように、オーケストラの音楽の流れに自然に乗っていく。モランディの柔軟ながら勢いのある音楽作りによく合っている。なお、モランディは、少年少女合唱団が歌っているところでは、あえて彼らの方を向いて指揮をするなど、全体的に仕草に愛嬌がある。

 

しかし第2幕の主役はムゼッタを歌うバッティステッリであった。登場したシーンからその豊かで美しい声に魅了される。エチオピア生まれのイタリア人とのことであるが(エチオピア系が入っているためか肌の色は褐色、濃い茶色)、声のコントロールが抜群で、正確無比な音程で、軽々とムゼッタのワルツを歌ってしまう。硬質というよりは、柔らかさがあるものの、すっとよく通る美しい声で、楽しそうに、奔放な歌姫になりきったように縦横無尽に声を駆使したその歌唱能力は圧巻であった。歌だけでいえばこの公演の歌手の中で最高であった。

 

この第2幕には、特別出演なのだろうか、なぜかアンチンドロ役で、イオアン・ホレンダーが登場した。そう、ウィーン国立歌劇場の総裁を長年務めていた御仁である。この上野の春の祭典のアドバイザーを務めているとのことなので、その関係もあったかもしれないし、同性のリビュー・ホレンダー(ご子息?)が歌っていたということもあるのかもしれない。飄々とムゼッタにコケにされる老人を演じていた。

 

25分の休憩を挟んで第3幕となる。最初に寒い中早朝から仕事等に出ていく民衆を合唱が静かながら美しいハーモニーで歌う。その後、ミミが登場して、最初はマルチェッロとのやり取りがあり、その後、ロドルフォとのやり取りがあり、それにマルチェッロとムゼッタの掛け合いがありと、凝った作りの音楽が続くが、迫力のあるミミのザネッティにはあまり病的な印象は出ず、歌い方もやや一本調子になっていたし、ロドルフォを歌うポップも第1幕よりは調子が出て来ていたが、まだ声が出切らない感じで、どうもこの主役二人の掛け合いが起伏に乏しく全体的に単調に陥っていたように感じられた。

 

20分の休憩を挟んで第4幕となる。ボヘミアン達が大騒ぎしているところに、瀕死のミミが運び込まれてくる。ザネッティのミミは死にそうにない力強い歌唱であるが、なかなか思いを込めた、感情移入した歌い方でこれはこれで悪くない。第4幕で最大の輝きを放っていたのは、古い外套との別れを惜しむアリアで圧倒的な低音の魅力を示してくれたコッリーネ役のタロシュであった。太く深みのある声で朗々と歌うタロシュのアリアは、この日で一番しんみりとした気持ちになった瞬間であった。まとまったアリアがここだけなのが残念な見事な歌唱であった。

 

ミミが亡くなるところはザネッティもささやくような声を駆使して表情豊かに歌い、指揮者のモラルディがミミが亡くなったところで一度オーケストラを止めて、少し沈黙の間を取って、それからおもむろに音楽を再び動かす。この間合いの取り方が絶妙で、ミミが亡くなったという事実を的確に表現するとともに、聴き手の感情に寄り添う。そうこのオペラは実質的にここで終わるのである。その後の残された人々の悲しみは、ある意味おまけのようなものである。ポップは、ここは演技力を見せようということなのか、亡くなった耳にすがりつくようにして嗚咽を漏らす。オーケストラが曲の最後を弾き終わっても、ポップの嗚咽が聴こえるという演出になっているが、正直にいえば、この嗚咽は特に必要はない。むしろ、モラルディが、静かに、消え入るように、オーケストラを豊かに表情付けて曲を終えているので、そこに集中させてもらいたかった。ここだけは少し残念であった。

 

終演後はブラボーが飛び交ったがそれも当然であろう。ポップのロドルフォについては、少し不満も残ったし、ザネッティのミミが立派過ぎたが、全体的に極めて高い水準の公演であったと思う。特に、モラルディの指揮が良かったし、ムゼッタのバッティステッリも素晴らしかったし、タロシュのコッリーネも存在感があった。マルチェッロのカリアも全体的に安定して水準が高かった。これだけ歌手が揃うことは実演ではなかなか多くはないだろう。

 

開演前に花見で大混雑の上野に早めに付いてしまったが、国立西洋美術館が常設展示を無料で開放していた(川崎重工がスポンサーになっていたそうなので、入場者数分の入場料を川崎重工が肩代わりしてくれたのかおしれない。素晴らしいことである。)。折角なので、フランスが舞台の「ラ・ボエーム」の前に、松方コレクションからフランス絵画でも鑑賞しようかと思い入ってみたが、フランスの風を感じたモネやマネなどはさておき、衝撃を受けたのがゴヤの「戦争の惨禍」という連作。ゴヤがスペイン独立戦争を取材して描いたという白黒の連作であるが、ゴヤ存命中は公開されなかったという。戦争に付随する人間の理不尽な残虐さのようなものを、怜悧な筆致で、ある種のコミカルさも入れつつ、諧謔味たっぷりに描いている。しかしながら、1800年代初頭に描かれたはずの作品を見ているうちに、このような野蛮で残虐な行為が、その後20世紀にも、むしろもっとエスカレートした形で、様々なホロコーストとして行われ、さらにこの21世紀になっても、今まさにウクライナや中東で行われていると思うと、果たして世界は良くなっているのであろうか、結局この200年、人間社会は何も学ばなかったのではないだろうかと暗い気持ちになった。そんなささくれた気持ちを癒してくれた「ラ・ボエーム」という音楽の力は素敵である。