読響の新しいシーズンは定期演奏会から始まり、桂冠指揮者のカンブルランが20世紀の音楽を並べたプログラムを披露した。チェコのマルティヌー、ハンガリーのバルトーク、フランスのメシアンという脈絡はない3人の作曲家を並べているものの選曲は素晴らしい。しかも、バルトークのヴァイオリン協奏曲2番の独奏者は金川真弓とくれば足を運ばねばなるまい。

 

4月5日(金)サントリーホール

マルティヌー リディツェへの追悼

バルトーク ヴァイオリン協奏曲2番(独奏:金川真弓)

メシアン キリストの昇天

シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団

 

カンブルランはいつものように長い髪を後ろで括ったポニーテールで軽快に登場した。ただし、何か悪い思い出があるのか、揮台に登る時と降りる時は妙に丁寧に足元を確認する。まあ若っぽいが1948年生まれというからもう70過ぎである。足元にはご注意を。

 

最初のマルティヌーの作品は10分弱の作品である。マルティヌーの祖国であるチェコの小さな村リディツェで行われたナチスの大量虐殺をテーマとした作品である。怒りの日のようなモチーフが使われており、銅鑼が激しく鳴らされるなど、マルティヌーらしい楽想も登場するものの、比較的軽快な芸風のマルティヌーにしては沈鬱な重い音楽である。カンブルランはこの重めの作品を、あまり重心を重くせず、軽みを帯びた音色で、色彩感豊かに表現していた。曲の重さと豊かな色彩感が必ずしも方向性が合っていたとはいえないが、曲の重ったるさが軽減されると同時に、その軽さの中にかえってマルティヌーの悲しみが浮かび上がっていたように感じられた。意図していたのであれば相当な高等戦略であるがどうなのだろうか。なかなか聴き応えのある演奏であった。

 

続いてバルトークのヴァイオリン協奏曲2番である。バルトーク円熟期の傑作でヴァイオリン協奏曲としても屈指の傑作である。個人的に一番好きなヴァイオリン協奏曲を問われるとシベリウスとなるが、その次は(ショスタコーヴィッチの1番と悩みつつ)バルトークの2番となるであろう。その後は、チャイコフスキー、プロコフィエフの2番、シマノフスキの2番、コルンゴルド、ブラームス、ブリテン、ベルク、グラスの1番といった辺りで悩むことになりそうであるが、いずれにしてもシベリウスとバルトークの2番の1位2位は固い。個人的な好みはさておき、大好きな曲である。これを最近注目している金川真弓が演奏するというだけでも胸躍る。

 

金川は遠目には黒だか濃い緑だけよく分からない、少し輝くような布地のドレスで登場した。小柄だが、いつもながら背筋がピンと伸びていて姿勢がよい。バルトークの1楽章はハープの和音から始まるが、テンポはやや遅めの落ち着いたもの。金川は、あまり熱っぽくなったり、前に向かって行くわけでもなく、インテンポで冒頭の魅力的な主題を丁寧に弾く。かなりさっぽりした歌い回しである。一音一音を非常にクリアに、明敏に進めていくので、まるで楽譜の音列が耳で追えるように感じられるほど。音色は艶っぽさよりも透明感のあるもので、全体的に清潔感の漂う演奏である。凛としているといってもいいかもしれない。

 

他方、バルトークの音楽の持つ、民俗性、土俗性のようなものは見事に捨象されている。確かに、バルトークは、民謡採取をし、民謡的な素材を使って作曲をしているが、その結果たる作品は、かなり実験的・前衛的で、尖っている。しかし、そこに民謡的な旋律が散りばめられることで、独特の民俗性・土俗性が出てくる。そのバランスがバルトーク演奏の解釈の幅になっていく。ハンガリー系の演奏家などは民俗性・土俗性に寄った演奏をする例もあるが(例えば、ヴァルガやガライなど)、最近の演奏家は、そういった民俗性・土俗性は出さない傾向があるようにも感じられる(ファウストなど)。しかし、あまり土俗的に歌おうとしなくても、熱く演奏すると、曲の持つ民族性・土俗性がふわっと香り、漏れ出していく。作曲家と親交があったメニューインが、フルトヴェングラー(こちらもバルトークのピアノ協奏曲1番を作曲家と初演した指揮者だ。)と共演した鋭く切りつけるような演奏など、全く土俗的に歌うつもりがないヴァイオリン独奏から、バルトークの民俗性・土俗性がにじみ出している。まさにこういう効果をバルトークは狙っていたのではないか。

 

そういう文脈でいうと、金川の演奏は、ずっとモダンで、民俗性・土俗性に全く関心がない。極めて冷静に、そして正確無比に弾き進めていく。かなりの難曲であるが、全く乱れない左手、弓の毛が弦に吸い付くような、しかもヴァイオリンの本体と弓が美しく直角になっているような美しいボーイングで、抜群のテクニックの切れ味で演奏される。その、冷静な、ある意味では怜悧な演奏は、少しバルトークにしては醒めすぎた、熱量が足りない感じもする。これに対し、カンブルランの指揮するオーケストラは色彩感豊かに、また、リズムも切れ味鋭く力強く演奏する。なかなか迫力がある。他方、カンブルランの芸風もあるのか、その醸し出す雰囲気は妙に明るい。バルトークの音楽の孕む緊張感のようなものが出ず、あっけらかんとした明るい豊潤な音色が耳に響いてくる。

 

正直にいえば、金川の独奏は凄かった。これほど完璧に、悠々とこの難曲を弾きこなしてしまうのはそれだけでも凄い。もちろん、音楽表現もきちんと付けられていて、金川なりの歌心にも欠けるところはない。その意味では極めてレベルの高い演奏であった。ただ、どうしても何かバルトークの、魂の中で燃えるような要素が感じられなかったのだけが残念であった。中ではテンポの速まる3楽章がかなり推進力を持って演奏されていたこともあって、違和感が少なかったし、最後まで全く揺るがない鉄壁のヴァイオリン独奏にはある意味痺れた。バルトークの解釈としての違和感は度外視してであるが。

 

結局、この完璧とすらいいたくなる立派な演奏をどう評価していいのかよく分からない。終演後の観客の反応も熱狂的であったし、違和感を感じつつも、精一杯拍手をする自分もいた。そうヴァイオリン演奏としては本当に見事だったのだ。これまで金川の演奏としては、バーンシュタインのセレナーデ、ブルッフのスコットランド幻想曲、ブラームスのヴァイオリン協奏曲と聴いてきた。特にバーンシュタインが良かったので(ブルッフは曲がつまらなく、ブラームスは良かったが(当たり前ながら)まだ練り上げる余地があるように感じられた)、バルトークなど良いのではないかと期待していたが、ちょっと方向性が違ったようだ。金川の芸風であれば、案外、バルトークやショスタコーヴィッチよりも、チャイコフスキーやシベリウス、あるいはコルンゴールドなどの方が合うかもしれない。バルトークよりも、プロコフィエフや、案外ベルクもいいかもしれない。昨年のPMFと共演したメンデルスゾーンが今一つだったことや、リサイタルの録音がそれほど良いように思えずに残念に思っていた金川であるが、バルトークは相性がどうだったかというところがあるが、また別の曲で聴いてみたいものである。なお、何度も呼び戻されたが意外に疲れていたのかアンコールはなしであった。

 

後半はカンブルランの得意とするメシアンである。カンブルランはメシアンの管弦楽作品を全て録音するという偉業を成し遂げており、読響とも小澤征爾が初演したメシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスカ」という大作を演奏し(残念ながら聴けなかった)、大評判になり、録音もリリースされている。そんなカンブルランのメシアンというと期待に胸が膨らむ。

 

今回演奏されたのは「キリストの昇天」というメシアンが24歳の時に作曲した曲である。正直にいうと、メシアンの音楽は、どれも色彩感覚に秀でた音響が凄いと思うが、同時に、音楽としてはよく分からない。また、その音響的な面白さは実演でより分かるが、録音で聴いているとなかなか入り込めないところがある。それは、世の終わりのための四重奏曲でも、トゥーランガリラ交響曲でも、アーメンの幻影等のピアノ作品でも同様だ。クロノクロミーなど初めて聴いた時から魅了されたりもしたので、相性が悪いわけでもないと思うのだが、やはりあの音響は実際の生演奏でないと感じ取りきれないのではないかと思う。今回演奏された「キリストの昇天」も録音では聴いたことがあったが、それほど面白い音楽であるとは思わなかった。

 

ところが、今回のカンブルランと読響の演奏は素晴らしかった。金管楽器の合奏(と木管楽器も若干加わる)による第1楽章から、会場で聴くと何か不思議な音世界に迷い込んだような気持になる。そして、弦楽器も入っての第2楽章や第3楽章もメシアンらしい、色彩感のある音響空間が素敵であり、チェロとコントラバスがゴリゴリと弾くところなども迫力がある。カンブルランの音色に対する感性の鋭さと、メシアンの音楽を知り尽くした安定した指揮が素晴らしかったが、それを全て受け止めて音化していた読響の献身的な演奏も素晴らしかった。カンブルランの実力を見せ付けられたような名演であった。

 

金川のバルトークについては少しモヤっとしたが、カンブルランのメシアンに大いに満足して帰途についたところ、サントリーホールの近くの道でも桜が咲いていた。改めて春が来たことを感じられた。