3月の東京はトリスタン祭りである。新国立劇場で6回上演されるし、上野の東京春祭でも演奏会形式で2回上演される。しかも、新国立劇場は大野和士がわざわざ手兵の都響をピットに入れて指揮をするし、春祭にいたってはヤノフスキ指揮のN響である。平日日中の公演は難しいので週末や休日の公演に足を運ぼうと、新国立歌劇場は2回、春祭は1回何とかチケットを入手した。まずは第一弾として新国立劇場の春分の日の公演に足を運んでみた。

 

3月20日(水)新国立劇場

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

トリスタン ゾルターン・ニャリ

マルケ王 ヴィルヘルム・シュヴィングハマー

イゾルデ リエネ・キンチャ

クルヴェナール エギルス・シリンス

メロート 秋谷直之

ブランゲーネ 藤村実穂子

牧童 青地英幸

舵取り 駒田敏章

若い船乗りの声 村上公太

新国立劇場合唱団(指揮:三浦洋史)

大野和士/東京都交響楽団

 

デイヴィッド・マクヴィカーの2010年の演出ということで、それ以来の再演とのこと。当初はトリスタンにはトリステン・ケール、イゾルデにはエヴァ=マリア・ウェストブルックが予定されていたものの、二人とも降板となり、ニャリとキンチャに交代した。ウェストブルックのイゾルデには期待していただけに残念である。マクヴィカーの演出は比較的シンプルなもので、特に大きな読み替えもなく、視覚的には美しいものである。月を象徴的に用いており、月の色が赤くなるなど月の色がイゾルデの心理を象徴しているように見えたが、今一つ演出のコンセプトはよく分からない。ただ、ト書きに忠実なので、素直に音楽を楽しめるので、これはこれで悪くはない。

 

歌手については、トリスタンのニャリは独特の声質で、特に高音域で癖の強さが出るが、その柔らかな抒情的な歌い方は面白いトリスタン像を提示していたように感じられる。ただし、声量を大きく出さないとならなくなると絶叫調になってしまい、歌うのに精一杯というところもある。最後までスタミナがもってパワーが落ちなかったところは評価できるが、歌手の解釈で聴かせるような深みのある表現にはまだ達しておらず、少々一本調子になっていた。

 

イゾルデのキンチャは、引き締まった声で声量も豊かであるが、やはり声を張り上げると絶叫調になってしまう。結局、情感が高まり、トリスタンとイゾルデが声を張り上げると、二人が絶叫しているような感じになってしまい、聴いていると少し醒めてしまうところがあった。トリスタンとイゾルデはそういう曲だと言われればそうなのかもしれないが、もう少し情感の高まりを叫ぶだけではなく、音楽的に表現することもできるのではないかと、ついつい高望みをしたくなってしまう。オーケストラを相手に声を響かせるだけでも大変だろうということは重々承知しているのだが。

 

キンチャも最後までパワーが落ちず、特に第3幕の最後でのいわゆる「愛の死」は、歌い慣れているということもあるのかもしれないが、オーケストラを従えて、かなり貫禄のある歌唱を披露していた。声量もあるので、オーケストラもかなり音量を上げて煽っていたが、それに負けずに歌い切っていたことは素直に称賛したい。ただ、やはり解釈がまだ練り切れておらず、少し単調に陥るところがあった。

 

圧倒的な存在感があったのは、当たり役としているブランゲーネを歌った藤村実穂子である。鋭く引き締まった声で、しかも声量が上がってもドイツ語の発音がきちんと聞き取れるところが凄い。演技も本当に王女を心配する侍女という雰囲気で、ブランゲーネになりきっている。決して声量が大きいわけではないが、イゾルデに対抗して歌っても何ら遜色はないし、要所要所できちんと声が聴こえてくる。他のパートも含めてきちんと把握した上で、どの部分でどのように歌えば最も効果的に響くのかを徹底して研究している成果ではないだろうか。第2幕の見張りの場面など、藤村の歌が聴こえてくるとほっとする。この藤村のブランゲーネを聴くだけでもこの公演に足を運ぶ価値がある。

 

続いて存在感が大きかったのはマルケ王を歌ったシュヴィングハマーである。張りと艶のある声の存在感が圧倒的で、第一声から心を掴む。こちらも当たり役としているようで、表現もよく練られていて、若手の歌手のはずだが、老人らしい演技も巧みで、甥のトリスタンのことや、若い妻のイゾルデを本気で心配しているような、慈愛に満ちた老王を威厳と貫禄をもって演じていた。決して歌う時間は長くないマルケ王であるが、その存在感と印象はブランゲーネと並んでいた。バイロイトでも歌っているという実力を感じられた。マルケ王を得意とする歌手というと、少し前にはルネ・パーペがおり、その後はゼッペンフェルトなども歌っていたが、新しいマルケ王歌いとして注目すべきなのかもしれない。

 

クルヴェナールを歌っていたシリンスもベテランらしい安定した歌唱で、太めで深みのある美声で主君トリスタンを案じる忠臣を演じていた。特に第3幕の前半はこのクルヴェナールの一人舞台のようになるが、なかなかの役者振りで、感情表現豊かに演じていた。

 

もっとも、この公演の最大の功労者は間違いなく管弦楽であった。歌手の状況に合わせて硬軟織り交ぜつつ、首尾一貫した音楽の流れを作り出していた。大野のタクトの下で、長丁場にも関わらず、精度の高いアンサンブルで密度の濃い音楽を奏で続けた都響には純粋に称賛しかない。管弦楽が重厚にしっかりと音楽の骨格を作り出していたので、歌手の出来不出来とは違うレベルで、ワーグナーの最も抒情的な音楽が、まるで大河のように滔々と流れ続けた。あまりにもそれが自然なので、管弦楽の存在をほとんど感じずに舞台と歌手に集中できるのだが、ふと気が付くと実に的確にオーケストラの表現が舞台上の全てを牛耳っているのがよく分かる。前奏曲から非の打ちどころのない完成度であった。ある意味では実に堅実、誠実でオーソドックスな、外連味のない、考えようによっては地味な演奏なのだが、その細部まで緻密に組み立てられ、全く弛緩することのない音楽作りが圧倒的である。時には敢えて音量を上げて歌手に刺激を与え(その結果やむを得ず歌手も声量を上げて絶叫調になるという悪循環を生むこともなくはなかったが)、時には極限まで音量を落として歌手の小さな声が会場にすっと広がるようにする。長丁場をこれほどの集中力と密度でやるとすると、指揮者もオーケストラも大変だろうと思うのだが、そこは流石の都響というべきか。敢えて気心の知れた都響を起用して万全の態勢で臨んだ大野の作戦勝ちであろう。唯一、最後の「愛の死」では少しオーケストラを開放的に鳴らし(オーケストラも前奏曲と愛の死だけは弾き慣れているというのもあるだろう)、長大なオペラの最後の感興をより高めていた。やはり大野はオペラでその真価を発揮する指揮者である。

 

とはいえ、改めて舞台で観ると、「トリスタンとイゾルデ」というのは異形の傑作である。まず、これほど男女が濃密にひたすら愛を語るオペラも珍しい。正確にいえば「愛」をテーマにしたオペラは数多あるが、これほどひたすら二人の世界を掘り下げた作品は珍しい。ワーグナーの作品は、基本的には社会に開かれた作品が多い。タンホイザーも領主親娘や他の歌手騎士達やキリスト教との関係がテーマになっているし、ローエングリンもやはりキリスト教世界を守るための騎士を巡る物語である。ニーベルンゲンの指輪も壮大な神と人間の支配権を争う物語であり、マイスタージンガーは伝統的芸術と新しい芸術の相克を描いているし、パルシファルもキリスト教の救済と若者が知恵を得るプロセスを描いている(唯一、オランダ人のゼンタは変な妄想の中の愛の世界のみに生きている。)。

 

これに対して、トリスタンとイゾルデはひたすら二人だけの世界が中心となっている。アイルランドとコーンウォールの争いを背景にはしているが、そこはほぼ重要な意味を持たない。とにかく、トリスタンとイゾルデの、いわばバカップル振りがひたすら掘り下げられている。周囲にいる人たちは巻き込まれてどんどん死んでいくし、イゾルデは最初から死ぬ気だし、トリスタンもすぐに「死」や「死者の国」について言及する。現世で結ばれないのであれば、死んで結ばれたいという、心中願望のようなものが強烈に支配していて(失楽園症候群?)、その他の人物はそれなりに合理的な行動や思考をしているのに、トリスタンとイゾルデのみは別の世界に生きている。これが魔法薬のせいなのかどうか。トリスタンが死ぬのも、自らメロートに刺されたためである。第3幕の最後にイゾルデがどうなったのかは必ずしも明確ではないが、常識的には死んだらしいことはうかがわれる(カトリーヌ・ワーグナー演出ではイゾルデは生きていて、メルケ王が連れて帰るという面白解釈。)。第2幕でトリスタンが、自分が死の国に旅立ったら一緒に来てくれのようなことを言っているし。

 

トリスタンとイゾルデの作曲にはワーグナーがパトロンであったヴィーセンドンクの妻マティルダとの恋愛関係があったと言われており、映画などでもそこにフォーカスしたものもある。若く才気あふれる有閑マダムであるマティルダが(肖像画を見る限り美しい方である)、才能ある芸術家と親しく接してのぼせ上がり、妻ミンナとの関係が悪かったワーグナーものぼせ上がったのであろう。夫を捨ててワーグナーに走ったコジマと違い、その後、ワーグナーがヴェネツィアに旅立って二人の濃い関係は終わっているようであるが、その濃密な、背徳的な関係がこの畢生の大作を生み出した原動力であったとすると、マティルダは素晴らしいミューズであったといえそうである。

 

そういう特殊な精神状況の下で作曲されたためか、和声も不安定になり、音楽もワーグナーとしては特に抒情的となり、歌詞もひたすら死を求める耽美的なものとなっている。そして、ひたすら濃密な愛の交歓を4時間以上にわたってこれでもかと表現し尽くす。何とも凄い作品である。そのせいか、演出も難しいようで、それほどいろいろと観たわけでもないが、なかなか満足できる演出に出会うことはない気がする。いろいろと変わった演出もあるものの、実はト書きにかなり忠実で面白かったのはペーター・コンヴィチュニーの演出のバイエルン国立歌劇場のもの。残念ながら日本語字幕がないどころか、欧米仕様のPAL方式でパソコンでしか再生できない映像しかないものの、マイヤーの名唱と名演技が堪能できる(メータの指揮が今一つなのが玉に瑕だが。)。バイエルン国立歌劇場はその後もずっとそのプロダクションを上演していたようなので、それこそケント・ナガノ指揮で映像でも残っていないのかとも思うが、なかなか商品化とはいかないのだろうか。

 

話が逸れたが、歌手については少し言いたいこともあるが、全体的にはかなり質の高い公演である。特に大野指揮の都響の貢献が凄い。もう1回聴きに行こうと思っているが、長丁場も改めて楽しみである。