ウィーン・フィルやベルリン・フィルの例を挙げるまでもなく、オーケストラのメンバーが室内楽をやるというのはよくあることである。いろいろなオーケストラが室内楽シリーズも作っているが、読響はアンサンブル・シリーズという名称で、トッパン・ホールで年間何回かのコンサートをいろいろなメンバーでやっている。そんな中で、読響指揮者/クリエイティブ・パートナーである鈴木優人がプロデュースした回が、鈴木優人がチェンバロを弾いて、バッハとグラスのチェンバロ協奏曲を演奏するというので面白そうであったので(もちろん狙いはグラス)、足を運んでみた。

 

3月8日(金)トッパン・ホール

バッハ チェンバロ協奏曲5番

ウェーベルン 6つの歌

ヘンツェ アポロとヒュアキントス

鈴木優人 浄められし秋

グラス チェンバロ協奏曲

 

松井亜希(Sop)、藤木大地(Ct-te)

鈴木優人(指揮・チェンバロ・ピアノ)/読売日本交響楽団メンバー

 

演奏会の副題は「鈴木優人プロデュース/2つのチェンバロ協奏曲とG.トラークルの詩による3つの作品」というもの。要するにバッハとグラスのチェンバロ協奏曲に挟まれて3つの声楽作品が演奏されるが、それらの作品で音楽が付けられているテキストが全てゲオルク・トラ―クルというオーストリア出身の詩人の詩によるという。凝ったプログラムではあるが、それらをチェンバロ協奏曲で挟み込む意味はよく分からない。ただ、なかなか気合が入っていて、ドイツ文学の研究者である成城大学の准教授の日名淳裕という人までプレトークに動員して気合が入っている。なお、日名准教授は、プログラムの詩の訳も手掛け、このトラ―クルという詩人の生涯を紹介する一文を作り、それがプログラムに挟まれていた。

 

この読響アンサンブル・シリーズは午後7時30分開始でいつも午後7時からプレトークがあるらしい。普段行き慣れていないホールであり、飯田橋駅から少し歩かなくてはならない上、開始時間を勝手に午後7時と勘違いし、早めに6時40分頃に付いてしまったら、まだ開場もしていなかった。少し待って6時45分の開場を待って会場に入るとプレトークとなる。読売新聞の鈴木美湖という人がナビゲーターになり、鈴木優人と日名准教授が登場したが、正直にいって、とりあえず、配られていたプログラムと挟まれていたトラ―クルの生涯についての一文を読みながら聞いていたら、あまり話が頭に入って来ない。最初のバッハはさておき、ウェーベルン、ヘンツェ、鈴木の自作が不協和音が多いので、最後に聴きやすいグラスの作品にしたとのこと。詩人のトラ―クルについての話が続くが、詩心がないので、訳詞を読んでもあまりよく分からない。正直、日本語だとニュアンスが伝わらない印象があり、ドイツ語の原詩を、分からないなりに眺めていると、何となくドイツ語では趣がありそうに感じられる。

 

最初はバッハのチェンバロ協奏曲5番から。弦楽器5名という最少編成の伴奏で演奏された。チェンバロ協奏曲5番は、失われたヴァイオリン協奏曲とオーボエ協奏曲の楽章を素材にしたのではないかと言われている作品とのこと。逆に、このチェンバロ協奏曲から復元したヴァイオリン協奏曲やオーボエ協奏曲もあるようで、確かに、シゲティの演奏で聴いたことがあるようなメロディが出てくる。バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)とチェンバロ協奏曲を録音している鈴木優人は手慣れた演奏である。鈴木優人のチェンバロ演奏は基本的にテンポは速めで、あまり感情移入せず、淡々と進めていく。読響の弦楽セクションは、BCJとは違い、ピリオド奏法ではないので音色にコクがあり芳醇である。全体的に辛口のチェンバロと妙にロマンティックな弦楽合奏のアンサンブルが面白い。曲も、聴きやすく、特に2楽章のラルゴのメロディが美しい。

 

続いてウェーベルン作品となる。ピンク系のドレスが華やかなソプラノの松井亜希が登場して、旋律があるような、ないようなウェーベルンの作品を熱唱した。12音技法を採用する前の作品ということで、表現主義的で、ウェーベルンらしいコンパクトな作風ながら、妙なロマンティシズムが纏わりつく不思議な作品である。それなりに面白く聴くことができた。

 

ウェーベルンの次はヘンツェの作品となる。20世紀後半のドイツを代表する作曲家であったヘンツェであるが、正直それほど馴染みがあるわけではない。かつては自作自演の交響曲集(DG)などを聴いてみたりもしたがよく分からないし、傑作だとか、感動的だという交響曲9番の録音(メルツマッハー指揮のベルリンフィル・EMI)も聴いてみたが、やはりよく分からない。結局、よく分からない作曲家であるが、今回演奏された「アポロとヒュアキントス」はチェンバロ協奏曲風のアンサンブル曲が続き、最後にアルト(今回はカウンターテノール)がトラ―クルの詩の曲を歌うという不思議な構造の曲である。

 

チェンバロと弦楽四重奏にフルート、クラリネット、ホルンにファゴットという不思議な編成の曲である。ヘンツェの作品は正直にいってそれほど面白いとも思われないのだが、別に悪くもない。やや現代的な響きのする、しかしチェンバロと弦楽・管楽アンサンブルによる、モダンながら意外に聴きやすい音楽が続き悪くはない。最後のカウンターテノールの藤木大地も短時間ながら熱唱していた。

 

15分の休憩を挟んで鈴木優人の作品が演奏された。こちらはピアノと弦楽五重奏にヴィヴラフォンが入る。ピアノとヴィヴラフォンが重なって演奏することいより不思議なテイストが生じ、その余の弦楽器はクラスター的な奏法で演奏する。BCJとの活動、読響や関西フィルの指揮者としての活動、チェンバロ奏者あるいはピアニストとしての活動に加えて、テレビにもよく出演しており、さらに作曲活動までとは、鈴木優人の八面六臂の活躍ぶりは凄過ぎる。ここまでマルチ・タレントで仕事を受けていたら大丈夫かとも思うのだが、その尽きない才能の源泉は無限なのだろうか。どれも質の高い仕事をしている。しかし、正直にいえば、作曲家としてはどうなのだろうか。意外にもかなりモダンな作風であったし、一部音響が面白いとは思ったが、そこまで感銘を受ける作品ではない。よくもウェーベルンとヘンツェと並べたなとも思った。ただ、その辺も含めて素直で正直なのだろう。この不思議な曲を松井亜希がなかなか気合を入れて歌っていた。

 

演奏会最後はグラスのチェンバロ協奏曲となる。協奏曲というが、舞台後方にチェンバロが配置され、舞台手前は、向かって右側にファゴット、チェロとコントラバスという低音楽器が一塊になり、向かって左側にヴァイオリンとヴィオラを一列目、木管を二列目とという中高音楽器が並ぶ。いわゆるミニマル音楽の作曲家とされるフィリップ・グラスであるが、マイケル・ナイマンと並んで一番好きな作曲家である。グラスの活動期間は長いが、初期にはアンサンブル作品やオペラなどの舞台作品、そして映画音楽などが中心になっていたようだが、交響曲は少し作曲していたものの、徐々に管弦楽作品にも本格的に手を染めるようになり、既に10曲以上を数える交響曲に加えて、協奏的作品にも精力的に取り組むようになったらしい。その第一弾がヴァイオリン協奏曲1番で、これはクレーメルがドホナーニ指揮するウィーン・フィルと録音(DG)して世界にその真価を問うた。その後も協奏的作品を量産しているが、フィリップ・グラスのレーベル(OM)からは協奏曲プロジェクトと題したCDが手元にあるだけでも4枚出ており(Vol.1に収録されている2人のティンパニ奏者と管弦楽のめの幻想協奏曲は井上道義指揮N響でも演奏された超名曲!!)、それ以外にもかなりの数の協奏的作品がある。今回演奏されたチェンバロ協奏曲もその一連の録音に収められている(Vol.2)。3楽章形式の20分強の作品である。

 

ところで、実はチェンバロとミニマル音楽は意外に相性がいいのではないかと思う。チェンバロはバロック時代に一時代を築いた後に、ピアノフォルテやらピアノやらに取って代わられた。しかしながら、ランドフスカというチェンバロの名手が登場し、20世紀に復権を遂げた。バッハ以前の作品をチェンバロで演奏するようになり(ピリオド楽派の走りというべきか)、さらに新作も作曲された。代表的な作品としては、プーランクの田園のコンセールやファリャの協奏曲、それにマルティヌーのチェンバロ協奏曲などがあろうが、他にもフランク・マルタンの小協奏的交響曲などでも効果的に使われている。そんなチェンバロであるが、弦を打つピアノも打楽器的な奏法が可能であるが、ペダルを使ったり、よりテヌートでメロディを弾くことに奏法が進化したが、弦を撥くチェンバロは打鍵した瞬間に音が急速に消えるので、基本的に音の高低とリズムでのみ音楽を組み立てる。それはまさにミニマル的であるのだ。今回演奏されたグラス以外にも、マイケル・ナイマンやグレツキがミニマル的なチェンバロ協奏曲を作曲しており、それらが大変な名曲であるのも、納得できるところである(グレツキの作品は、名曲過ぎてピアノでも演奏されている。)。

 

では鈴木優人らの演奏はどうであったか。鈴木のチェンバロはどの曲も比較的テンポが速いが、グラスもかなり快速テンポで始まった。かなり言い方は悪いが能天気な印象すらある明るい1楽章は愉快な曲であるが、あまりミニマルに慣れていない読響メンバーはかなり慎重に、というか、恐る恐る弾いている感じであった。しかも、ミニマル音楽であれば、割と無機質に演奏すればいいのだが、読響の特に弦楽器の方々はついつい表情を付けてしまう。何かロマンティックになるのであるが、そこがミニマルっぽくなくて、ちょっと面白い。いかにもグラス的な、和声の移り変わりと、リズムと、音階的な音型を多用した推進力のある1楽章は、その不思議にロマンティックな表情付けと、管弦楽のリズムが弾まないところが、今一つグラス的ではなかったが、やはり曲が面白いので楽しく聴けた。

 

そして2楽章であるが、疑似バロック的なメロディのようなものをチェンバロが演奏し、それを弦楽器(コントラバスが1人である以外は、各パート2人ずついたが、この楽章は各1名のみが演奏)がそれを受け継いでいくのが不思議なテイストで、聴きながら、少しアランフェス協奏曲の2楽章を思い出してしまった。読響のアンサンブルのロマンティックな演奏スタイルが、意外に曲と合っていたのかもしれない。なお、鈴木のチェンバロは全体的に淡泊で辛口であった。そして3楽章は再び快速なテンポでぐいぐいと進んでいく曲である。他方、3楽章辺りを聴いていて思ったのは、指揮者なしで演奏していると、いかにテンポを均一にして同じようなフレーズを繰り返すミニマル音楽とはいえ、何かリズムが前に進まない。結局、きちんと縦の線を合わせ過ぎていて、何か音楽の前進性が阻害されている感じがあった。指揮者を立てて、少しずつ音楽をドライブした方が良かったのかもしれない。各奏者も、互いに合わせることに精一杯で音楽を前に進める余力はなかったように思われたが、これは指揮者の棒があれば、もっと音楽が弾けたのではないだろうか。結論、ミニマル音楽でも指揮者は必要である。

 

最後は全奏者と歌手が舞台に出て来て喝采を受けていた。この日は、高関健指揮する東京シティ・フィルがマーラーの5番を演奏していて、かなり悩んだが(しかも、ネットの評ではかなり凄い演奏であったらしい)、やはりグラスのチェンバロ協奏曲を実演で聴けたのは嬉しかったので良しとしたい。アデスなど現代作曲家の作品の演奏にも積極的な鈴木優人には、この読響アンサンブル・コンサートで、このままナイマンやグレツキのチェンバロ協奏曲も演奏してもらえないだろうかと期待をしてしまう。

 

グラスの作品を聴いて気持ちよく帰宅したところ、漫画家の鳥山明や声優のTARAKOの訃報に接した。いずれも20世紀から21世紀の日本の漫画・アニメ文化を支えた重要人物だけに、また、二人ともまだ60代という早過ぎる死にショックも大きかった。ご冥福をお祈りしたい。