ボストン響やウィーン国立歌劇場などのポストを歴任した小澤征爾が東アジアを代表する指揮者であったことは疑いないであろう。では、小澤が亡くなった後に東アジアを代表する指揮者は誰であろうか。そこはやはりチョン・ミュンフンとなるのであろう。世界の名門歌劇場や名門オーケストラと深い関係を持っている東アジアの大物指揮者となると、やはりこの人が第一人者ということになるのだろう。日本人であれば大野和士や佐渡裕といった辺りが欧州でも大いに活躍しているが、知名度などでは今一歩及ばない。そんなチョンであるが、東フィルとの深い関係があるから、日本の聴衆にはお馴染みであることは幸せなことである。そのチョンが、「田園」と「春の祭典」という超名曲プログラムを披露した。これは足を運ぶしかない。ちなみに、東フィルは定期演奏会としてサントリーホール、オーチャードホール、東京オペラシティコンサートホールの3か所で同じプログラムで演奏会を開くが、サントリーホールの演奏会(2月22日)は完売だったらしい。やはりチョンの人気は高い(あるいは、春の祭典の人気は高いということか。)。

 

2月27日(火)東京オペラシティコンサートホール

ベートーヴェン 交響曲6番「田園」

ストラヴィンスキー 春の祭典

チョン・ミュンフン/東京フィルハーモニー交響楽団

 

チョンはいずれも暗譜で指揮していた。まずはベートーヴェンの「田園」である。チョンが指揮すると東フィルは実に優雅な音色を出す。特に弦楽器が肌理の細かい、ビロードのように滑らかな音を出す。ただし、今回は、後半のストラヴィンスキーを意識してか、いつもに比べると弦楽器の音色に硬さがある。ロマン派ではない、ベートーヴェンを演奏するということもあるのかもしれない。1楽章からテンポはやや速め、テンポは揺らさず、フォルムはくっきりと曖昧に流すところは皆無で、実に丁寧に演奏させている。緻密に細部まで詰めて組み立てているので、主たる旋律に対し、他の楽器が応えたり、エコーのように響かせているいろいろな音型もクリアに聴こえてくる。あまり感情移入はしないものの、この描写的な音楽を淡々と描いていく。

 

2楽章も優美の極みで音楽がよどみなく流れていく。あまりの美しさに聴き惚れてしまったが、この静かな楽章は美しく整えられ過ぎていて、あまりの気持ちよさに一瞬睡魔に襲われる。美は人を沈黙させるというが、思考まで止めてしまったということか(単に疲れていただけかもしれない。)。

 

チョンが指揮すると、多くの曲が高級感の漂う、優雅な音楽となるが、そのような音楽を奏でる手腕は、チョンは、ムーティと並んで現役の指揮者の中ではトップクラスであると思う。どの部分も解釈が練り上げられ、不自然なところはなく、淀みがない。そして、ムーティとチョンの共通点はオペラを、特にイタリアオペラを得意としていることだろうか。そんな気持ちになったのは3楽章から4楽章である。スケルツォ楽章である3楽章も細部までよく神経を張り巡らされた緻密な演奏であり、細かい音まで丁寧に作り込まれている。ただ、この嵐の前の音楽に独特の緊張感を漂わせているのが、まるでヴェルディのオペラの一部を聴いているような気持になった。そして4楽章に入ると、激しくティンパニが鳴り管弦楽が激しく嵐を表現する。その音の作り方が、何ともヴェルディ的なのである。レクイエムか、あるいはリゴレットの嵐の場面を思い出させられる。これはチョンが丁寧に音楽に寄り添って場面を描写しているためかもしれないし、ヴェルディ指揮の経験が豊かなためかもしれない。単なる大音響ではなく、音楽の組み立てで巧みに盛り上げる。実に語り口が劇的で上手である。

 

5楽章はやはり上質な響きがするものの、この(ややくどいが)嵐の後の美しい光景を感動的に描いた楽章には、チョンはされほど感動していないようで、淡々と進めていく。もう少し情感がこもる方が好みであるが、美しくもポーカーフェースで曲に語らせるような演奏である。最後まで隙の無いすっきりとした演奏であった。あまり感情の起伏を大きくしないところがチョン流であり、そこが優雅なのだが、ベートーヴェンは感情の起伏の大きい作曲家である。素晴らしい音楽を聴いたという気持ちがある一方で、何か物足りないものも残る。それは、ベートーヴェンの音楽に優雅さ、優美さ以外にも何かを求めてしまうからかもしれない。

 

休憩を挟んで「春の祭典」となる。チョンの「春の祭典」はフランス放送フィルとの録音では聴いたことがあったが(あまり印象には残っていない)、実演は初めてである。色彩感のあるメシアンなどを得意とするチョンが、気心の知れた東フィルを相手にどのように「春の祭典」を調理するか興味津々である。指揮台に立ったまま何の合図も出さないまま冒頭のファゴットのソロが開始したが、実にゆったりと歌う。そしてその後に他の楽器が入って来ても各楽器が実に有機的にメロディを受け渡していき、非常に美しい。3回ある定期の3回目であったこともあってか、アンサンブルが成熟している。

 

そして、弦のリズミカルな刻みが始まり、音楽が熱を帯びてくると、オーケストラの一体感が強まり、演奏も熱くなる。チョンらしく音楽は緻密に整理され、不協和音も変拍子も全てが美しく響くのだが、何せ曲が「春の祭典」なので、音楽も起伏だらけ、むしろその緊張感を孕んだ演奏に耳が釘付けになる。細かいところで瑕が無かったわけではないが、とにかく全てにおいて引き締まったアンサンブルで見事な演奏であった。

 

チョンは、例えば、ブーレーズやサロネンのように無理に曲をすっきりと整理したりはしない。各パートの交通整理はきちんと行われているが、むしろストラヴィンスキーの野蛮なところは、野蛮なところとして強調する(さすがはオペラ指揮者)。ただ、その瞬間瞬間の音響は整理され、最も美しく響くように調整されている。だから劇的ながら美しく整った演奏に仕上がっている。そして、整理し調整しているのに、安全運転にならず、音楽がきちんと前に進んでいく。打楽器群を派手に鳴らさせ、金管も豪快に吹く。それなのに、全体のバランスは精妙に取られている。こういう職人芸はチョンの面目躍如たるところだろうし、東フィルもチョンの棒に極めてセンシティブに反応している。これは長い付き合いがあってのことだろう。

 

細かいところをどうこうコメントしても仕方がない、とにかく目と耳を一瞬たりとも離せない集中力に満ちた凄い演奏であった。今の日本の楽団と、これだけの「春の祭典」をやれる関係を持っている有力な指揮者は他にいないのではないだろうか。ノットと東響もこの域にはまだ達していないように思える。もしかしたら、ソヒエフがN響に本気を出させることが出来れば、全然解釈は違うだろうが、同程度の高みの演奏を出来るかもしれない。

 

率直にいうと、チョンが指揮する演奏会は、オペラの演奏会形式以外は、これまで素直に満足したことがなかったのだが(前半の「田園」のように、見事だけれど何か足りないと感じてしまう)、曲の性質もあって「春の祭典」には大満足であった。

 

アンコールとして第1部の最後の部分をもう一度演奏し、ガッツポーズをしているチョンの姿を見て、やはり凄い指揮者なのだなと再認識した。6月にメシアンのトゥーランガリラ交響曲を振る予定もあるし、秋にはヴェルディの「マクベス」を振る予定もある(世界的指揮者チョンが年にこんなに何度も日本に来てくれるのは有難い話である。)。今が旬のチョンと東フィルを聴き逃す手はない。