2月の都響には桂冠指揮者インバルが降臨した。御年88歳というが元気である。3つのプログラムを指揮するが、うち2つのプログラムはインバルのアイデンティティに関わるような曲が選ばれている。すなわち、ユダヤ人たるインバルにとっては強い思い入れがあると思われるバーンシュタインの交響曲3番「カディッシュ」。そして、インバルの代名詞であるマーラーについて、新しいチクルスを始めるとして、10番と取り上げる。88歳からチクルスを始めると完結する時には御年幾つなのだろうかと思うが、あと10年は日本に来るぞという強い想いも感じられ、有難い話である。バーンシュタインの「カディッシュ」の前プロはショスタコーヴィッチの交響曲9番である。足を運んでみた。

 

2月16日(金)サントリーホール

ショスタコーヴィッチ 交響曲9番

バーンシュタイン 交響曲3番「カディッシュ」

ジェイ・レディモア(語り)、冨平安希子(ソプラノ)

新国立劇場合唱団(指揮;冨平恭平)、東京少年少女合唱隊(指揮:長谷川久恵)

エリアフ・インバル/東京都交響楽団

 

前半はショスタコーヴィッチの交響曲9番である。5楽章制の比較的軽みのある曲であるといわれており、ショスタコーヴィッチが「第九」を作曲するというので、共産党政権を礼賛する大掛かりな傑作が期待されていた。そんな中でショスタコーヴィッチが作曲したのが、この交響曲9番で、交響曲というよりはシンフォニエッタ風、あるいはディベルティメント風の軽やかな作品である。非常に精妙に組み立てられた名曲として人気も高いが、初演された時には期待された作品と全く違うと批判され、初演を指揮したムラヴィンスキーが二度と指揮しなかったといういわくのある曲でもある。他方、曲の評価は高く、クレンペラー、フリッチャイ、クーベリック、マタチッチといったショスタコーヴィッチ指揮者という印象があまりない指揮者の録音が残されており、チェリビダッケが晩年までレパートリーに入れていたことでも知られている。つまり名曲なのである。

 

そんなショスタコーヴィッチの交響曲9番であるが、今回のインバルの演奏は凄かった。正直にいえば、これまでの曲のイメージを塗り替えられてしまった。比較的速めのテンポで開始された1楽章はかなり冷徹である。全く愛嬌も軽みもない。都響が鉄壁のアンサンブルで、怜悧に、淡々と、何らの感興もなく音楽を進めていく。最初は随分不感症的な演奏に感じられたが、聴き進めていくと、実はこの曲が内包する大いなる虚無のようなものが見えて来た。一見、明るく、軽快な音楽が実は相当無理して明るさを装っていること、楽しい行進曲風のところが、実は軍隊の、もっといえば秘密警察の行進のように聴こえること(インバルがまるで一緒に行進するように両足を動かしていたのが印象的であった)、そうこれはまるで、抑圧的な全体主義の中で、一見明るく振舞っているようにしか聴こえない。そうこの曲は1楽章からして、スターリニズムを、共産主義という思想に仮託した全体主義を、告発する音楽なのである。それをえぐり出すインバルの冷徹で冷たい解釈が秀逸であった。まさかショスタコーヴィッチの9番の1楽章で腰が抜けるような体験をするとは思わなかった。

 

普段はそこまで印象に残らない2楽章も凄い。テンポは速めで、全く感情移入を感じさせない冷たい演奏なのだが、交響曲15番の2楽章を彷彿とさせるような葬送行進曲のように重い音楽となっている。そして弦楽合奏が入ってくると、そのゆらゆらと揺らぐ音楽がまた沈鬱である。まるで虚無の奥底をのぞき込むような怖さがある。3楽章も快速のテンポながら、軽快さよりも、冷徹にやることにより、何やらヒステリックな、無理して明るく振舞っているような趣がある。

 

そして最も強烈なのは4楽章である。この4楽章には長大なファゴットのソロがあるが、そこの深みが凄い。そして思い出すのは、先日聴いた井上道義指揮N響のショスタコーヴィッチの交響曲13番「バビ・ヤール」である。「バビ・ヤール」には4楽章に長大なチューバのソロがあるが、これがこの9番4楽章のファゴットのソロと似ている。ショスタコーヴィッチの印象的な木管のソロというと、例えば、11番のオーボエだかイングリッシュホルンのソロなど高音域の楽器の印象が強いが、実はショスタコーヴィッチが真情を吐露する時には低音楽器を使うのではないかと思われる。そう、本当の恐怖、心の奥底にある虚無を表現するのは、ファゴットやチューバなのではないか。

 

妙に明るい5楽章もそのような文脈で考えると、かなり無理して明るく颯爽とした音楽を作っているとも思われる。偽書説も強いが、「ショスタコーヴィッチの証言」がいうところの、「強制された歓喜」は存外この交響曲9番ではないかと思ってしまう。インバルの淡々とした冷徹な解釈がまさにこの交響曲9番の真髄をえぐり出していたように感じられてならない。この曲の真価を見損なっていたと再認識した。最初に聞いたのが、バーンシュタイン指揮のウィーン・フィルというのも良くなかったのかもしれない。

 

一見明るい作風に仕上げつつ、強烈な虚無的な世界への扉を開く恐ろしい曲。ショスタコーヴィッチの交響曲9番のヴェールを剥ぐ、発見に満ちた恐ろしい名演であった。

 

後半はバーンシュタインの交響曲3番「カディッシュ」である。インバル指揮の都響は2016年にもこのバーンシュタインの交響曲3番を取り上げていたらしい。実はその演奏会は聴いたはずなのだが、異常に忙しい時期で、あまり鮮明に記憶には残っていない。その際には、バーンシュタインの書いた語りではなく、ホロコーストの生き残りであるピサールという人物の書いた語りで上演されたらしい。生前のバーンシュタインがピサール氏に語りを書き下ろすよう依頼していたが、固辞されたものの、ピサール氏は2001年の9月11日の同時多発テロに衝撃を受けて語りを書き下ろし、自らナレーションをしていたとのことで、ピサール氏の死後は、その語りはピサール氏の妻と娘にのみ上演が許されているらしい。今回は、そのピサール氏の家族が来日する予定であったが、諸般の事情で来日が出来なくなったので、通常のヴァージョンで演奏されることとなったという。

 

新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱団を動員し、多数の打楽器を含む大編成のオーケストラと、語りとソプラノ独唱が必要となる巨大な交響曲である。バーンシュタインには、指揮者、ピアニスト、作曲家、教育者といったいろいろな側面があり、要するに偉大な音楽家であるのだが、作曲家としてはブロードウェイで成功していたにも関わらず、常にシリアスな曲での成功を望んでいたという。他方、率直に言ってバーンシュタインの最も魅力的な音楽は、「ウェストサイド・ストーリー」、「プレリュード、フーガとリフ」、「キャンディード」などの音楽だと思ってしまう。3曲ある交響曲などもそこまで面白いとは感じられないし、ミサ曲などもそうである。どうもシリアスな音楽を書こうとするバーンシュタインは力が入り過ぎてしまい、何か仰々しく、理屈っぽい音楽になっているように思われる。

 

ユダヤの祈りである「カディッシュ」と、バーンシュタイン自身のテキストによる語りの入るほとんどオラトリオのような交響曲3番であるが、正直にいうとそれほど面白い音楽であるとは思ってこなかった。ただ、今回の演奏は何か熱が入っていた。語りのレディモアは音楽と完全にシンクロして、美しい声とクリアな英語でテキストを朗読していたし、その抑揚の付け方、声量をささやくような声から叫ぶような声まで使い分けての劇的な表現力が圧巻であった。

 

合唱団はサントリーホールのオルガンの下のいわゆるP席に配置されていたが、大人の新国立劇場合唱団は黒い服装で、少年少女合唱団は白い服装でコントラストを演出していた。字幕が出るというので安心していたが、字幕が出たのは語りだけで、歌詞は出ないのが少し残念であった。バーンシュタインらしい、ジャズ風というか、ポップ風のとことがあり、また、現代音楽調のところがありと多様式主義的な音楽であるが、合唱団も途中で手拍子を打ったり、腕を動かすことを求められるなど、歌唱だけではないパフォーマンスが要求されていた。ささやくような祈りの言葉から、叫ぶようなところまで、多彩な表現が求められるが、新国立劇場合唱団は、時には敢えてアンサンブルが乱れることも厭わずに荒々しい表現をすることも含めてなかなかの熱唱であった。3楽章でようやく出番のある少年少女合唱も気合の入った歌で、アカペラになるところも、インバルの指揮棒をよく見てしっかりと歌っていた。

 

インバル指揮の都響もアンサンブルは万全で精緻に演奏していたし、3楽章になると打楽器が激しいビートを打ちまくり熱演であったと思うが、ついつい語りや合唱に耳が行ってしまっていたこともあり、管弦楽部分の充実した演奏を十分に認識できなかったところもある。あまり聴き込んでいた曲ではないので、演奏の良し悪しまで評価できないし、面白い音楽であるかと言われると、やはりあまり自信が持てない、よく分からないところもあるのだが、こうした曲は、録音で聴くのではなく、会場で聴くことで真価が分かる気がした。ユダヤの祈りのことも正直よく分からないが、何か圧倒される熱量のある演奏であると感じられた。

 

ユダヤ系であったと記憶しているインバルが偉大なユダヤ人音楽家であるバーンシュタインの、最もユダヤ色の強い作品をこのタイミングで演奏したのは偶然なのだろうか。もしかしたら念頭にあったのはウクライナの戦争かもしれないが、折しも被害者として語られることが多かったユダヤ人国家のイスラエルが、テロへの報復という大義名分を掲げているとしても、パレスチナ人を多数殺害するというガザ地区への侵攻が進んでいる中で、ヒューマニストであるバーンシュタインの神と対峙する、真摯な音楽を演奏する。インバルの中にも何か通常ではない思いがあるのではないだろうか。もしかすると、そういった世界情勢が、ショスタコーヴィッチの9番の解釈にも影響していたのかもしれない。

 

インバルと都響の充実振りも素晴らしかったが、インバルがさらに進化しているように感じられてきた演奏会でもあった。ショスタコーヴィッチとバーンシュタインを聴いて、中東情勢に想いを馳せつつ帰路についた。

 

ちなみに、都響のプログラムを見ていたら都響のサポーターになるとCDがもらえるという。そのうちの一つが大野和士の指揮する2022年2月28日の、つまりウクライナ侵攻直後のショスタコーヴィッチの交響曲10番で、凄い名演であったと記憶しているが、それが欲しいがため1口1万円からのサポーターになるかといわれると、なかなか。これは一般的に発売してもらいたいものである。