ブルックナー生誕200年の2024年であるが1月は6番祭りの感を呈している。しかも、在京オーケストラではなく、大フィルと札響が立て続けに東京公演でブルックナーの交響曲6番を演奏したからである。在京のオーケストラには演奏する予定はなかったように記憶しているが、これは生誕200年にしては怠慢ではないか。逆に在京以外のオーケストラの心意気が素晴らしい。今回は首席指揮者バーメルトが同ポスト退任前の最後の演奏会ということであったが、バーメルトはブルックナーの交響曲6番が大好きで、この曲を選んだという。ブルックナー指揮者の印象はないバーメルトであるが、交響曲6番が一番好きなどという人に悪い人はいない(はず)。折角の機会なので足を運んでみた。

 

1月31日(水)サントリーホール

ブリテン セレナード

ブルックナー 交響曲6番

イアン・ボストリッジ(テノール)、アレッシオ・アレグリーニ(ホルン)(ブリテン)

マティアス・バーメルト/札幌交響楽団

 

ブルックナーの6番にばかり注目したかの書き方をしているが、前プロがこれまた素晴らしい。ブリテンの若書きの傑作であるセレナード。これを現役最高のブリテン・テノールであるボストリッジが歌うというのだ。ホルンにも名手アレグリーニを起用している。

 

特定の俳優を想定して芝居やドラマの台本を書くことを当て書きというそうだが、ブリテンも特定の奏者を想定して曲を作曲したので有名である。というよりも、ブリテンの声楽作品の多くは、同性愛者であったブリテンのパートナーであったテノール歌手のピーター・ピアーズを想定して書かれている。逆にいえば、ブリテンの作品の多くには、ピアーズのようなテノールが必要になる。ピアーズは、いわゆる三大テノールのような頭の天辺から突き抜けるような朗々たる声を響かせるイタリア・オペラ的なテノールではない。もっと内向的で、渋いが、何ともいえない妖艶さもある。そもそもブリテンは、朗々と歌って目立つような役をピアーズには割り当てない。むしろ抑圧されるような、暗い役が多い。

 

そういうブリテンの曲を歌いこなすテノールとなると、歌唱力だけではなく、知性、艶味、表現力といったところが揃っている必要がある上、ブリテン特有の暗さも表現できなくてはならない。英国にはそういうブリテンの作品を得意とする歌手の系譜があり、ピアーズの後には、ラングリッジという、適任者がいたが、その後を継いだのがボストリッジである(名前が何となく似ているのは偶然だろう。)。ラングリッジの声は、ピアーズよりもよりも声が甘く、ビブラートが妖艶にかかり、ミステリアスで強烈な印象を残す。ブリテン以外では性格的役を得意としていた。ボストリッジはそういうラングリッジに比べると、艶では負けるものの、より深みのある、朗々たる声の持ち主であり、より知性的にブリテンにアプローチする。ピアーズやラングリッジが直感的に掴んでいたブリテンの世界観をより知的に構築しているように感じられる。シューベルトの歌曲で深みのある歌唱を聴かせるボストリッジならではである(ちなみに、ピアーズとブリテンによるシューベルトの歌曲の録音も残されているが、世界観が独特で凄い。)。何が言いたいかというと、ブリテンの第一人者を連れて来たのである。

 

そしてデニス・ブレインを想定して当て書きしたホルンには、アバドの信頼が篤く、スカラ座フィルの首席奏者やベルリン・フィルの首席客演奏者などを歴任し、ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管やルツェルン祝祭管弦楽団の首席奏者を務めるアレグリーニを起用している。ブリテンを演奏するにはすこぶる贅沢である。これに札響の弦楽セクションが絡む(8-8-6-4-2編成)。

 

札響は最初からコンサートマスターまでまとめて舞台に出て来て座る。弦楽器だけなのでコンサートマスターが音を出してチューニングをすると、ソリストと指揮者が舞台に出てくる。ボストリッジとアレグリーニは痩身長身で足取りも軽く出てくる。それに対して拍手をしながら指揮者のバーメルトがゆっくりと登場。そうバーメルトは1942年生まれだからもう80歳を超えているのだ。

 

ブリテンのセレナードはテノール、ホルンと弦楽のための連作歌曲で8曲からなる。最初の1曲はホルンのソロのための曲。アレグリーニが無造作に構えて吹き始めると、その音色のまろやかさに圧倒される。繊細で完全なコントロール、とろけるような音色、一流のホルン奏者の凄みを最初の数秒で印象付けられた。そして2曲目になると弦楽器とボストリッジの歌が加わるが、ボストリッジも第一声を上げた瞬間に、その声に圧倒される。声を張り上げることもないが、サントリーホール全体に軽々と届く声量、イギリス人だからということもあるだろうが、英語とメロディの結びつきがとても美しい。しかも、実に細かく表情を付ける。それが全て自然に行われるので、歌っているのか、節を付けて詩を朗読しているのか分からないほどである。29歳のブリテンが作曲した作品ということで、必ずしもブリテンの個性が全開になっているわけでもなく、演奏もあって爽快な印象だが、才気煥発な天才作曲家のアイディアが随所に光っていて面白い。札響の弦楽セクションも、アンサンブルが緊密で、名匠の指揮の下で緻密な演奏ぶりで良かったのだが、もう耳はボストリッジの蠱惑的な声とアレグリーニのホルンの美音に釘付けであった。ブリテンの作品はモダンであるが実は非常に美しい。そして、その美しさがひたすら耽美的である。そのようなブリテンの作品を歌うのにやはり最高の歌手がボストリッジだ。あっという間の30分であった。

 

後半のブルックナーでは弦楽器が14型に拡大。木管は2管だが、ホルンとトランペットは1人ずつ増やしていたようだ。バーメルトはスイス人の指揮者である。実演で聴くのは初めてであるが、Chandosレーベルにかなりの量の録音がある。ただし、イギリス人作曲家パリ―の交響曲全集だったり、スイス人作曲家マルタンだったり、スペイン人作曲家のジェラールだったり、ハンガリー人作曲家のドホナーニだったり、モーツァルトと同時代の色々な作曲家の作品集だったり、レパートリーの格がよく分からない。何でも対応できる職人といったイメージを勝手に持っていたが、どれも演奏は折り目正しく、引き締まったもので初めての曲を聴くのに不足がないものである。札響の首席指揮者になったのには驚いたものだったが、そのバーメルトのブルックナーはもちろん初めて聴く。

 

まず驚いたのはブルックナーの6番をバーメルトが暗譜で振っていたこと。指揮者が好きだというのは本当なのだろう。フル編成になった札響は、よく考えると札響も実演は初めてだったのだが、冒頭から弦楽器のアンサンブルが素晴らしい。弦楽セクションが一体化して緻密に三拍子の入った刻みを入れる。弦楽器も最初からよく鳴っていて、開演前にちゃんと音出しをしていたことが分かる(指揮者にゲネプロで絞り上げられていたのかもしれない)。大きな意味で出したい音のイメージを弦楽器全体が共有しているようで、同じ方向を向いて弾いているのがよく分かる。メンバー同士もいい人間関係なのではないだろうか。

 

管楽器が入ってくると、在京オーケストラを聴き慣れているサントリーホールということもあり、最初は少しパワー不足にも思われたが、実は非常に精妙にアンサンブルが整えられていて、管楽器内のハーモニーが実に美しく、しかも金管楽器の音量が上がってもずっと弦の動きが全て聴こえている。つまり、全ての音がきちんと聴こえるように音量バランスが整えられているのである。同じスイスの名匠ヴェンツァーゴの指揮したブルックナーを思い出させられるが、解釈も個性的なヴェンツァーゴに比べると、バーメルトははるかに正統派で、真っ直ぐなブルックナー解釈になっている。曲を愛するがゆえに、全ての音をきちんと聴き手に届けたいということなのではないだろうか。対抗旋律などもきちんと鳴らすので、各楽器が何をやっているのかが全て見える化(聴こえる化)されている。

 

そして最初にパワー不足に感じられた管楽セクション、確かに音量自体はそこまで大きくはないのだが、バーメルトの音楽の流れと起伏の作り方が上手いので、札響の全力の音量が曲の頂点で最も効果的に響くように設計されている。緩急は付けつつも、非常に流れがいいのだが、音量を上げていく時に、スタートをかなり小さい音量に設定しているので、想像以上に音楽のうねりが付けられる。他の楽団のパワーフルな金管の音のシャワーを浴びるような演奏とは違い、全体的に音量は抑え目ながら、その中できちんと音楽の流れに沿って頂点が作られているので、音楽的には全く問題がない。オーケストラの特性をよく理解した上で音楽を組み立てている。さすがは名匠である。テンポは遅くもなく、かといって速過ぎもせず実に中庸なものであるが、落ち着いた足並みで急いたところは皆無。一つ一つ音楽のパーツを組み上げていく。

 

そんな芸風なので1楽章はとても端正に仕上げられていた。そして弦楽器の美しさがあふれ出したような2楽章の神々しさ。3楽章は落ち着いてブルックナーの凝ったリズムを的確に処理し、曲の面白さを上手に引き出していた。そして4楽章も、端正な演奏ながら、各楽器の動きがよく分かるので、発見が多かった。トリスタンとイゾルデに似た音型が出てくるところは、愛の死の音型はそれほど強調せず、むしろ対抗旋律を浮き上がらせて重厚な音色を作り出していた。4楽章になると、札響の音量設定に耳が慣れてくるので、よりバーメルトの音楽設計の妙を楽しめるようになる。4楽章の最後の部分では、もう少しトロンボーンの音が聴こえて欲しかったが、とにかく全体的に丁寧かつ精妙に作り込まれた演奏に大満足である。拍手が鳴りやまなかったのもうなずけるところである。最後に、指揮者に対する花束贈呈もあった。

 

バーメルトと札響の相性の良さをバーメルトの退任公演で知ったというのは我ながら不明を恥じるところであるが、よく考えると札響はエリシュカも見出した楽団である。目利きがいるのであろう。

 

なお、改めて経歴を見ると、バーメルトはセルに師事し、ストコフスキーの助手を務め(そういえば、ストコフスキー編のバッハをまとめて録音している。)、マゼールが音楽監督時代のクリーブランド管で正指揮者を務めたという。実は凄い巨匠を間近で見て来た人なのだ。そんな指揮者が年輪を重ねて取り上げたブルックナーの交響曲。札響の献身的な演奏もあり、実に清々しい素晴らしい演奏会であった。

 

いい気持ちでホールを出ようとしたところ、今年4月から首席客演指揮者に就任するという下野竜也らしき人物がいるのを見掛けた。さらにホールを出たところで、ホクレンの好意だとかで、片栗粉と大豆ミートが配られていた。北海道らしいといえばらしいのかもしれないが面白い。札響、ちょっと注目しなくてはならない。