個人的にはあまり相性がいいとはいえない日フィルの首席指揮者のカーチュン・ウォンであるが、この人は選曲のセンスが良い。オリエンタリズムを軸にした、かなりマニアックなプログラムを組んでいた。プーランクの2台のピアノのための協奏曲と知る人ぞ知る名作であるマクフィーのタブー・タブーアンが取り上げられるというし、2台のピアノのソリストが、児玉麻里と児玉桃というので、ついつい足を運んでしまった。

 

1月26日(金)サントリーホール

チナリー・ウン グランド・スパイラル:砂漠の花々が咲く

プーランク 2台のピアノのための協奏曲

マクフィー タブー・タブーアン―オーケストラと2台のピアノのためのトッカータ

ドビュッシー 海

児玉麻里・児玉桃(ピアノ:プーランク、マクフィー)

カーチュン・ウォン/日本フィルハーモニー交響楽団

 

こんなプログラムで客が入るのだろうかと心配してしまうが、そこそこ客が入っていたのはカーチュン・ウォンの人気なのであろうか。

 

最初に演奏されたチナリー・ウンはカンボジア出身のアメリカ在住の作曲家とのこと。調べてみると数枚音盤は出ているようであるがいずれも未聴である。グランドスパイラルという作品は12分ほどの作品ながら、大編成の管弦楽を要する作品でもある。元々吹奏楽のための作品を管弦楽のために仕立て直したとのこと。アメリカで作曲を学んでいたが、政情が安定せず、ホロコーストがあるなどした祖国の状況に心を痛め、カンボジアの文化を改めて学び直したり、アンサンブルを結成して演奏会を開いたり、歴史的録音を保存するための活動を行うなどした後に、作曲を再開したのだという。聴きにくい音楽ではないが、捉えどころのない音楽が続くような印象があり、何だかよく分からないうちに終わってしまったような気がする。カンボジアの音楽が使われているのかなど今一つよく分からなかったが、演奏もエッジの利いた鮮やかなもので、普通に楽しめた。

 

続いてプーランクとなるが、2台のピアノを舞台に入れるのにかなり時間がかかる。その間に、指揮者が舞台に出て来て話をした。チナリー・ウンは、東南アジアを代表する作曲家で、日本でいえば山田耕作のような位置にいる作曲家であること、カンボジアの結婚式や町中で響いているような音楽が随所から響いてくることなどを語り、カーチュンがチナリー・ウンにかなり傾倒している様子がうかがえた。シンガポール出身のカーチュンとしては、地域的に近いカンボジア出身の作曲家に親近感を感じるのだろうか。ただ、この説明は演奏前に聴いた方が面白かったのだろうとも思われたところである。続いてプーランクについての説明があり、パリの博覧会でプーランクはガムランの音を聴き、2台ピアノ協奏曲にはその影響があるのだとういう。他にもジャズの影響なども感じられるという。そんな話を通訳付きでしているうちに舞台セッティングが終わる。

 

今回のソリストは児玉麻里と児玉桃の姉妹デュオ。児玉麻里はどちらかといえばベートーヴェンなど王道レパートリーで有名であるし、児玉桃はどちらかというとフランス音楽を得意としている。ただ、最近は二人のデュオで活躍し、録音なども発表している。児玉麻里は赤の、児玉桃は白のドレスで登場した(紅白?)。

 

プーランクには5曲の協奏的作品があるが、いずれも鍵盤楽器のためのものである。有名なのはオルガン協奏曲であるが、チェンバロと管弦楽のための「田園のコンセール」も超の付く名曲である。そして、管楽アンサンブルを従えての室内楽と協奏曲の中間形態のような「オーバード」が知る人ぞ知る名曲である。プーランクは管楽器との相性がいいので、管楽器だけとピアノという編成がプーランクの音楽語法と合うのだろう(反田恭平が取り上げるというチラシを見たが、反田のピアノはあまり好みではないが選曲のセンスはすこぶる良い。)。ピアノの名手でもあったプーランクであるが、ピアノ協奏曲は晩年の作品でアメリカツアーのために作曲したもので、その意味では脂の乗りきったプーランクの力作といえば、この2台のピアノのための協奏曲である(ちなみに、自作自演の録音もある。)。ラヴェルのピアノ協奏曲やマルケヴィッチの作品やガムランなどいろいろなものの影響を受けているという。プーランクにしては、まるでバルトークのようなかなり激しい部分もあり、パワーフルな曲でもある。

 

1楽章は特に激しいのだが、冒頭から2台のピアノが派手に入ってくる。第1ピアノを児玉麻里が、第2ピアノを児玉桃が弾いていたようであるが、引き締まった硬質な音色で鋭い打鍵で切れ味の鋭い児玉麻里に対し、より色彩感があり、温かみの感じられる児玉桃のピアノの音色が対照的で、視覚的効果もあり、第1ピアノと第2ピアノの役割分担が可視化されていたのは実演ならでは。二人とも、多少のアンサンブルの乱れは気にせず、ぐいぐいとパワーフルに曲を進めていくので迫力が凄い。いつも鮮やかながら曲の前進性があまり感じられないカーチュンも二人のソリストに引っ張られてどんどん曲を進めていく。管弦楽も、ピアノに引っ張られて演奏していたのではないかと思われる迫力であった。パリのお洒落な作曲家というプーランクのイメージとは少し違うかもしれないが、この曲であればこの解釈でピッタリである。1楽章は怒涛のように過ぎていったが、聴いていて生理的な快感を感じるほどの快演であった。

 

2楽章はまるでモーツァルトのような可愛いメロディで始まる。これは児玉麻里と児玉桃の個性がよく出る。正統派に、真っ直ぐ無心にメロディを奏でる児玉麻里に対し、児玉桃の方が少し色彩感とフランス的な色香が漂う。姉妹でもこれほど個性が出るのは面白い。まるでモーツァルトのような音楽を書いても、全く違和感がないところがプーランクの天才たる所以なのだろう。3楽章も二人のソリストが引っ張って駆け抜けるような演奏で、非常に密度の濃い演奏で、あっという間に終わったような感じられた。素晴らしい演奏で、後半にも登場する二人のソリストが何度も舞台に呼び戻されていたのも当然であろう。

 

休憩を挟んで演奏されたのはカナダ出身の作曲家のコリン・マクフィーの「タブー・タブーアン」である。マクフィーはパリに留学した後にアメリカで活動を始めたところ、録音で聴いたバリ島の音楽に魅せられて、バリ島に乗り込んでガムラン音楽を研究したらしい。この作品は1936年の作品というが、2台のピアノとかなり大編成の管弦楽を使って、ガムラン風のリズムが錯綜する音楽を繰り広げる。しかし、聴いていると、これがまるでミニマル音楽のようなのである。それこそフィリップ・グラスやマイケル・ナイマンの音楽世界に非常に近い。格好いいリズムが続いていくことで、自然と体がリズムに合わせて動き出すような快感がある。

 

マクフィーの曲の中で知られているほぼ唯一の曲であるが、ギーレンやスラトキンの録音があり、一度聴いてからすっかり気に入ってしまっていた(調べてみたらラッセル・デイヴィスの録音など他にも幾つか録音はあるらしい。)。いや騙されたと思って聴いてみていただきたい。

 

2台のピアノは管弦楽の一部として位置づけられているようで、ピアニスト2人が、指揮者に対面するように指揮台の前にピアノが並べて置かれる。ちなみに、プーランクも舞台配置を細かく指示しているようで、指揮者は2台のピアノ(こちらは管弦楽の前に2台交差するように配置されている。)よりも客席寄りに配置され、ピアノのすぐ後ろに打楽器が配置されていた。

 

演奏は、安定感たっぷりのピアノに、リズムの切れのあるカーチュンの指揮で日フィルが大いにスウィングする。曲自体がリズミカルで、繰り返しの中で進んでいくので、カーチュンの指揮でも音楽の流れがよい。もちろん、鋭い打鍵で切れ味よくガンガンと弾いているピアノが作り出している力感も曲を前に進む原動力となっていたのであろう。もう聴いていてひたすらリズムとハーモニーの移り変わりにひたすら身を浸すしかない。特に1楽章の「オスティナート」が爽快であった。なかなか実演で聴く機会のない曲だが、素晴らしい演奏で圧倒された。なお、こちらの曲では児玉桃は同じ白いドレスであったが、児玉麻里は黒いドレスに着替えていた(黒白?)。残念ながらアンコールはなし。

 

最後はドビュッシーの「海」になる。色彩感が鮮やかで、リズムの切れもあり、比較的聴きやすく組み立てられた演奏であったが、ピアノが抜けたらどうも音楽が少し単調になってしまったのだろうか、少しまったりしていしまい、少し睡魔に襲われかけた。とても美しく鮮やかながら、何か刺激が足りないのである(カーチュンの指揮自体はメリハリが凄くあるので、この刺激の欠如は不思議なのであるが。)。あまりドビュッシーの「海」を面白いと思っていないこともあるのだろう。

 

今回聴いていて、カーチュン・ウォンはもしかしてミニマル音楽と相性がいいのではないかと思ってしまった。

 

ちなみに、児玉麻里は夫君であるケント・ナガノと共演したプロコフィエフのピアノ協奏曲1番と3番の録音がある(プログラムには1番と2番と書いてあったが1番と3番が正しい)。この録音で初共演をして意気投合して結婚をしたというのであるから、プロコフィエフのピアノ協奏曲がキューピッド役であったということだろうか。音楽のみならず人間同士の結びつきが生まれた瞬間が音に残されているというのはちょっと素敵だなと思ってしまった。話が脱線したが、今回の敢闘賞は児玉麻里と児玉桃だと思う。また二人の演奏を聴きたいなと思った。