2024年はブルックナーの生誕200年というメモリアル・イヤーである。そのため、ブルックナーの演奏機会は多めである。さあ、ブルックナーを聴きまくろう、と年初からブルックナー好き(世間ではブルヲタと呼ばれているらしい)が気勢を上げているのではないだろうか。素晴らしいのは都響が1月の最初の定期演奏会でブルックナーを取り上げたこと。しかもメモリアル・イヤーのスタートに相応しく番号付きの最初の交響曲である交響曲1番である。これは足を運ぶしかない。きっと全国からブルヲタが集合していたに違いない。

 

1月13日(土)東京芸術劇場

モーツァルト ピアノ協奏曲24番(独奏:津田裕也)

ブルックナー 交響曲1番(1890/1891年ウィーン稿)

下野竜也/東京都交響楽団

 

冒頭でアナウンスが流れて能登半島の地震の被害者に対する哀悼のために1曲演奏するという。舞台を完全に明るくしない中で指揮者と弦楽器奏者が入場する。ぱらぱらと拍手をする人もいたが、全体的には拍手は高まらず、拍手していた人も空気を読んだのか途中で止めていた。演奏されたのはバッハのいわゆる「G線上のアリア」である。急遽組んだと思われるので、それほど練習はしていなかったのではないかと思われるし、アンサンブルにも少し乱れがあったが、コンサートマスターの矢部達哉に率いられた弦楽セクションは非常に美しい音色で感情を込めて演奏していた。終演後はしばらく指揮者も奏者も動かず、黙祷を捧げていたようで、そのままゆっくりと舞台から退場した。そこでようやく拍手がぱらぱらと鳴ったが、これも大きなものにはならない。どうせなら最初のアナウンスで拍手は不要と言っていおいてもらった方が皆さん悩まずに済んだであろうし、演奏後に黙祷をお願いしますとも伝えておいた方が良かったかもしれない。

 

改めてオーケストラが入場しモーツァルトのピアノ協奏曲となる。独奏の津田裕也は今回初めて実演に接する人である。下野は序奏を快速なテンポであっさりと始める。薄味でさっぱりとした風味に仕上げてくる。弦楽器も少し乾いた音色でさばさばと弾いている。

 

ところで、今回演奏された24番はモーツァルトのピアノ協奏曲中2曲しかない短調の作品である(もう一つは20番)。短調のモーツァルトに駄作なし(というか、すべからく傑作)というが、粒揃いのモーツァルトのピアノ協奏曲の中でも短調の2曲はずば抜けて劇性が高く、古典派の枠を超えたロマン派の音楽に近い濃厚な感情の吐露がある作品である。特に24番はグールドが唯一録音を残したモーツァルトのピアノ協奏曲であるし、プレヴィンが指揮振りを得意とし(録音も映像もあるがいずれも素晴らしい)、クルト・ザンデルリングの引退記念演奏会で、盟友内田光子と協奏曲伴奏の達人ザンデルリングがが共演したのもこの24番である。つまり、それなりの重さのある曲なのである(クララ・ハスキルとこの曲を録音しているマルケヴィッチなど、まるでドン・ジョヴァンニの地獄落ちの音楽のような、ベルリオーズの幻想交響曲かのように劇的に指揮している)。この曲があったからこそ、ベートーヴェンがこのジャンルで一皮むけたと思われるピアノ協奏曲3番(モーツァルトの24番と同様にハ短調)を作曲したのだとも思う。

 

ところが、今回の演奏は妙に軽い。もちろん、ロマン派の味付けを捨象してモーツァルトのスタイルを考えると、それほど劇的に演奏する必要はないのかもしれないが、あまりにも淡泊ではないだろうか。そして、津田のピアノ独奏が入ってくると、個々の音はそれなりに磨いているのだと思うが、ペダルを多用して音が少し濁って感じられるところがあり、何よりも、これまたあまり起伏を作らずに妙に淡泊な演奏なのである。ペダルを多用していることからも想像されるとおり、ピリオド・アプローチでもない。結局、このソリストと指揮者は、さらりとあっさりとこの曲を解釈したということなのだろう。これまでロマンティックに解釈され過ぎて来たということで、敢えて24番を他のモーツァルトのピアノ協奏曲と同じ感覚で弾いてみたということなのかもしれないが、それにしても薄味過ぎたように感じられた。この曲をこれほど短調、じゃなかった、単調に感じたことは初めてである。好きな曲なだけに解釈の方向が合わないとがっかりするというところもあるだろうが、個人的には残念に感じられた演奏であった。なお、ソリストのアンコールはベートーヴェン の6つのバガテル から 第5番とのこと。こちらもやや薄味な演奏なので、そういう芸風のピアニストなのかもしれない。

 

前半に少し気持ちが沈んでしまったので、勝手に一人で気勢を上げるために、ビール党であったというブルックナーに敬意を表して休憩中にビールで喉を潤す(芸術劇場のバーコーナーはビールを4つの銘柄から選べるところが素敵である。)。さあ、メモリアル・イヤーのブルックナーの聴き初めだ。

 

ブルックナーの交響曲1番は作曲者が40代になってからようやく書き始めた交響曲の出発点のようなものである。晩年に改訂を行っており、今回演奏されたのはその改訂されたいわゆるウィーン稿である。若々しい瑞々しい音楽が、老練な作曲家の筆で改訂されているので、聴き応えのある名曲である。そして都響は2023年のブルックナー・イヤー前夜に、ミンコフスキとの5番と小泉和裕との2番で驚異的な神懸った名演を聴かせてくれた楽団である。期待は高まる。

 

曲は冒頭の低弦のリズムの刻みから前半のモーツァルトの時のスカスカな響きとは全く違う充実の響きで開始された。期待は膨らんだが、そこから先が不思議な展開をした。都響の団員はちゃんとは弾いているのだが、どうも曲がきちんと組み立てられていない。何か各パートがバラバラに聴こえてしまう。木管と金管と弦楽器が勝手に弾いているようで、全体がアンサンブルとして締まらない。聴きながらこんな曲だったかと思ってしまった。もちろん、響いている個々の音自体が間違っているわけではないのだが、どんな曲だかまだ分かっていない人たちが、試しに譜読みをしているような不思議なテイストである。音楽がどこに向かっているのかが全然見えて来ないのである。どうなっていたのだろうか。

 

下野は広島交響楽団とブルックナーに取り組んでいるし、録音など聴くと、重厚さや雄大さはそこまでではないが、引き締まったアンサンブルとハーモニーのバランスの良い秀演だったので、決してブルックナーが苦手な指揮者ではないと思うのだが、この1番は指揮者の音楽の設計が見えない、ただ淡々と棒を振っているような印象の演奏になっていた。「どうした下野」と言いたくなる。

 

その印象は1楽章と2楽章を通じて続いて、都響の個々の奏者が上手だといった感想しか持てず。さすがに3楽章は音楽が分かりやすいしオーケストラが何も考えずに同じ方向を向いて走れるのでようやく音楽が走り出し、アンサンブルもちゃんとして、指揮者のせいか、オーケストラの自発性のためか、きちんとした音楽になってほっとした。そうなると、都響の精緻なアンサンブルが光り、3楽章はなかなか聴き応えがあった。ブルックナーらしいスケルツォ楽章であるが、特に楽章最後が妙に格好良い。4楽章もその勢いのまま始まり、ちょっと期待したが、1楽章や2楽章に比べるとかなり持ち直していたが、やはり指揮者の方向性があまり感じられない、やや漫然とした演奏に戻ってしまっていて、どうも画竜点睛を欠く演奏に感じられた。都響はきちんと弾いていたし、最後の部分もそれなりに熱を込めて盛り上げていたが、音楽全体との関係でどうも興奮させられるところが少なかった。

 

そういえば、下野の指揮というと、神奈川フィルを指揮したブルックナーの交響曲6番も不思議なほどはまらない演奏であった。実はあまりブルックナー向けの指揮者ではないのだろうか。今回の1番は、指揮者の意図的な解釈であったのでなければ、どうもオーケストラが曲の構造を理解せずに、よく分からないままに漫然と音を鳴らしていたような印象の演奏になってしまっていた。自分が出している音が、曲の中でどのような意味があるのかが分からない、少し戸惑ったような。もちろん、プロフェッショナルの達人集団である都響なので、本当はそんなことはないのだろうが、もしかしたら指揮者の解釈がオーケストラに浸透しきれていなかったのかもしれない。あるいは、そもそも何か調子が悪かっただけかもしれない(そういえば、都響は夜の公演に比べると、午後の公演の方が調子が出ていない気もする。)。サントリーホールや東京文化会館と違って芸術劇場の音響に慣れていないのであろうか(とはいえ、都響はC定期は芸術劇場なので、決して慣れていないわけではないはずである。)。とにかく、最後まで焦点が定まった気がしないまま終わってしまった印象の演奏会であった。終演後にブラボーを叫んでいた人もいたので、違う感想を持った人もいたのかもしれないが。

 

率直にいうと、下野は面白い攻めた選曲にはいつも唸らされるが、指揮は手堅くそこまで面白いという印象はない。これまで感銘を受けたのはN響とのドヴォルジャークの交響曲7番くらいなのだが、これまで変わったプログラムばかり聴いてきたので、あまり自覚していなかったが、もしかしたらあまり音楽的な方向性についての相性が良くないのかもしれない。

 

少々残念なブルックナー・イヤーの走り出しになってしまった。今年のブルックナーについては、これから尻上がりに良くなっていくことを切に祈りたい。