ロシアによるウクライナ侵攻によってクラシック音楽界はいろいろな影響を受けている。西側諸国から事実上追放されたゲルギエフは最近マリンスキー歌劇場に加えて、ボリショイ歌劇場のポストも兼ねることとなったという。プーチン支持を貫いたことの恩賞ということなのだろう。他方、トゥールーズ・キャピトル響とボリショイ歌劇場のポストをいずれも辞任したソヒエフのような人もいる。当初はロシアを支持するようにも見えたネトレプコは西側での仕事を選んだようだ。音楽家に政治的正しさを求めることに意味があるかは議論があろうが、音楽家も社会的な存在であるし、有名な音楽家は社会的な影響力もある。ムッソリーニと喧嘩したトスカニーニは結果的には「正しく」、結果的にニュルンベルク裁判で無罪になったとはいえナチに利用されたフルトヴェングラーは、本人がどのように思っていたとしても、ナチに利用されたという事実は重いし、一時的に音楽活動を制限された。メンゲルベルクに至っては戦後は音楽活動が出来なかった。

 

そんな中で、ロシアに住む音楽家にとって西側に行くこと自体が一定のリスクになっているのだろう。日フィルと縁の深いラザレフも、プーチンとの関係はよく知らないが、コロナ禍の中では来日してくれたが、ウクライナ侵攻以降は来日できなくなってしまった。日フィルとラザレフとの蜜月関係を知る身としては残念極まりないことである。

 

当初ラザレフが指揮する予定であった演奏会を振ったのが新しい日フィルの首席指揮者であるカーチュン・ウォンである。カーチュン・ウォンが力を入れている日本人作曲家の作品ということで、外山雄三と伊福部昭の作品を取り上げ、ラザレフを思ってかショスタコーヴィッチの交響曲5番を取り上げた。世評高いカーチュン・ウォンについては、才能はあるのかもしれないが、少し自分の好みとは方向性が違うなと聴く度に思うのだが、いつもプログラムの良さにくらっと来る。今回も伊福部昭の最高傑作の一つであるラウダ・コンチェルタータが演奏されるというので足を運んでみた。

 

12月8日(金)サントリーホール

外山雄三 交響詩「まつら」

伊福部昭 ラウダ・コンチェルタータ(独奏 池上英樹)

ショスタコーヴィッチ 交響曲5番

カーチュン・ウォン/日本フィルハーモニー交響楽団

 

最初は今年亡くなった外山雄三の交響詩である。「管弦楽のためのラプソディ」が有名な外山雄三であるが、それ以外の曲についてはなかなか聴く機会はない。ロストロポーヴィッチのために書かれたチェロ協奏曲もあるし、それなりの数の曲を生み出しているが、そこまで録音が多いわけでもない。指揮者としても大いに尊敬されていたが、その立場を使って自作を振りまくったという訳でもないようである。今回演奏された交響詩「まつら」は1982年に初演されたもの。佐賀県唐津市の市民が依頼したといい、2000人の市民が一口1000円を負担して作曲料を準備したという。民謡風のメロディを使った聴きやすい作品である。素朴に有名な民謡を組み合わせた有名な「ラプソディ」に比べると、より洗練された美しい作品に仕上げられている。カーチュン・ウォンの指揮は、音色を美しく整え、あまり民謡民謡しない上品な語り口で丁寧に指揮していた。いつものことながら、拍手を受ける時に客席にスコアを示して作曲家への敬意を示していた。

 

続いて伊福部昭のオーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」が演奏された。伊福部の協奏的作品としては他に、2曲のヴァイオリン協奏曲、ピアノと管弦楽のための「リトミカ・オスティナート」、二十絃箏と管弦楽のための「交響的エグログ」がある。加えて、失われたと思われていたというピアノと管弦楽のための「協奏風交響曲」がある。この中でも、独奏に打楽器的な要素が強い、「リトミカ・オスティナート」と「ラウダ・コンチェルタータ」が最も伊福部の魅力が開花しているように感じられる(もちろん、他の作品が悪いという意味ではない。)。錯綜するリズム、どんどん熱を帯びる熱狂的な音楽、まさにリズムの饗宴というべきこの二作を伊福部昭の最高傑作とすら言いたい。「ラウダ・コンチェルタータ」は安倍圭子独奏、山田一雄指揮の新星日本交響楽団による初演時の録音が残されており、そのあまりに熱い演奏(細かいところはさておき圧倒的な勢い)を耳タコになるほど聴いてしまったので少し偏ったイメージを持っているかもしれない。その後、同じ安倍圭子独奏でも岩城宏之指揮都響の録音を聴いて、緻密にやられると随分と曲の印象が変わるなと思った記憶がある。その後は録音も増えたし(謎のドイツだかの打楽器奏者がこの曲を弾いてみたく、シンセサイザーで伴奏を作って自分で叩いているというトンデモ録音もある。)、実演でも安倍圭子の独奏でも、その弟子筋(?)の奏者の演奏でも何回か聴く機会があったが(伊福部の弟子の和田薫による吹奏楽版というのもある)、もちろん出来不出来、解釈の違いはあれども、いつ聴いても興奮させられる作品である。

 

では、今回の演奏はどうであったか。独奏者は池上英樹という初めて名前を見た奏者である。経歴を見る限り、安倍圭子に師事したわけではないようである。日フィルは、かつて伊福部立会いの下で1990年代に広上淳一指揮で一連の録音を行った、伊福部と縁の深い楽団である(当時を知る団員は少なくなっているかもしれないが。)。カーチュン・ウォンは冒頭の少し土俗的な香りのする旋律を、すっきりと、上品かつ優雅に鳴らす。割と熱っぽく演奏する例が多いように思う部分だが、冷静というのとも違うが、どちらかといえば弦楽器の弓に圧をかけさせず、美しく歌わせているところが、これまで聴いてきた演奏との違いを感じさせられたところかもしれない。音楽がさらさら進んでいくのも伊福部の演奏としては新鮮である。

 

独奏の池上は非常に音色に対する感覚の鋭い奏者である。デリケートに、最も楽器が美しく響くように打つ力を調整している。マリンバ独奏では静かなところも多いこの曲を、非常に繊細に美しく鳴らしていた。もちろん、力強く叩くところでは、思い切った音量を出していたが、そういう場面でも、完璧に音色がコントロールされている。打楽器の上手い下手のことはよく分からないが、これほどコントロールの利いたマリンバは初めて聴いたように思う。他方、その完璧なコントロールが、曲の勢いを少し殺していた部分もあるかもしれない。最後までまるで汗をかいていないようにひんやりとしたクールなソロを貫いていた。

 

カーチュン・ウォンの指揮は、冒頭から首尾一貫した美学に貫かれていたようで、鮮やかで美しく、優雅に、上品にということであったようだ。他方、伊福部の前にどんどん進んでいくような勢いは出て来ない。舞踊的要素については、どんどん熱狂していく伊福部の音楽を、まるでウィーンの夜会のように、優雅で一貫したテンポでステップを踏んでいく。その結果、決してリズムの切れが悪いわけではないのに、どうも曲が前に進んで行かない。瞬間瞬間の音は美しいのだが。また、すっきりしているのだが、非常に音量バランスに配慮された演奏であり、細部が良く聴こえるといったタイプの演奏ではないので、聴こえ難い音も良く聴こえるというものでもない。要するに徹底的にマイルドに調和されているのである。優雅で上品で美しく調和に満ちたラウダ・コンチェルタータ、解釈の多様性という意味では興味深かったが、この曲に求めたい、土俗性、野蛮性、前進性といったものが全て犠牲になっていたようにも思え、これまで聴いてきた演奏と比べるとまるで違う曲を聴いたような印象があった。熱演ではあるのだが、どうにも体温が上がって来ない。微妙に熱狂できないのである。

 

池上のアンコールは「星に願いを」をマリンバ・ソロで。こちらは、物凄いデリケートな音色のコントロールの妙技を見せてくれた、実に繊細な演奏であった。マリンバの音色がどんどん変化していくように感じられるところも凄かった。こういう音楽が得意な奏者なのだろう。

 

後半はショスタコーヴィッチの交響曲5番である。こちらは面白い演奏であった。暗譜で指揮していたが、見ているととにかくバトン・テクニックが凄い。非常に分かりやすくオーケストラに指示を出している。テンポは全体的に速目ですいすいと進めていく。低音まできっちりと鳴らしているが、全体に軽やかで重厚さはない。ショスタコーヴィッチの演奏では、まるで重武装戦車が走っていくような重厚な演奏もあるが、カーチュン・ウォンの演奏はまるでお洒落なスポーツカーでドイツのアウトバーンを疾走しているような演奏である。音色は実に美しく、すっきりとまとめられており、1楽章の弦楽器が奏でる静かな部分なども非常に美しい。やはり鮮やかで、優雅で、上品で、とても調和が取れた演奏である。

 

ショスタコーヴィッチは大好きな作曲家であるが、交響曲5番にはそれほど思い入れがないせいか、これは一つの解釈として面白く聴けた。作曲された歴史的文脈からも、ソ連=ロシアの演奏伝統も、あるいは、「ショスタコーヴィッチの証言」に影響を受けてということもある西側におけるショスタコーヴィッチ解釈の複雑な変遷も、あるいは今もなお残る抑圧と暴力も、そういった外的要素を全て捨象し、素直に楽譜を読み込み、スコアが最も鮮やかに響くように整えた、そういう演奏である。その疾走感に、少しロジンスキーやバーンシュタインの演奏を思い出させるところもあるが、本質はおよそ別物というべきなのであろう。他方、歴史的な文脈を全てはぎ取った時に、実は非常に精巧に書き込まれたスコアであることも明らかにされていた。

 

そういう演奏なので、1楽章はひたすら美しく鬱屈した要素はなく、2楽章も疾走感があるが諧謔は感じられず、3楽章はただただ美しいが、歌い口は濃厚ではなく、4楽章もよく鳴ってはいるが、すっきりとまとめられている。その美しい響きを堪能していたらいつも間にか曲が終わっていたという印象である。日フィルが決して熱演をしていないわけではなく、若き首席指揮者の下で集中力をもって演奏しているのだが。

 

そう、カーチュン・ウォンの解釈方針は徹底して同じなのである。鮮明、優雅、上品、調和。だから鮮やかだし、美しい。他方、音楽が内包する対立的要素は全てまろやかに調和させてしまう。そしてそれを実現する見事なバトン・テクニックを持っている。そう考えると、最近評価が高いマケラにも共通する。もしかすると、これはぶつかり合いを避け、ひたすら表面的に調和を図る現代人の在り方を先取りした傾向なのかもしれない。そういえば、職場でも電話よりもメールやチャットでのやり取りが増え、嫌なことを直接言わないで、表面上の平和を求める空気が蔓延している気がする。本当かは知らないが、合コンでもまずLINEを交換し、その場で話をせずにLINEでやり取りをしているなどという笑い話を聞いたことがあるが、そのような文化の延長線上にある、直接他者を傷付けることのない、妙に人的関係の希薄な、優しい社会を象徴した傾向なのかもしれない(他方、不満のはけ口はSNSでの匿名での誹謗中傷となる。)。そんな時代が求めているのがまさにカーチュン・ウォンなのかもしれない。

 

そんなカーチュン・ウォンだが得意としているのがマーラーであり、これまで実演で聴いた時にも、バルトーク、ヤナーチェク、ミャスコフスキ、ショスタコーヴィッチ、伊福部昭、外山雄三、武満徹、芥川也寸志という、必ずしも優しさだけではない、むしろ厳しい歴史的な文脈にさらされていたり、欧州の辺境で民俗的な独自の芸を磨いていたりしていた、熱い作曲家が多いのも興味深い。熱い作品を、クールにスタイリッシュに指揮する。そういう芸風だとすると、これまで聴いた中では武満徹の作品がカーチュン・ウォンの芸風に最も合っていたように感じられたのは当然かもしれない。逆に、タプカーラ交響曲、リトミカ・オスティナータ、ラウダ・コンチェルタータと代表作を一気に指揮してくれた伊福部昭の作品とは常に隙間風が吹いていた。

 

ひたすら優しい、ぶつからない時代のクラシック音楽。でも、もっと熱い音楽を聴きたいなとも思ってしまうのは、アナクロな旧世代のぼやきということなのだろうか。しかし、カーチュン・ウォンはプログラムが面白いからまた聴きに行ってしまうかもしれない。