ゲッセマネ
その後イエスは三人の弟子だけをつれてゲッセマネの園へ行かれた。果たして神様の前にイエスと三弟子の一体化が認められるかの結論を出すためだった。
マタイによる福音書 26:36
それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
イエスはこの祈りの中で最終決着をつけようとした。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」。この杯とは十字架の死のことを指している。
イエスは祈った。
「私と弟子達の関係が勝利と認められるなら、生きて三大責任を全うしたのです。しかしもし認められないなら十字架の死を甘んじて受けます。」しかし祈って弟子のところに来てみると、ただの一人もイエスと心を一つにしているものはなかった。どう考えてもWHYとHOWが一つとなったとは考えられない。それでも最大三度までは挑戦できる。少しの可能性でもかけてみよう。イエスは弟子を起こして再び、そして三たび祈られた。しかし結果は同じだった。イエスの心も深刻さも分からずただ眠りこけている弟子を見ながらイエスの心は張り裂けんばかりであった。このようにして下層部摂理の失敗が確定した。
全ての垣根を失ったイエスは、この時点から悪魔の総攻撃を直接受ける立場に追い込まれた。悪魔の目的はイエスの殺害である。悪魔にとって神様の領域を作る使命を持ったイエスを殺すこと以上に優先順位の高いことはなかった。既に銀貨30枚でその心を悪魔に売ったユダを使ってローマ兵士はイエスを捕らえるためにやってきた。
神様は絶望のどん底に突き落とされた。もはや何も手につかないほど狼狽した。
「何ということだ。最愛のイエスが殺される。そしてそのイエスに何もすることのできない無能な私。できることなら公式も原則も無視してイエスを助けたい。ああ私が気が狂いそうだ。」
悪魔は言った。
「これで一安心だ。イエスさえ倒せば私の王国はひとまず安泰だ。
それにしてもイエスの弟子達はほんとうに愚かだ。イエスの言っていることを全く理解していない。イエスの弟子達も結局は自分の利益のためにイエスを信じただけだ。イエスのために生きようと考えた弟子などただの一人もいなかった。結局人間は私の性質を見事に受け継いでいる。自己本位な生き方だけが最後の頼りになると無意識のうちに確信している。
しかしイエスには本当に参った。40日断食しても私の誘惑に微動もしなかった。こんな手強い相手に出会ったのは初めてだ。私の戦法が全く通じないかと思った。何とかここまで来たがまだ問題が残っている。全ての基盤を失ったイエスのはいまや私の手の内にある。後は息の根を止めるだけだ。しかしイエスの肉体は、殺せば片付くが問題は彼の霊体だ。今までの人間の霊体はそのまま私の嫉妬地獄に連れて行けたが、イエスの霊体はそうは行かない。イエスは神様の所有権で生まれてきた。このままでは私の手の届かない領域が霊界にできてしまう。これが大きな問題だ。イエスの霊体まで私のものにするには方法はたった一つだ。イエスを侮辱と辱めと苦しみで攻め抜くのだ。神様の愛などどこにも感じられないほど逆境に追い込むのだ。そうしてイエスの心にほんのわずかでも、恨み、嫉妬、ねたみ、不平の心を起こせばしめたものだ。彼は神様に似ているのではなく私に似ていることになる。かつて私はルシファーとして最も愛されている位置にいた。しかし私はアダムとエバの下に落とされた。当時の人間は二人だったがその下に置かれたのだから人類全ての誰よりも愛されない位置に落とされたことになる。そのような状況で私は嫉妬とねたみと復讐心に陥り悪魔となったのだ。モーセも私の戦略に引っかかった。水がないと連日のようにつぶやく不信の民にモーセは激しく怒り、我を忘れ一度打つべき岩を二度打ってしまった。それでモーセはカナンへ入れなくなりピスガの山で、「できることなら私を約束の地へ入れて下さい」と懇願しなければならない状況になったのだ。イエスは神の一人子として最も愛される位置にある。そのイエスを人類の誰よりも悲惨な状況に追い込んでやる。最も愛されない、惨めな位置に追い込んでやる。さすがのイエスもこの作戦には引っかかるだろう。イエス待ってろよ。これ以上考えられない屈辱と苦痛を用意してやる。」
悪魔の手に落ちたイエスは囚われの身となった。捕らえられてすぐ大祭司の所へ連れて行かれた。
つづく
ここまで読んで下さりありがとうございます。なにか意見感想などございましたらぜひコメントお願いします。今から2000年も前のイエスの言葉が現在の私達の心を震わせます。多くの預言者や宗教家が登場しましたが、イエスほど神様の真意を理解した方はおられません。私達人間は神様の深い愛情によってこの世に誕生しました。その神様の心の真意を理解するには、神の一人子であるイエスの言葉に学ぶことが重要であると思います。未だに世界中から殺人や戦争が絶えないのは、私達人類が神様の愛情を見失ってしまったからではないでしょうか?それでも私は日本人の心には神様の愛情が失われていないことを確信します。世界中の人が日本人の争いを好まない姿勢、利他のことをまず考える行動、団結心、助け合いの精神に驚愕している事実があるからです。この日本人が本来持っている助け合いの精神を神様の心に繋げるための活動をしています。聖書は単なるキリスト教の教えに留まらず、日本人の、いや全人類にとって人生の哲学書としての役割があります。私達が生まれてきた意味、人生の目的、生きる意義を聖書全般を通して教えて下さっています。これからも神様の人間に対する期待と願いを一緒に学んでいきたいと思いますのでよろしくお願いします。
