バプテスマのヨハネの摂理的位置とその使命とは・・・(イエスのたとえ話を読み解く) | クリスチャン以外にも読んでもらいたい聖書物語

クリスチャン以外にも読んでもらいたい聖書物語

世界には多くのクリスチャンがおられます。様々な教会があり、様々な聖書解釈があります。これから描いていく聖書物語は、人間から見た聖書解釈ではなく、あくまでも神様の目的や視点から見た聖書解釈であり、そこから知り得た人間の責任について書き綴っていきます。

 

 

バプテスマのヨハネ

バプテスマのヨハネはヨルダン川で洗礼を施し、多くの者を悔い改めに導き、救世主の道を整えようと豪快なる働きを続けていた。神様がノアの洪水で悪を滅ぼしたようにバプテスマのヨハネは洗礼をもって罪を清めようとした。
そのバプテスマのヨハネの前にイエスが姿を現した。
バプテスマのヨハネはイエスを見て言った。
「私があなたから洗礼を受けるべきだと思いますが・・・。」
イエスは言った。
「今は私に洗礼を授けて下さい。それが神様の御心です。」
バプテスマのヨハネはイエスに洗礼を施したが、その時、天から神の霊が鳩のようにイエスに下った。そして天から声があった。
「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。」
このように神様はバプテスマのヨハネに、イエスこそWHY代表であること、いわゆる救世主であることを示された。
イスラエル民族の代表の位置に立つバプテスマのヨハネとイエスは果たして一つになれたのだろうか。残念極まりないことだが、バプテスマのヨハネはイエスと一つとなる道を拒絶した。
イエスはたとえ話を語られた。
マタイによる福音書22:2~
「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
このたとえ話は上層部摂理が失敗して下層部に移行せざるを得なくなったことを示している。
王は神様を指し、王子はイエスを指している。すなわち神様はイエスを迎えて神の国を建設する素晴らしい宴会を計画された。宴会とは即ちイエスの摂理の時を意味する。婚宴に招かれていた人はバプテスマのヨハネを筆頭としてイエスのために前もって備えられた人を意味している。いわゆる上層部である。神様はやがてイエスが誕生することを前もって約束された。そしてその約束は多くの預言者を通して聖書に記録された。招かれた人とは前もって聖書を読んでいる人のことを指す。印刷技術もなかった時代、聖書は誰でも読めるものではなかった。従って聖書を読める人は上層部に限られていた。聖書はイエスへの招待状だったと言える。
イエスはこのたとえ話のように、まず上層部を招こうとした。彼が弟子にしたかったのは影響力のない人ではなく、この一人が動けばイスラエル全体を動かせるような実力者だった。だからイエスは最初に神殿に入り、大祭司や律法学者に働きかけたのである。
しかし彼らはイエスの言葉には耳を傾けず、自分の事情を優先し、誰もイエスに従おうとしなかった。これはバプテスマのヨハネを中心とする上層部が受け入れなかったことを示している。道に出て行って誰かれなく臨時に集められたのは下層部へ摂理が移行せざるを得なかったことを指している。更に下層部の中でも大半は崩れ、ほんの一部分しか残れないだろうとイエスは結論した。それが「招かれるものは多いが選ばれるものは少ない」という言葉である。
つづく