赤川仮橋(大阪城東貨物線淀川橋梁)戦争の爪痕を残し本日80年の歴史を閉じる 10/31 |         きんぱこ(^^)v  

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      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ

(追記あり)


平成25年10月31日(木)24時  つまり本日


この赤川仮橋が閉鎖されます。

(大阪市にリンク)


大阪の淀川の名物でもあったこの橋ですが、本日の24時で閉鎖となるそうです。


興味がある人で、渡ったことが無かった人、写真を撮っておきたい人は仕事が終わった後にでも撮りに行っておいたらどうでしょう。


近辺に最寄りの駅はないですが、近い駅としては阪急京都線上新庄、地下鉄今里線だいどう豊里駅、地下鉄谷町線の都島駅からなら毛馬(けま)方面へのバスに乗ったほうがいいと思います。桜ノ宮高校の傍です。


この鉄橋がなくなるのではなくて、下の写真の右側の歩道が鉄道線路に戻って複線になると言うことなのですが、こんな鉄橋はとても珍しいのです。



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 淀川に架かる多くの橋の中に、塗装が剥げかけた古い鉄橋があります。

 城東貨物線淀川橋梁

 通称

 赤川仮橋



 昭和4年に開通して80年間、どれだけ沢山の人々がこの橋を歩いて渡ったことでしょう。


 初めて御覧になられる人のために、上の写真で少しご紹介させていただきます。


 「赤川仮橋」は御覧のように単線の線路と、歩行者と自転車だけが通れる歩道の鉄橋です。

 位置は下の地図をご覧ください(赤い線が淀川を渡るところ、右側)


 意外と知ら無い人も多いのですが、この鉄橋と単線の鉄道は勿論JRの物ですが、線路の横にある古い歩道は大阪市がJRから借りている木製の歩道なのです。

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 この線路は城東貨物線と呼ばれて、久宝寺から吹田までの貨物専用線として単線のまま使われてきたみたいです。

 下の画像は昔の赤川仮橋が乗っていますのでリンクを貼らせていただきました。


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 戦時中も生き残った鉄橋ですが、その跡も残っています。

 グラマンなどの機銃掃射の後が残っていたり、下の画像のようにB29から投下された爆弾の穴が今でも残っており、淀川のあちこちには丸い池が残っています。通称「爆弾池」。

 赤川鉄橋の川下にあった爆弾池は削り取られて残っていませんが、戦後に出来た菅原城北大橋の川上には今でも数個の爆弾池が残っています。(赤い〇のエリア)

 2013年の2月にも、少し川下の長柄橋川上で不発弾が撤去されました。

 戦時中は、空襲の中を僅かな家財道具と子供を引いて、この赤川鉄橋を必死になって渡って逃げたのでしょうね。

 鉄橋を渡ろうとしたときに、B29やグラマンの襲撃に遭った人は、この鉄橋がとてつもなく長く感じたのではないでしょうか。


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(写真:米軍撮影 リンク 「連結器の上で」 にて貼られた画像より)
(白黒画像:中央の橋が赤川仮橋。川の下側が大阪市都島区、上側が淀川区で吹田市へと続く。画像の左下方向が大阪駅、左上方向に新大阪、川を右に行くと京都となる。川の中洲や川岸に無数の穴が見える。これが爆弾の投下痕で通称「爆弾池」と呼ばれるもの。6月7日の空襲で、この赤川鉄橋の付近でも何千人という犠牲者が出た。この写真はおそらく6月7日かそれ以降の近い日に撮影されたものだろう)


叫び叫び叫び  追記 叫び叫び叫び

 この頃のことをもう少し調べてみました。

 この第三回大阪空襲の時、天候は曇りでした。そのためかB29の攻撃目標がずれて、都島から崇禅寺(新大阪近く)までの淀川沿いに焼夷弾が投下されたそうです。昼前に雲の上をB29が飛来し、都島でも空襲警報が鳴りました。上のモノクロ画像の丸い穴が焼夷弾の投下痕だと思われます。(または1トン爆弾。カネボウや武田薬品などの工場には50トン爆弾が投下されたそうです)


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(都島上空から焼夷弾を落とすB29.中央上に大阪城、その右下に大川と中之島が見えます。中央下側に見えるのが淀川。爆発の煙に隠れていますがちょうど真下がこの記事で書いている赤川仮橋になります)


 実はこのころ既に大阪市内は第一回(3月)の空襲でほとんどが焼け野原になっていたそうです。そして三度目の空襲警報

 それまで空襲を免れていた都島付近の住民は必死で地下の防空壕に逃げ込みました。

 しかしすでに攻撃を受けた川下の天神橋付近の住民にとっては、防空壕は破壊され、唯一の避難場所はこの赤川鉄橋の一つ川下(上のモノクロ画像では映っていませんが中央すこし右方向)にあった大きな長柄橋(ながらばし)の橋の下しかありませんでした。
 この時に飛来したB29はなんと409機一発の焼夷弾は途中で38個の小型焼夷弾に分散されて地上に落下します。一機が20発の焼夷弾を落とすとすれば760発の小型焼夷弾になる。それが400機なのでこの日の淀川沿いには二時間で約30万発もの焼夷弾が落とされたことになります。きっと空を覆い隠すほどの爆弾だったのでしょう。
 焼夷弾は油が入った爆弾。着弾すると無数の油の火の玉が飛び散るそうです。
 火消し棒や防火用バケツは何の役にも立たなかったと言われています。
 しかし長柄橋のおかげで難を免れた市民は約600人。
 ところが、そのすぐ後に長柄橋に悲劇が襲いかかりました。


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 B29の後にやって来たのは空母から発進した小型のグラマンではなく硫黄島から飛来してきたP51ムスタング138機でした。そのうちの3機が長柄橋へ向かってきました。
 ムスタングは長柄橋下に避難していた市民に向けて次々と機銃掃射をあびせました。
 600人の市民はほぼ全滅だったのだそうです。
 その時、一つ川上にあったこの赤川仮橋には、大阪市内から吹田方面に逃げようとしていた市民で溢れかえっていました。


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 起点となる都島側の堤防は橋を待つ人々で混雑していました。
 財産も家も未来も夢も・・・何もかも無くした人々が口にしたのは「南無阿弥陀仏」だったそうです。もう神頼みしかなくなるのでしょうね。
 しかし、そこにもムスタングの容赦ない機銃掃射があったそうです。
 この日の空襲で十三大橋や長柄橋は爆撃に会って大きく損壊。
 しかしこの赤川の城東貨物船は無事だった。
 人々は蟻の列のようにこの赤川鉄橋をめざし、北に帰りたい人はこの橋を渡り、南に帰りたい人は線路沿いを歩き、京橋付近から省線(大阪環状線)が一部動いており、駅など関係なしに引っかかるように飛び乗って帰ったそうです。
 終戦直前の赤川仮橋は、対岸を結ぶ河口付近で唯一の橋だったかもしれません。


叫び叫び叫び叫び叫び叫び叫び


 そんなことを考えながらこの橋の長さを思って渡ってみると、思わず頭を下げながら自転車をこぐ足に力が入ってしまいました。(本当は自転車に乗って渡ってはいけないのですが・・・)ドクロ


 この木製の歩道は、2013年の秋、つまり今年の秋に閉鎖されます。(初回記事のまま記載)

 大阪市がJRに返却して、JRはこの線路を複線電化させて八尾からこの橋を渡り、新たに阪急の淡路にJR淡路駅を設けて新大阪につながり、そこからまた淀川を渡って大阪駅北ヤードで終点となる旅客鉄道線になるのです。予定では2018年ということです

 開通すると奈良方面から来る大和路快速などが、新大阪駅に直通するようになるのでしょうね。

 この鉄橋が無くなるのではなくて、赤川仮歩道が無くなるわけですね。

 

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 この歩道、無くなってほしくないなぁ

 署名運動も始まっているみたいですが、スペース的には無理ですね。

 大阪市の回答では、この赤川仮橋の川上にある淀川城北大橋を渡りやすいように改修工事を行っているのでそこを利用してほしいとの事です。


 そんなこともあって、今は沢山の人がカメラを片手にこの仮橋を撮影しています。



 
(参考記事:http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/bun-iida.html など)