平安時代は貴族の時代だったのはご存じだと思います。
貴族は血を極端に嫌うので、平安時代には死刑がなかったと言われています。
現在の死刑執行は絞首刑
昔の日本の法律と言えば大宝律令とその後江戸末期まで残ったと言われる養老律令があります。
養老律令での死刑は斬・絞ということになっていたらしい。
これとは少し違うのですが、平安時代の初期に藤原仲成という人が射殺されて以来平安末期の保元の乱までの350年間は死刑は行われませんでした。(この頃は鉄砲は当然無かったので弓での射殺となります)
平安初期の天皇は桓武天皇、平城天皇(へいぜい)、嵯峨天皇、淳和天皇(じゅんな)と続きますが、桓武天皇はご存じの通り平安時代を作った人、そして後の三人は兄弟ですが異母兄で仲が悪かった。
ちょうど平安末期の崇徳上皇と後白河天皇みたいな感じでしょうか(こっちは異父兄だけど)。
話を平安初期に戻します。
藤原薬子(くすこ)という女性がいました。
この女性は恋の多い女性で、複数人の男性と体の関係を持って浮気をしており、とうとう平城天皇がまだ親王だったころに関係を持ってしまいます。
三男二女を産みながら、三つ又の浮気をして、平城天皇を籠絡するのだから欲が深くて男の心を掴むのがよほどうまかったのではないかと感じました。娘を平城天皇の嫁さんにしておきながら、体の関係を持っていたわけです。父の桓武天皇は怒って二人の関係を引き裂きましたが、桓武天皇が崩御されてすぐに平城天皇は薬子を呼び戻して公然と付き合い始めたわけです。
40歳ですよ!(少なくとも平城天皇が774年生まれなので年上だから36歳以上のはず)。この時の薬子は、昔の40歳は今の5,60歳くらいではないでしょうかね。
そして平城天皇の時代になると天皇の尚侍(女性秘書)になって権力を持ち始めます。
そして薬子には横暴で強欲な兄がおり、藤原仲成と言いました。
薬子が朝廷に使えるようになると仲成もそれに乗じます。好きなことを言い女を強引に手籠めにしたりとどうしようもなかったそうです。
そんな中で平城上皇は奈良の平城京に都を戻そうとして嵯峨天皇と喧嘩になってしまいます。
その陰には、藤原薬子が関わっていたと言われています。あり得ますよね。
私見ですが、女性の本質は自分自身の安定にあると私は思っています。それを考えずに相手の男性のことだけを考えて相手のために尽くす、相手の気持ちが幸せになるように自分を相手に合わせ続けるということは、なかなかできることではないと思うのです。男性から見ればうれしい限りです。気持ちもそうですが特に性交渉についてのウエートは強いのではないでしょうか。(だから女性にはよく『単純やな』と馬鹿にされるわけや)
普通、女性は自分の気持ちを犠牲にしてまで相手の男性に尽くしたり相手の気持ちに応えたり、相手の性交渉に合わせたりすることは自分の心から離れたことをすることになってしまう場合が多いので娼婦のような気持ちになって嫌がるはずなのです。しかし、それを凌ぐものがあれば我慢は可能でしょう。
薬子にとっては、それが政治権力だったわけだから十分おつりがくるはずです。
薬子のミニチュアみたいな事件が木嶋佳苗の練炭殺人ではないでしょうか。相手に尽くして心を許して体で縛ってお金を巻き上げる。いつの時代にでもあるものですよね。
嵯峨天皇はそれは溜まらずと、坂上田村麻呂などに頼んで阻止します。
その時に(おそらくは平城天皇を裏で操っていたであろう)藤原薬子は毒を飲んで自殺を図ります。
この時に、薬子の兄である藤原仲成は捕えられて射殺されるわけです。
話を戻します。
それから平安時代の350年間(ちょうど350年)、死刑は行われなかったと言われています。
もちろん、これは朝廷や貴族の範囲内で、地方豪族や一般民の間では斬首などはあったでしょう。
NHK平清盛でも放映されますが、平安末期の「保元の乱」。
ここで350年ぶりに死刑が復活します。
NHKより
復活させたのは後白河帝の陰で権力を握っていた信西だと言われています。
保元の乱は鳥羽法皇が自分の子ではなく祖父白川法皇の子ではないかとの疑いから崇徳上皇との間で起こった軋轢が原因で、鳥羽法皇の死後に崇徳上皇が起こした反乱と言われていますが、陰では信西の画策によるものだったのでしょうね。
保元の乱で特筆すべきものは、『死刑の復活』と『貴族の終焉』そして『武家社会の始まり』ですね。
考えてみれば、貴族を崩壊させたのも後白河を天皇にしたのも、平清盛を平家の大棟梁にしたのもすべて信西という新興貴族で僧侶であった男1人の描いた絵だったのかもしれません。
幕末に世の中を変えたといわれているのはご存じ坂本竜馬。
しかし平安末期に世の中を変えたのは、この信西だったのでしょうか。
信西は死刑を復活させました。
その相手は源氏の棟梁である源為義。NHKでは小日向さんがやっています。
源為義の刑は斬首刑。平安初期の仲成は法律違反の死刑だったけれど、為義の場合は法律にのっとった死刑ということになります。
NHKより
しかし惨い事にその首を落としたのは子供の源義朝でした。
源義朝は必死になって父為義の減刑を請いましたが許されませんでした。
『兵範記』では平安京北の船岡山で息子5人とともに処刑されたとありますが『保元物語』では七条朱雀で鎌田正清と波多野義通によって1人だけで切られたことになっています。
そして『愚管抄』では義朝が実行したことになっていますが、首実検まで記された『兵範記』が事実だろうとされています。
そうなると、息子の義朝が直接殺したことになり、かなり惨い死刑執行だったのでしょうね。
ここから江戸時代末期までは死刑の執行は斬首刑が主流になります(名誉刑として切腹もありました)。
明治以降現在は絞首刑が主流(戦時中には軍法として射殺もありました)。
以前に
「日本の死刑の執行方法は知っていますか?」という記事を書いたことがあります。
私は死刑は否定しませんが、できれば終身刑がいいのかなと思っています。