百人一首之内 崇徳院 歌川国芳 作
崇徳上皇からみれば、物心ついた時から父親がはっきりしない毎日を送っていたかもしれません。
今日でも離婚した夫婦に挟まれて生まれ育つ子供や、本当の親がわからない子供の心理というのは、純粋に両親が仲良くしてほしくて両手で親の手を繋いで甘えたいと言うようなものに間違いはないでしょう。
大きくなるにつれて父親がだれかわからず、父と思っていた人がどこか余所余所(よそよそ)しいと自身も不安で、気を使いつつ生きているのに挙句の果てには親から見放されてしまうと「なぜだ!」と思うのは当然でしょう。
鳥羽法皇から見ても、崇徳上皇の親が自分の祖父である白川法皇だったとしたら、子供ではなくて、不自然ながらずっと年下の叔父になってしまいます。だから「叔父子」などと呼んでしまう。
そしてそう思ったときから子供に愛情を捧げられず、どうしても叔父として見てしまう。自分より年下の親戚の叔父さんだと思うと複雑な心境になるのも仕方がないと思います。
結局諸悪の根源は白川法皇になってしまいます。
そんな中で新興貴族である信西の助言によって、崇徳上皇にとっては弟にあたる後白河天皇が誕生します。
本当は崇徳上皇の子供の重仁親王が天皇になり崇徳上皇が院政を布き、鳥羽法皇は引退するのが筋だったのでしょう。
(やっぱり法皇は私のことを嫌っている。俺は白川法皇の子供だったのか、しかし何で私がこんな目に遭わなければいけないのだ。何も悪い事はしていないぞ)
この時の崇徳上皇が鳥羽法皇をこんな感じで恨んだとしても何ら不思議はありません。
NHK
結局、鳥羽法皇が亡くなった後に崇徳上皇が示した権力奪回の意志は、先に手を打たれた信西や後白河天皇によって完璧に打ち砕かれてしまいます。(保元の乱)
そして崇徳上皇は讃岐(香川県ー坂出)に流されてしまう。
そこで崇徳天皇はその一生を終えるわけですが、そのときに様々な伝説が生まれました。
高松から坂出市へ行くJRに乗って、坂出の一つ手前の無人駅を降ります。そこは八十場駅(やそばえき)という無人駅で、私の知人が住んでいる場所でもあり私も何度も足を運んだことがあります。
その駅から南の小さな山に向かって歩いてゆくと、「八十場(やそば)の霊泉」というところがあります。
崇徳上皇が崩御された時、その葬儀などの沙汰がなかなかなくて、なんと20日間も遺体を保管することになってしまいました。
それで、遺体を塩に漬けて八十場の霊泉に浸して保管したのだそうです。
その遺体は20日間の間、腐ることもなく白くつややかな肌が維持されていたそうな。
やがて都から白峯山で荼毘に付すように伝えがあり、遺体を運ぶことになりました。しかし途中で夕立に会い、棺が雨に濡れたと思いきや、棺の隙間から真っ赤な血があふれ出てきたということです。
また、崇徳上皇は生前の讃岐配流中、三年がかりで「大乗経」を五部書き写して都の寺社に奉納したい旨を朝廷に伝えますが「不吉」と言われて突き返されます。
怒った上皇はこの写経を魔道に捧げて天下を乱し、恨みを晴らさんと、自らの指を切りその血で誓いを書き記して写経とともに海に投げ込んだそうです。
その後髪も爪も切らずに恨み続けて、天狗のような姿になってしまった。後白河天皇の側近である平康頼が様子を見に行ったときにその姿を見て恐ろしくなって逃げ帰ったのだとか。
「院は生きながら天狗となられた」(保元物語)と報告したそうですが、ここはひげもじゃでたまたま髪を振り乱して鬼のような風体になっていた崇徳上皇を見てそう思ったのでしょうね。
こわいですね。![]()
地元では崇徳上皇は後白河天皇の子供にあたる二条天皇の時に、天皇の指示によって上皇は暗殺されたと伝えられていたそうです。
ちなみに余談ですが、上皇を安置した八十場(やそば)の霊泉と言うところは崇徳上皇の話だけではなく、昔から神秘の霊泉として有名なところだったようです。
女性には隠れた観光スポットですよ。
清水屋というところてん屋さんがありまして、おいしかったですよ。私もここで生まれて初めてところてんを食べました。
話を戻します。都でも崇徳上皇の流刑は噂になって、「崇徳上皇の霊が都に災いを引き起こしている」と言われるようになります。
後白河天皇の周辺の人々が相次いで亡くなり、太政大臣になった清盛が後白河上皇を幽閉するというクーデターも発生しますが、それもすべて崇徳上皇の恨みだとうわさされます。
そして平清盛の死も、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡することもすべて、崇徳上皇の恨みによると噂されるわけです。
NHK
崇徳上皇の崩御後4年ほどして、西行法師が上皇の慰霊のために白峰山を訪ねます。
江戸時代の小説「雨月物語」では、西行法師の前に、髪を振り乱し青白い炎の中で荒れ狂う上皇が現れたそうです。上皇は西行に言います「保元の乱
で敵方にまわったものたちを深く恨み、平治の乱
がおこるように操ったのだ」(雨月物語)その会話の中で上皇の怒りが私怨であることがわかった西行が
「よしや君昔の玉の床(とこ?ゆか?)とてもかからんのちは何にかはせん」
(あなたが昔は天子だったとしても死後の世界は平等でございます。過ぎ去ったことはお忘れになり静かに成仏なされませ)
というような意味なのだそうですが、これによって上皇の霊は静まったのだそうです。
雨月物語の第二章は西行作と信じられていた『撰集抄』の「新院御墓白峰之事」や「花林院永僧正之事」を参考にして書かれたといわれています。
雨月物語の一部 左に崇徳上皇、右には西行が座っている(東京大学文学部所蔵 リンク)
しかし、都の噂だけはずっと生きていたみたいですね。
近衛天皇が崩御された時は、久寿の大飢饉がありました。そして現在のように地震が多発しており、1177年には京都の1/3が焼ける太郎焼亡(たろうしょうぼう)という大火事までありました。
天災や人災が集中する時代に、都の人は崇徳上皇の恨みだと恐れたのでしょう。
太郎焼亡の焼失エリア
京都にも白峰神宮があります。堀川丸太町のあたりですが、安部晴明の晴明神社がある場所からすこし北に行ったところです。
幕末の孝明天皇とその子供の明治天皇二代にわたって、同じく淡路に流された淳仁天皇と崇徳天皇を祀る為に作られた神社です。
崇徳天皇は明治になってやっと京都の都に戻ることができたのですね。




