大阪の住友(江戸末期) |         きんぱこ(^^)v  

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      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ

江戸時代の住友は長堀通り(当時は長堀川だった)ぞいの、堺筋と松屋町筋の間の鰻谷(うなぎだに)にあった。


(手前の川が長堀川、今は埋め立てられて長堀通り)

江戸時代は住友ではなく泉屋と呼ばれていた。

銅の精錬所だった。

敷地は千二百坪。


住友は元々薬屋ではなかったのか?


という人もいるだろうが、実は住友には「家祖」と「業祖」がある。


商人としての「家祖」の住友正友は、元々涅槃宗という宗教の僧侶になっていたが、その宗教が天台宗に吸収されたので還俗して京都に「富士屋」という薬屋を始めた。


子供に1男1女があり、長男は富士屋を継がせて、長女の婿は職業柄大阪の鰻谷で銅の精錬業2代目だった。

富士屋が家祖で泉屋が業祖と呼ばれている。


銅なんか・・・・!


という人もいるだろうが、実は銅の元になる粗銅(そどう)には、金と銀が含まれている


日本は江戸後期までそのことを知らなかった。


特に銀が多く含まれており、銅を精製することによって、多量の銀も産出できた。


住友は、この金銀分離方法の技術習得と、愛媛の別子銅山の採掘権によって業績を飛躍させた。




(鰻谷の明治八年の住友。手前の川は長堀川)


明治になって、今の中之島に移った。

中之島は今でも住友村と呼ばれている。

明治以降の鰻谷住友亭は主に接客に使われていて、今でも入り口がよくわからないビルが建っている。



江戸時代後期は銅の生産量がかなりあった。

日本は無資源の国ではなく資源が無くなった国だ。

ここで銅の精錬が盛んに行われていた。

こんな感じでやっていたのですね。



この写真の穴に銅を流し込む。

この穴を「るつぼ」と言うらしい。

しかし、室町から江戸にかけて、相当な金銀銅が産出されていたわけだ。

今は全然採れないが、堀つくしたとは思われないのだか・。

誰も掘らないね・。