日本人町。
室町時代から江戸時代初期にかけて、貿易が盛んだった。
日本からは延べ10万人もの人が現地で暮らすようになったらしい。
韓国
台湾
フィリピン(マニラ)
カンボジア(プノンペン、アンコールワット)
ベトナム(ホイアン)
タイ(アユタヤ)
・・・・・・・
タイは「山田長政(やまだながまさ)」という人で、ご存知な人も多いだろう。
この頃の日本は銀がよく採れた。
全世界の3分の一が日本の銀だったというから信じられない。
日本は資源のない国ではなく、資源が枯れ果てた国だったんだ。
室町時代は、銀や刀を売りさばいて、なんと中国からお金を買っていた。
「永楽通宝」(えいらくつうほう)です。
日本でも作られていましたが、形や鋳造技術が悪くてあまり信用されませんでした。
一旦作った金を基に鋳型を作って再度流し込むと凹凸も無くなって悪質な金が出来ます。
これを、「ビタ銭」と読んで、絶対にお金を渡さない時などに「ビタ一文(いちもん)渡さないからな」
などと言いますね。(一文は銅銭コイン一個のことですね)
豊臣秀吉の時は金金していました。
江戸時代は、金銀のほかに一環して「寛永通宝」(かんえいつうほう)という銅銭でした。
私が小さい時に田舎の蔵(くら)にもぐりこんで一握りほどの寛永通宝と永楽通宝を見つけ出し、
(30年後にはものすごい値打ちになって大金持ちになるんだ!)
と大事にしまっておきましたが、値打ちが付くどころかコイン屋さんがどんどん潰れています。
お金の話はともかく、日本人町。
砂金、銀・・・綿、貨幣
そういったものが交換されるので、海外の拠点では、日本人町が出来たわけです。
特に江戸時代初期がピークだったみたいです。
当然船も大きくなって、2000人が乗れる船を作っていたとか。
もちろん木造ですけど、幕末のペリーの黒船と引けは取らなかったはずです。
九州加藤家の船など、船の中に風呂まであったそうです。
あちこちで出来た日本人町で大きかったのが山田長政のいるタイだそうです。
この頃に海外に行った侍は強かったはずです。
おそらく2種類。
長男は家を守るので次男や三男。
あとは、キリスト教の弾圧(禁止令)が出されたので、クリスチャンが多かった。
外国に行っても日本の格好を変えなかったらしくて、紋付袴(もんつきはかま)に刀を二本差し。
タイでは、ビルマ(ミャンマー)との戦争に500人もの日本人が参加した。
馬はいないので、武士は像に乗った。
像は沢山いるわけではないので、一頭に数人が乗った。(笑)
今から戦いに向かうスピードではなかっただろう。
なんか想像すると滑稽ですが、これでビルマを破った。
さすがに足軽はいないみたいで、徒歩姿の侍もいたみたいです。
このあたりの戦士は熱しやすく冷めやすかったみたいで、勝ち目がないとさっと逃げる。
烏合集散(うごうしゅうさん)。裏切り寝返りあり。
どんな戦いだったのでしょう。
日本の武士は鎌倉時代以前なら、
「やあやあ、われこそは・・・ナンタラカンタラのナンタラチンタラカンタラ・・・・なり、イザ尋常に勝負しょうぶー」
と言っている内になぶり殺されていたでしょうが、1600年前後の侍だから関が原を経験している侍もいたでしょう。
意地を張ることの馬鹿馬鹿しさも身に着けていたと思います。
しかし、日本の誇りは捨てなかったのでしょうね。
武士の格好を崩さなかった。
室町中期から江戸時代の1639年までは、ものすごい商業と貿易の発展を遂げていたのですね。
もちろん平安時代から室町初期もそうです。
4代目足利義持がせっかく貿易が善くなりかけたときに貿易をやめさせます。
理由は・・・・3代目足利義満という父が嫌いだから真似をしない。・・・・それだけの理由です。
1639年の鎖国(徳川時代)は、日本を完全農耕民族に戻してしまいました。
確かに解りますよ。
九州から2000人も乗れる船を10艘も江戸(東京)にやってくるとクーデター確実ですもんね。
江戸時代があったから、外国からの侵略を免れた。
江戸時代があったから、日本の貿易経済は遅れた。
どっちがよかったのかどうか・・・・。
江戸時代は人の夢を小さくして、何も出来ない監視社会だった。
それが幕府には都合が良かった。
鎖国によって、海外に行くことも、海外から帰ってくることも出来なくなった。(1639年)
関が原から39年後のことです。
日本人町の人々は商売が出来なくなった。
お金が無くなり、地元の人に雇われ、奴隷にされ、襲われ、裏切られ、殺された・・・・
「日本人は・・・とうとう二人になってしまった」という手紙が残っているらしい。
世界中を飛び回るという壮大な夢を持って飛び立った10万人は、家に戻ることすら出来ずに、徳川秀忠と家光によって打ち落とされてしまった。


