江戸時代の銭湯はどんなものだったかご存知でしょうか。
詳しく書いてあるHPがあるのです。(^^)
画像の中央左寄りに屋根のようなものがある所が出入口です。よく見るとその上半分が板でふさがれています。人が屈んで出入りしていますよね。
この出入口を石榴口(ざくろぐち)と呼んでいたそうです。
これは、風呂の中の蒸気を外に漏らさないためと、壁や板に付いた蒸気が元の浴槽に戻るようなしくみになっていたみたいです。
写真では浴室にあたるところは当時電気もありませんので、柘榴口から洩れ入る僅かな光のみを頼りにしてみんな手探りで浴室に入っていたみたいです。
浴槽は江戸の中後半期に出来て、当初は蒸し風呂のような風呂だったそうです。
自宅に風呂があるのは武家屋敷や富豪だけだったので、庶民や町人はすべて銭湯にやってきました。
この時期は男女混浴だったみたいで、時には風紀も乱れたそうです。
幕府が混浴禁止にしても、生活上朝や夕方の決まった時間に大挙やってくるのが女性で、男女に分けると女風呂に入りきれなくなり、結局女が男風呂を占領してしまったり、それでまたもとの混浴に戻ってしまったらしいです。
このサイト
もとても詳しいですね。
銭湯は基本が混浴だったことから、自由恋愛の場所にもなったそうです。
今の女性ならゼッタイに入浴なんかできなかったでしょうね。
おかげで、一時期、吉原という色町が儲からなくなったとも言われています。
小説家に峰隆一郎という人がいます。
人斬りシリーズや柳生十兵衛や宮本武蔵などを独自の感性で書いた小説家。
人を斬る描写がリアルなので女性ファンは少ないかもしれません。好きな人と嫌いな人が真っ二つに分かれてしまうような小説家です。この小説家は小説にリズムと繰り返しがあってすらすら読めます。
基本は主人公が浪人で①人を斬る②女を抱くの繰り返しです。
②で女を抱く前に必ず江戸時代の銭湯のシーンが描かれています。
剣にこだわりがあって、「生き抜く」ということを描き続けていた作家でした。
おそらく剣道ではなく居合道を極められていたのでは・・・。
話がそれましたが江戸の風呂が良く出てくる小説家でした。
男尊女卑が強いと言われていた時代ですが、そんな時代の女性と言ってもやはり女性の強さを感じます。
混浴禁止は明治になてから。
そして、富士山の壁絵などが流行りだしたのは大正時代以降。
カランと呼ばれる、壁に水道の蛇口が着くようになったのは昭和初期なんだそうです。
------------------------------------------------------------追記
チィさん、半熟サーファーさんコメントありがとうございます。
湯屋(ゆや)は関東地方
風呂(ふろ)は上方(関西地方) の風呂の呼び方だったそうです。
「湯女(ゆな)」・・・・そうですよね。
風呂屋の二階がくつろぐ場所になっていて、半熟サーファーさんの言われるように「湯女(ゆな)」がいて・・・元祖出会い系だったんでしょうか。(^^)
しかし、微妙に均衡が保たれていて、男同士が互いにけん制したり、風紀に厳しい人がいたりして、うまく口説かないと難しかったのじゃないでしょうか。
それより、浴槽に入ると、風呂の中は明かりが無いので真っ暗でしょう。
「江戸時代の銭湯」 の後半部分を見てください。
やはり、想像通り男が女性にちょっかいを出している。
暗闇の中で行われていたのでしょうね。
色んな資料を見ていると、ちょっかいを出したのは男だけでなく女性から出す場合も多かったそうですよ。
ただ女性は夕方に集中して来たそうです。
夕方はほとんどが女だから、ちょっかい出すのは怖かったのじゃなかろうかと思います。
どうも時間帯で男ばかり、女ばかりと自然に別れていたみたいですね。
裸は、真っ暗だから見れないんです。
だからちょっかいを出す方も勇気が要ったと思いますよ(^^)
触った相手の顔もわからないし、逆に怖い気がしますね。
犯罪もしょっちゅうあったと聞きます。
それで幕府が何度も混浴禁止にしたけど、女性がすぐに破ったそうです。(^^;)