日田市内を抜け高速に乗った頃には、陽はとっぷりと暮れていた。去年豆田のひな祭りに連れ出した時には、こんな時間まで一緒にいなかった。豆乳鍋で有名な店で昼食をしているとき楽しそうにしてはいたがなんとなくよそよそしさを感じて、食事を済ませると早々に引き揚げた。そう、鍋の表面でゆっくり出来上がる湯葉を何度かすくった後、

「時間持て余しちゃう。」

とつぶやいた彼女の一言が気になったのだった。

 

「すっかり暗くなっちゃったね。」

「ああ、まだ6時を過ぎたばかりなのに。」

「朝からこんな時間まで一緒にいるのって、初めてじゃない?」

「そうだっけ?」

「だって私が朝苦手なのを知ってるから、 あなたからの誘いは全部お昼頃からだったでしょ。」

「それにしては今日は早く起きれたね、30分遅刻はしたけど。」

「あーごめんなさい。でもその分、道は走りやすかったでしょ?」

「遅れたことを正当化する気?」

「そんなつもりないけど。でもいいじゃない、とりあえず今日は仲良く温泉を楽しめたんだから。」

「どこかで聞いたようなセリフだなあ。」

「そう?」

おどけて肩をすくめると、少し傾けたシートに身を預けた。

 

 上りに差し掛かり軽くアクセルを踏み込むと、昼間の雪道を思い出した。しかし、もうタイミングをはかる必要はあるまい。お互いへの思いは同じようだから。『隠し事はしないで』、との彼女の言葉にも救われた。

 今日はほんとに色々なことがあった。なんとなくまだよそよそしさを感じていた今朝の車の中、陽の下で初めて観た彼女の胸、ガラス屑のカーテンのような景色、色合いの違う乳白色の温泉、蕎麦の味。そしてあの奥さん。人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、あれほどまで強い女性はそうそういまい。事実を知った時はさぞご主人の事を憎んだだろうに、冷静にふるまい自分のとった行動を分析し原因を見極めようとした。二度と同じことを起こさないために。危機を乗り切った夫婦の絆はより深まると聞く。だからこそ今は家庭を大事に思い、仲が良いのだろう。

 

緋乃からの言葉は待ち望んでいたものであり、とてもありがたかった。しかし、もし緋乃と伴に歩き始めて危機が訪れた時、それをうまく乗り越えられるほどの揺らぎない信頼をこれから築いていくことができるだろうか。

「え、違うの?」

「いや、ただそう思ってもらってたことに驚いただけ。」

「"うれしい驚き‟ってこと?」

そのとおりだ、と言うのは恥ずかしい。頭の隅から、『思春期の子供でもあるまいに、何はしゃいでるんだ?』と声が響いた。面映ゆい気持ちで顔が赤くなりそうだ。答える代りに、緋乃の手をそっと包む。

「あなたは優しいから、こうやって気持ちを伝えるのよね。初めは何も言わないから、冷たい人だと思ってた。でも、これもだんだんわかったんだけど、言葉にしない代わりに何気ない仕草でその時の気持ちを教えてくれる。」

「そんなんじゃないよ。ただのテレ屋さ。」

「認めたね。そう、しかも意識してなくても気持ちが表に出ちゃう。隠したいときでもね。」

「あ、それ嘘をついたらわかるって言うさっきの話? 参ったなぁ、違うって。たまたま同じことやってるだけだって。」

「違うよ。だって、普段そんなことするところなんて見たことないもん。だからちゃんとわかる。」

「どんなことやるっての?」

「それはね…だーめ。 教えてしまったら、あなたのいいようにもてあそばれてしまう。」

「もてあそぶなんて、人聞きの悪い。ただ、みっともない仕草だったら、直したほうがいいと思って。」

「その手には乗らなわよ。」

「だめか。手強いな。」

「今頃気づいた?私、あなたが思っているほどおバカさんじゃない。ちゃんと分別のある、大人の女なんだから。」

「じゃあ、隠し事したいときは電話で話すことにしよう。そうすればその仕草とやらを見られることはない。」

「つまり、電話をかけてきたときは要注意ってことだ。」

「あー、まったく可愛い気のない。だからあくまでそれは…イタッ!」

 赤信号で止まっているのをいいことに、左耳を引っ張ったまま耳元で囁いた。

「好きな人をからかうのって、楽しい!」

 

斜めに背もたれにもたれ対向車のライトに浮かんだ顔には、いつもの悪戯な表情。

しかし、目元は優しく笑っている。

 

「わかった、話せそうなことがあったら話すよ。」

「だめ。隠したままにしないで、みんな話して。お願い。」

左腕をつかみ、顔を覗き込むようにして言った。強い口調から、心からの願いであるのがわかる。

「わかった。昔の事を話すことで、君の言う‟他人”でなくなるのならそうする。」

「必ずね。ありがとう。」

ほっ、と思わず胸に手をやった。だがそれは自分の思い通りになった安堵からというより、こちらの苦しみを和らげることが許されたことへの喜びと感じ取れた。何気ない仕草に現れる優しさがいとおしい、いやありがたい。

「ところで…」

いや、ききたいことはひとつなのだが、どう切り出したものか。彼女からの答えが怖いのもある。しかしそれ以上に、おかしな言い方で彼女の機嫌を損ねやしまいか、分をわきまえぬ不躾なことを言う人だと呆れてしまうのではなかろうか、などと考えてしまう。相手に過度の期待をかけるのは迷惑だ。所詮、舞い上がっているのは自分だけではないのか。

「ね?そうやって私のこと気遣ってる。いいから言って、直接聞きたい。」

「まいったな。すべてお見通しってわけだ。」

「ずっと、あなたの事をもっと知りたいと思い続けてきたから。」

 視線をこちらに向け優しく微笑んだのもつかの間、いたずらなあの表情に変わった。

「初めのころは、ただの女好きの遊び人だと思ってたんだけど。」

「ひどいな、それ。でも、否定はできないか。」

「あっさり認めた。だから私に近づいてきたんでしょ、ペン貸してくれって。」

「またその話?はいはい、確かにその通りです。でもそれは、君に惹かれたからだよ。」

「嘘はいらないよ。私、自分が色っぽくもセクシーでもないのはわかってるんだから。」

「いやそういう対象としてじゃなく、他の女性と違う、なんていうか柔らかさとか暖かさとか。何か居心地がよさそうな気がして。」

「あ、プヨプヨしてお布団みたいだったって言いたいんだ。ひどい。」

「そ、そんなことは思ってもいないよ!太ってるなんて言ったことないじゃない。」

「…今言った。」

「あ…だからそうじゃなくて…」

「プッ!ハハハ、あなたってホントは真面目なのよね。これもあなたの恋人になってからわかったんだけど。」

 

笑い声の中に聞こえた二文字が耳に留まった。聞き違えたかと思い、確かめようと尋ねた。

「恋人?」