「‟他人‟か。僕はそんな風には思ったことはないけどな。」

「あなた的にはそうでも、私はあなたによそよそしさを感じてる。いつも自分は遠慮して、こちらのご機嫌を窺ってるみたいな。」

「そんなつもりは毛頭ないよ。機嫌なんて取ってないし、気を使って遠慮したりなんかしない。」

「ほんとにそう?」

「疑り深いなあ。ほんとだって。ただ、昔話、いや僕の小さい頃の話を避けていたのは認める。そのころは嫌なことばかりあって、なんか思い出すことすら苦痛というかできればひとまとめにして隠しておきたいという…」

「ずっと隠し続けたって忘れることはないし、その思い出の苦しさは和らがない。いっそのこと誰かに、いえ、私に話してくれれば少しは心が軽くなる。 それにいい思い出だってあるでしょう?きっと話したいはず。心配しないで。 あなたの話がどんなものでも、そのことであなたに対する思いが変わることなんて絶対にないから。」

西の空、うっすらとしたオレンジ色を背に山のシルエットが浮かび上がっている。いつもより早めに灯されたライトは、時折民家を照らしだす。しかしその周りにも家があるのか、それとも一軒家なのか、あるいはその奥が山なのか畑なのかなどは、陽が隠れてしまった今はわからない。

 

 緋乃の言わんとすることはつまり、私の心の中に陽を当てたいということなのだろう。

他人という言葉に心が冷えた。確かに、元は縁もゆかりもなかった見ず知らずの2人だ。それが1年ほど前に仕事を通じて出会い、話す機会が増え親密になった。今では月に1,2度2人で食事に行ったりドライブしたりしている。親密な関係と言えるのかもしれんが、その程度の頻度で一緒に出かける女性は他にもいるし、緋乃にも話している。と言って、彼女が単なる遊び友達の1人かと尋ねられると答えに窮してしまう。一体なぜこの女性と一緒にいるのか?理由を説明するのは難しい。しかし、とにかく同じ空間にいると安心する。他の女性といるとどうしても気を使ってしまうが、彼女といると何も考えず寛いでいられる。心と心の距離が近いということだろうか。

 

 昔話、いや子供の頃の話は確かに封印しておきたい。小学生の頃、小心者で意志の弱かった私は、いじめっこの格好の標的だった。学校内はおろか、下校時にも付きまとわれあれこれと悪さをされた。学校に行くのが苦痛で嫌で、仮病を使って休むことがしばしばあった。もちろん親にそんなことは話せない。お堅い仕事をしていた共稼ぎの両親に話そう言おうもんなら、私の不甲斐なさを叱るより先に学校に怒鳴りこんで行っただろう。その頃の思い出のほとんどは、そういった辛い日々のものしかない。

 だが、わずかながらも楽しみがあった。一人っ子カギっ子だったので、母親が帰ってくるまではテレビを見放題だった。何を観ていたのか良くは覚えていないが、箱の中で色々な景色が移り変わり日本人でない人が現れるのが不思議だった。しかし仮にこんな思い出話をしたとして、話し手本人はノスタルジーに浸って幸せかも知れんが、聞かされる側にとっては理解を超え苦痛をも感じまいか。

 

生まれたときからカラーテレビを観ている世代に、白黒テレビで観た空と雲とのコントラストの美しさなど到底わかりはしまい。

 

「こんな風に一緒の時を過ごして、笑って、はしゃいで、とても楽しい。でも、あなたが小さかったころの話もしてくれたら、もっと話題が増えて楽しいと思う。」

「楽しい?いや、そうは思わない。昔話をしたところで、決して楽しめやしない。僕の思い出なんて、君にとっては面白くもなんともないことだよ。」

「そんなことない。楽しいと言ったことが気に障ったのなら、ごめんなさい。」

 

額に右手の甲を当ててじっとしている。どう言葉をつなごうか、どう言えば真意を伝えられるのか。そういったことを考えているようでもある。

「私はあなたのことを、とても尊敬してる。だって、今までいろんな経験をして 私よりずっと多くの事を見て知っている。それが輝いて、私にはうらやましい。だから、その始まり?の子供だった頃のことを知りたいの。」

「歴史を見てきた爺さん、とでも言いたいのかい?」

「茶化さないで。 いえ、ごめんなさい、そういうつもりで言ったんじゃない。」

「じゃあつまりこういうこと?今の僕のことは、付き合ってから今日までの間で大体分かった。しかし、なぜそんな考え方をしてるのか。いったいどんな環境の中でどんな経験をしながら育ってきたのか。その辺がはっきりすれば素直に僕を受け入れられる、と?」

「ええ、そういうこと…かな。」

「だったら、育ってきた結果として今話している話し方があり内容もある。それで十分じゃない?今まで色々な話をして、意見をぶつけ合って、お互い違う考えもあることに気付いた。もう君には僕のことがほとんど分かってると思うよ。第一、今の僕に必要ない過去のことは、記憶の底に澱のように沈んでいる。話す価値なんてない。」

「そんなことない。無駄な経験なんて絶対無い。自分でそう決め付けてるだけでしょ?私は、昔のあなたの話を、出来事としてじゃなくてあなたの一部として知っておきたいの。」

 

いつになく震える声に驚いた。

眼の隅に、瞼をハンカチで押さえる緋乃が映る。

「あなたは年の差を気にして、言葉や話題を選んでる。それは嬉しい、だってあなたの優しさだから。でも、私の知らないことも話して。あなたの事をもっと話して。でないと…いつまで経っても他人じゃない。」