先日、地域通貨について話をまとめてさせていただきました。
今回は、昔の地域通貨とも言える日本の藩札について紹介します。
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<藩札とは>
現在の日本のお金「円」は日本銀行が作っています。
それに対して藩が発行してきたお金です。
地域通貨との絡みですが、現代の地域通貨は、
必ずしも自治体が主導して発行しているわけではありません。
<藩とは>
そもそも藩とは廃藩置県があったように昔の県です。
廃藩置県が行われた1871年、明治4年のときには、
約300の藩があったそうなので、現在の47都道府県と比較するに、
およそ1藩の広さは、平均して県の6分の1くらいでしょうか。
現代の市より大きいですね。
あとは地元の自治体で藩の大きさは確認してみてください。
藩地図と検索するといいですが、エリアが明確でない上に、
藩の取りつぶしで消滅もあるので、時代によって変わります。
地元の歴史を調べる方がいいかもしれません。
江戸時代の全国全ての藩が載っている地図ってありますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1131055106
<藩札のはじまり>
単純には、当時は3貨制度といい、金、銀、銭の金属が貨幣として流通していたのですが、要するに小判とか超重いわけです。庶民が使う銭も、紐に通してジャラジャラみたいな。つまり重い。というわけで、藩札という紙切れと交換して、お金として使っていいよ、という利便性がありました。さらにさかのぼれば、商人が発行元となった私札で、やはり同様の理由で取引に利用したりもあったようです。山田葉書が有名です。
江戸経済を支えた特殊な貨幣制度 岩橋 勝 氏
https://www.athome-academy.jp/archive/culture/0000001064_all.html
幕府の「三貨制度」と、藩の「藩札」。これらが併存する特殊な貨幣制度こそが、江戸経済の原動力でした。
とはいえ、それは私札からの起源であって、藩札の理由、藩の発行理由はまた別ですね。後ほど説明します。
<藩札のルール>
藩札は領地内でのみ使用可能、ということでエリア限定通貨でした。その意味で地域通貨です。もちろん、外にお金を持ち出したいときには交換可能でした。その分、藩の中ではお給料や納税なども藩札で行われました。逆に言えば、領地内では藩札しか使ってはいけない、というルールがほとんどだったようです。
産業内限定通貨圏の構築とその条件 ── 非政府通貨の導入による特定産業振興策に関する試案 添田 馨( )
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2014-06.pdf
…領国大名政府では、藩札の発行に際し通用 仕法を詳細に領民に公示していたが、その仕 法はおおむね次のような条項からなってい た。すなわち、①領内における幕府正貨の使 用禁止(ただし、たとえば銀2分以下の小額 取引を除く)、②個人間での正貨と藩札との 引替取引の禁止、③藩札から正貨への引替え は、藩外支払目的を除き禁止する、④藩士へ の禄、給料(現金支給分)等はすべて藩札で 支給する、⑤年貢等藩政府への支払いは藩札 で行う、などといった細則が定められていた のである。
<藩札発行による藩のメリット>
これによる藩の側のメリットは「領内の正貨は、藩の元に集まる」そして集めたお金が「外部への支払いに使える」ということです。「藩札を正貨に換金してくれ!」と人が殺到しない限りは、交換用の備蓄されたお金は少なくてもいいわけです。大体準備金の3倍の藩札が作られたといいます。つまり、100万集めたら300万藩札作り、領内に200万藩札多く余計に支出できたわけです。
なお、ここには記されていないが、藩札の発 行に際しては、通常、藩札発行高の3分の1程 度の幕府正貨(政府通貨)が、兌換準備とし て領国大名政府には保有されることになってい た。裏返せば、兌換準備額の3倍に相当する額 の藩札が発行されたわけであり、領内の通貨流 通量も3倍に増えたことになる。
その金額相違分を埋めたのは何か?というと、一言でいえば「それでも、いざというときは換金してくれる」という信頼なわけです。私札の始まりから同様、有力商人の後ろ盾も合わせて利用されておりました。つまり現地の官民一体の了解のもと、使われていました。うまくいってるからいいじゃん、ってことですかね。
鹿野はこれらの諸点を踏まえて、藩札の概念を「領内で流通していた幕府貨幣との引替えで 発行された代用貨幣」(同131頁)だと規定し た。また、その通貨としての信認のよってきたる根拠を「領国大名政府自らが賦与した強制通用力を商人信用によって補強していた」(同123 頁、傍点引用者)点に見出している。
まぁ、言うなれば、信用できる友達同士で、じゃあこれを100円券ってことにしてお金のやりとりしようよ、ってことの延長です。赤の他人同士で「これ100円券だから。大丈夫、他でもお金になるから」と言われても不安です。だから、地元で大きな会社を営んでいる企業が作っていて保障しているなら「あー、まぁ大丈夫かな」と思うわけです。
営業マンとか経理やってる人ならわかると思いますが、小切手と同じです。小切手の額面を1000円や5000円、10000円にして、藩札として、領内に流通させていたわけです。その代わり、「円」は回収して。そこに、自治体だけでなく、企業保障も載せて。当時はインターネットもないですから、遠くの企業なんて知りませんし、地元の大商人が、一流企業だったわけです。そりゃお墨付きも強そうだな、って気がします。
<藩札が暴落しても被害は限定的>
しかし、すべての藩の藩札が、領民から信用が置かれていたのか?と言われると怪しいですよね。となると、この藩札は信用できないから使わない、商売上の取引は正貨でお願いします、なんてのもあったはずです。現代でも外国でよく聞きそうなセリフではないでしょうか。
実際、すべての藩が藩札を発行していたわけでもありません。そして、実際とん挫した藩札もあるはずです。しかし、自分以外のところの藩札が暴落しても、そんなには影響を受けなかったようです。
例えば、現代のジンバブエドルはハイパーインフレで通貨価値が紙切れのごとくですが、だからといって、ほかの通貨も暴落するわけではありませんし。つまり、お金が分かれていたので、正貨とも別・・・現代の日本のように、日本全土が同時に不景気になる、ということも当時はなかったはずです。通貨が異なること自体がリスク分散ですね。
もし、世界中の国を、日本が統一して、お金も円に統一したならば、アメリカ自治体とか、中国自治体にも予算を配らないといけないわけです。ですが、現代の日本は、ぜんぜん財政出動をしません。よって、世界中の自治体が不景気に巻き込まれることになるでしょう。
これを地でやってしまったのがユーロです。ユーロ全土が不景気で、弱いところからどんどん破綻していますね。国規模の連鎖破綻が騒がれています。通貨だけ共通で、国は別だから、意思の統一が、ほぼムリ!というわけで、意見がバラバラです。みんなの国に財政出動しよう、という話になりません。あれはむりげーです。早くユーロ辞めた方がいいです。
<藩札が暴落したとしても、商人にとってはそんなに悪いことではない>
それに、お金が紙切れになる、例えば半額にでもいいからなるということは、借金も半分になるということです。
例えば、友人にお金を借りて、100ドルの工具を買いました。でもドルが暴落して、1ドル100円だったのが、1ドル50円になりました。つまり、100ドルの借金は、円に換算すると、1万円から5000円の価値になりました、とか。
つまり、暴落したので他の通貨が出回ってくるはずです。そこで、円が出回って生活圏の通貨になってくるなら、当然それで稼いで、返済すればいいわけです。
経営者は喜ぶ人も多いのではないでしょうか。藩札が暴落しても、外の通貨や正貨が暴落していなければ、そちらで稼いで、藩札の借金を返せるからです。そうなると本当に強いのは「稼ぐ力を持っていること」と言えるのではないでしょうか。
例えるなら重機とか。借金してでもいいから持っていれば、暴落後いち早く、また、何も持たない人より早く稼げたはずです。組織もそうですね。店の看板もそうかもしれません。顧客台帳が何より大事という言葉もあります。
そうして稼いだお金が出回りますし、貯金は目減りしたけれど借金半減で「稼ぐぞー!」と活力ある時代になることが感じられるのは気のせいでしょうか。まぁ、藩札は暴落したけど、暴落前の価格で借金返してくださいよ~、って交渉もあったでしょうが。
大量に貯蓄をしていた人ほどきついでしょうが、貯金が少ない低所得層ほど、また借金が多い人ほど被害は低いです。もう働けないお年寄りは若者におんぶにだっこになりますが、働ける人は軒並み、貯蓄割合低下ってことで、中間層が厚くなりそうです。
それにまったくゼロ暴落というものでもありません。以下は暴落時の良い方の例ですが
藩札に見る忠臣蔵の面白さ
http://meteorsan.blog107.fc2.com/blog-entry-1421.html
ちなみに、赤穂藩が発行した藩札は約一万二千両分。それに対し兌換用に備蓄してあった現金は七千両。当然ですが満額兌換は出来ません。実際、この『六割換え』は領民に大変喜ばれたそうなんですが…。それもそのはず、このムック本で初めて知ったんですが、藩札を六割で換えた藩はこの時の赤穂藩しかないんだそうです。江戸時代を通じて最高の兌換率とまでは思ってませんでした。
兌換(だかん)は交換って意味だと思います。というわけで、6割でも充分大きいんですね。これは良い方の例ですが。とりあえずは、物価上昇も通貨暴落も、ほどほどが一番かと思います。老後の貯金がまったく無くなってしまうと厳しい。。その時代の相場で支給してくれる年金とかあればいいですねー。
<そもそも、なぜ藩札を発行して、正貨を集めていたのか>
どの藩もお金がカツカツだったからです。なぜか?ここからは歴史の勉強をしました笑
幕府が参勤交代を義務付ける・・・もともとやってたらしいですが、これでお金が飛んでたんですね。奥さんと子供を義務で江戸に住まわせているので、大名は江戸にも住む。領地にも住む。だから大名が藩に向かうのは、現代でいう「出張」に近かったのかもしれません。江戸では自分のところの藩札は使えませんので、当然生活するのに正貨が必要になります。大名行列の行き来にも出費がかさみます。
なぜ義務化される前から参勤交代をやってたのか?ってのは、儀礼とか見栄を張る社会だからだったみたいです。。それに加えて、今は政府から地方自治体に助成金、地方交付税なるものがありますが、当時は藩が一方的に年貢を納めるだけです。というわけで、お金があってもあっても足りなかったわけです。
だから藩札が発達した、とも言えるのかもしれません。藩が領民から正貨を集めて、年貢などの外部への支出を耐えしのぐために。しかし、そこまでして予算を集めて、財政出動を続けていたのだから、庶民としては、入札仕事があって万々歳です。というわけで元禄バブルもあったようです。
しかしお金があっても天災とかで飢饉とかちょくちょくあったのは辛いものですが。
<江戸時代、徳川幕府の米価の推移>
ちょっと後ほど使うグラフですが、20-40年のスパンで飢饉があったようで、その都度ブーストしたように、米が希少になり、米価が跳ね上がっています。あと現代と比べて物価の上下の激しいですね。庶民は金銭的に豊かになっているんでしょうが、物価の上下は文句出ただろうな、とは思います。
という状況で、庶民はホクホクですが、藩はカツカツで、幕府を倒そう、という流れになっていき、徳川幕府が倒れ、明治政府ができます。簡単に言えばこんな流れです。
江戸幕府が財政難な理由 -天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故で- 歴史学 | 教えて!goo
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8712421.html
大名も国元にいれば現金はさほど必要がありませんでした。一年おきに暮らす江戸の街ではすべてが現金決済ですから、常に多額の現金が必要でした。江戸での費用は藩の財政の二割を占めていたとされています。
藩の支出の大半は家臣への俸給でした(人件費)・・・支出全体の四割~五割でした
何も付加価値を生まない連中にセッセとお金を払っていました。
これに、参勤交代という一大イベントの費用がありました。・・・支出の一割~二割
米の収穫量の変動に関わらずこれだけ固定した支出がありましたから、幕府から金を借りるか町人から借りる以外に方法がありません。
江戸時代末期には薩摩藩は町人から500万両余の借金をしていました。
無駄な?いや、庶民は買い物してもらえるので無駄というわけではないですが、恒常的な官製消費があった、と見ることができそうです。江戸に住んでいなかったら、参勤交代もなかったら3、4割くらいは財政出動が少なかったのではないでしょうか。
<幕府も最後はカツカツだった 米経済と貴金属の限界>
というわけで。上記のリンクのタイトルを見るに、カツカツなのは藩だけでなく幕府もでした。なぜなら、当時は年貢が米だったことに起因します。年貢を納める側としては田んぼをいっぱい作ればいいと。そして江戸と大阪で換金できました。武士はそれで暮らしていました。
それで、大地主だけが年貢を納めるので、大地主は嫌がって、年貢率を下げるために、田んぼを小作人に分けました。すると納める年貢の量が減ります。だから「田分けする」と武士や幕府から「ふざけんな!このたわけもの!」と、毛嫌いされる言葉になったようです。
しかも、それでも「米を作ればお金が増える」時代ですから、新田開発が進み、年々米の生産量は増えるものですから、江戸と大阪に米が集中し「もう米はいらねーよ」ってことで米価は下がっていきました。それで武士も幕府も貧しくなっていきました。年貢率は減る。米価は下がる。反面、田分けをして生産量も増えた庶民は景気がよかったと。だから、米以外の物価はさらに上がる、と。武士と幕府は散々です。
それで幕府は、小判をつぶして、金の含有量を減らして、1枚から2枚作るとかで、財源も確保していましたが、これをまた政府支出として民間経済に出すことで、民間の景気がよくなります。それでさらに物価が上がりました。
貨幣改鋳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E6%94%B9%E9%8B%B3
貨幣量を増やす方法は、元禄改鋳を例にとると、金純度86パーセントの小判の金の含有量を56パーセントに減らしている。純分量が約3分の2に減ったことで、従来の小判2枚分の金で改鋳後の質を落とした小判を3枚鋳造できる計算になる。つまり、改鋳によって従来の貨幣量を約1.5倍に増やすことができ、その増えた0.5倍分の小判が幕府の益金となる[1]。
今なら日本銀行に紙幣を刷らせれば終わりで、または電子的に、口座の数字をカチカチっと入力すれば、紙幣を作るのさえ後回しで財源確保は大丈夫ですが、当時は金銀が混じっていることが正貨扱いになりますので、貴金属の量が、貨幣の量を制限していました。だから、藩札ならぬ幕府札?を導入していなかった幕府は苦しかったわけです。
現代のマクロ経済の知識からすれば、前年比で増え続けるのが正常な物価ですので、貴金属の量でお金の上限を決めるというのは、早晩破綻していたかな、と思います。
とりあえず話を戻すと、藩はみんなカツカツなので、みんなで幕府をやっつけよう、って流れですね。幕府もカツカツです。しかし、そこまでしてお上が出費・・・財政出動をし続けてくれるので、庶民は仕事があってお金ももらえてウハウハな時代だったんでしょうね。物価が上がっていたとしても。
さて、お上がみんなカツカツな中、じゃあどうやって一部の藩が幕府を倒す力をつけていたのか?という話はいろいろ読んでみると面白いです。正直な藩、過少申告していた藩、やりくりしていた藩、踏み倒す算段で借金していた藩、いろいろです。
江戸の財政再建20人の知恵―藩財政破綻の危機を乗り越えた経世家群像 単行本 – 1998/11 山本 敦司 (著)
https://www.amazon.co.jp/江戸の財政再建20人の知恵―藩財政破綻の危機を乗り越えた経世家群像
長州藩や薩摩藩が倒幕に傾むいたその背景・財力・借金は? - 幕末維新
実力100万石を築いた長州藩官僚 その活躍が日本の歴史を変えた!?
http://j-net21.smrj.go.jp/watch/sanpo/entry/20090727.html
とりあえずはこうして、江戸幕府が終わり、米経済から、太政官札なる紙幣経済へと移行していくわけです。
そこからもハリスが来日して、日米修好通商条約を結ばされてしまったせいで、洋ドルも入ってきて、さらに日本の貴金属が流出する事態が起きて騒ぎになったり(まだ金本位制で、貴金属が準備金には変わりなかった)、太政官札が発行されても、統一通貨というわけではなかったので、藩札も引き続き利用されており、しっちゃかめっちゃかだったので、「通貨錯乱」と呼ばれ、通貨を統一しようという流れになり、最後には私たちの「円」に行き着きます。
幕末の通貨問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C
従って、1ドル(メキシコドル)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで利益を上げることができた。実際には、開港直前の1859年6月25日(安政6年5月25日)の触書の中で、その当時小判として最も多く流通していた天保小判は一分銀5枚の増歩通用とされ、さらに市場においては小判1枚との交換に対し一分銀6枚と増歩を要求される状況で、さらに9月ごろには8枚から9枚と跳ね上がった[5]。それでも一年間にこのような両替を5~6サイクル程繰り返し、利益を上げることが可能であったという[3][6]。結果、大量の金(小判)が海外に流出することになる。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしたことを、日記に記している。
まぁ、ハリス氏は自国でも非難されてお日様の下を歩けなくなったようですが
幕末の金貨濫出(東善寺HP)
http://tozenzi.cside.com/tuuka-kosyo.html
また、かつてニューヨーク市立大学の創立に貢献したほどの人物ハリスが、日本に初代領事として着任後この通貨交換により国から受けた給料の何倍もの蓄えをアメリカに送金することができたため、のちに日本からアメリカに帰国後は「日本で不当な利得を得た」と非難され、表立った場所へは出入りできないまま生涯を終えています。
逆にアメリカへ行った遣米使節一行は日本の3倍の値段で品物を買わされる羽目に陥っていました。
【論 説】 藩札の整理をめぐって* ―明治初年における通貨統合の一側面― 鹿 野 嘉 昭
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/16477/034062120002.pdf
実際,藩札・府県札の場合,明 治 5 年 8 月以降,政府が明治 4 年 12 月に定めた交換価格で新紙幣(明治通宝札) および新銅貨との交換が始まり,1 年 7 か月後の 7 年 3 月末までにその 85% が新紙幣・新銅貨に交換された.その後,明治 12 年 6 月に維新政府は藩札交 換の終了を宣言し,ここにおいて江戸時代に地方通貨として機能していた藩札は名実ともに世の中から姿を消すことになった4) .
なお,新紙幣の券種は, 百円,五十円,十円,五円,二円,一円,五十銭,二十銭,十銭の 9 種類であり, そのうち発行高が最も多かったのは一円紙幣であった.この藩札・府県札と 新紙幣・新銅貨との交換は,藩札の回収を主軸に行われたことにちなんで藩札整理あるいは藩札処分と呼ばれる.
長くなりましたので、今回はこの辺で。歴史の話しになってしまいましたね!
藩札の分析に関してはまた次回に。
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----編集後記----
歴史の勉強が大変でした笑
面白かったですが^^
しかしまだ終わってませんので、私の感想はまた次回にでも述べたいと思います。
とりあえず今回は藩も幕府もカツカツって話でした。