小倉茂徳さん(その2)です。
その1はこちら
知恩院の翌年、
2009年には
当時、六本木にあった
F1 Pit Stop Cafe での
「墨のF1展」。
ここでのトークショーには、
小倉さんに加えて松田次生選手にも
出演してもらいました。
知恩院では小倉さん1人だったので、
今度は、小倉さん1人ではなく、
現役レーシングドライバーにも
トークに加わってもらおうと考えたのです。
ちょうどこの年、
松田選手が受賞した
モータースポーツ顕彰の副賞の絵を
私が描かせてもらったことで
松田選手とご縁ができ、
来てもらえました。
松田次生選手は、
2007、2008年、
フォーミュラニッポン
(現 スーパーフォーミュラ)で
2年連続チャンピオンを
獲得した翌年だったのです。
ロニー・クインタレッリ選手も
遊びに来てくれたので、
飛び入りで登壇してもらえました。
すごく豪華な顔ぶれ。
ありがたいことでした。
トークは小倉さんが
「こういう場合はどうですか?」
と現役ドライバーに聞く形で
進行しました。
2004年〜2010年まで続いた
鈴鹿サーキットでの
「墨のF1展」では、
小倉さんとこのような機会を
設けることができずに
残念でしたが、
現場では超多忙なはずなのに
いつも義理堅く、
展示会場に顔を見せてくれました。
当時の小倉さんは
CSのF1中継で解説をしていたので、
鈴鹿サーキット内を歩いていると
すぐF1ファンの人たちに囲まれて
移動するのも大変な状態でした。
そうそう、
オグたん、と呼ばれていましたね。
2018年5月 富士スピードウェイでの
「墨ぐらんぷり展」
2013年から19年まで
7年連続で開催された
新宿区四谷荒木町
「ギャラリーゑいじう」での
人数限定の「お茶会トーク」
このギャラリーは
1Fがカフェ
2Fがギャラリー
になっていて、
1Fを借り切って
珈琲などお茶を飲みながら
ざっくばらんにお話をする会でした。
ここでの話は
「ネット、SNSなどに
書かないでくださいね」
というお約束で、
業界裏話や
メーカーに対して厳しい意見など
"ブラックオグたん"
の貴重な話が聞けました。
そういえば「DAZN」と
名前は出さなかったですが、
ネット配信でのF1中継が
近く始まるよ、という話も
「お茶会トーク」で
いち早く聞くことができました。
今では当たり前のネット配信ですが、
当時、ネット配信で
F1が見れるようになるのかと
ちょっとした驚きでした。
(写真: Hiroshi Ono)
小倉さんは本当に
全てのモータースポーツを愛していました。
F1以外は見下すとか、
そういうことは全く無かった。
IndyCar、
WEC、
GP2(FIA F2)
SUPER GT、
SUPER FORMULA、
F3
挙げればきりが無い。
いろんな場面で
解説をしてきましたね。
学生フォーミュラまで
フォローしていましたよ。
嬉しそうに学生フォーミュラの話を
してくれたのですが、
ちょっとついていけませんでした 汗
そして公ではもちろん、
私と2人だけのプライベートな時でも
ドライバーの批判や悪口、
小倉さんの口から
一度も聞いたことがありません。
全てのレーシングドライバーを
リスペクトしていました。
たとえどんなドライバーでも、
良いところ、優れたところを
見つけていました。
小倉さんは
金💰で動く人ではなかった。
「あなたが必要なんだ!」
という熱意が感じられれば
どこへでも行く、
金の問題じゃない、
そういう人でした。
小倉さんは穏やかで
いつでも微笑みを絶やさない人でした。
でも、結構短気な人でもありました。
正義感の強い人でもありました。
さすが、幕臣の末裔、
武士なんですね。
そして義理堅い、情の深い人でした。
受けた恩義と受けた裏切りは
いつまでも決して忘れない人でした。
ずいぶん前のことです。
15年くらい前だったでしょうか。
自分としては長年
献身的に応援してきたつもり
と思う人物から
理不尽で非礼な仕打ちを
受けたとことがあり、
それがきっかけで
キッパリ応援をやめたのですが、
あまりに悲しいことだったので、
そのことについて
ずっと誰にも話すこと無く
自分の心に秘していました。
ところが3、4年前、
何がきっかけだったか忘れましたが、
そんな出来事があったことを
小倉さんに話してしまったんです。
話を聞いた小倉さんは、
怒りの形相で、
両手をブルブルと震わせながら、
「いくら有名な人であっても」
「そういう人なんだと思うしかない」
「そういう人なんだと思うしかない」
2度、繰り返したのです。
小倉さんは、その人物のことを
私が長く献身的に応援してきたことを
知っていたからでしょうか、
我がことのように
怒ってくれたのです。
ビックリしました。
そして長年の胸のつかえが、
氷解したような気がして、
救われたような気がしました。
ところで、
小倉さんは北米の自動車技術者協会
SAE International のスタッフであることに
誇りとこだわりがあったのだと思います。
大切な場面では上着に
「SAE」のバッチをつけていました。
SAE International とは、
自動車、商用車、航空宇宙などの
技術者や研究者が参加する、
世界的な技術者団体です。
小倉さんはしばしば
鼻血を出していました。
出血量も多かったようです。
鼻血の話は
SNSにも書いていたと思います。
ヤバい病気じゃないだろうか、
少し心配に感じていたけど、
小倉さん本人は
よくあること、と
意に返さない感じで、
笑い話のように語っていました。
私は、2020年から
コロナ禍の影響と
個人的な事情もあって、
個展をお休みしていました。
なので、小倉さんとのトークも
ここ何年かお休みしていました。
小倉さんからは、
「再開することにしたら
また声をかけてくださいよ。
いつまでも待ってますから
焦らないでくださいね。」と
言ってもらっていました。
2024年12月 富士スピードウェイ
Inter Proto Series
小倉さんと一緒に撮った最後の写真。
真ん中は
ロニー・クインタレッリ選手。
小倉さんが亡くなったのが
判ったのは、
2025年5月17日の未明でした。
16日夜、
F1中継の解説の予定があったのに、
時間になってもスタジオに現れない。
電話でもメールでも
連絡が取れない。
小倉さんは1人暮らしだったので、
何か起きたのではないか?
スタッフが警察に連絡、
警察が自宅に急行、
亡くなっていることが判明。
警察の鑑定で
亡くなったのは14日。
心臓突然死、ということでした。
私に第一報が届いたのが、
18日の昼頃。
「小倉さんが亡くなった。
でも、知らせるべき親族の所在が
わからない。
垂井さん、知ってますか?」
とのことでした。
驚きました。
小倉さんが死んでしまった。
でも、わずかながらですが、
こういうこともあり得る、
という気持ちもどこかにありました。
小倉さんは
自分は長生きできない、
死が近くにある、
というようなニュアンスなことを
時々、口にしていました。
今思えば、もしかしたら
身体のどこかに
不調を抱えてたかもしれないし
自覚症状が
あったのかもしれない。
とにかく、寝ない人でした。
あまりにも、寝ない人でした。
「もう何十時間寝てませんよ」
なんて言うのは珍しくなかった。
危ないな、
と思ってはいました。
でも、私からの助言など
あまり聞いてはくれません。
5月22日
荼毘にふされました。
まだ、公に訃報は出てませんでしたが、
放送関係、新聞関係、
レースアナウンサーの方など、
多くの関係者の方が参列しました。
毎日のように更新していたSNS
14日を最後に止まっていること、
16日深夜のF1中継に
説明なく欠席したことで、
ネット上では、
小倉さんを心配する声が
上がっていました。
訃報が出るのが遅れたのは
残されたご家族の意向の確認に
時間がかかったからです。
小倉さんは生涯独身でしたが、
外国の女性と遠距離恋愛をしていました。
時々ポロっと、
彼女の話をすることがありました。
嬉しそうに。
京都知恩院で担当してくださった方に
訃報を伝えました。
知恩院で回向院していただきました。
満62歳、享年64歳(数え年)
5月24日、
DAZNでのF1中継の番組中に
小倉さんの訃報が出ました。
小倉さんは
寝る間を惜しんで
大好きなレース中継を見て、
サーキットに足を運び、取材し、
寸暇を惜しんで調べ物をし、研究し、
あちらこちらで解説をし、
あちらこちらでトークを楽しみ、
懐具合には余裕ができると
海外にも取材に出かけた。
働き過ぎだったと思います。
ただでさえ寝不足のはずなのに
更に寝る時間を削って
録画した「吉本新喜劇」を
見ていたらしい。
本当に寝ない人だったのです。
F1などレーシングカーの
プラモデルをたくさん買ってましたね。
作る時間なんて無かったはずですよ。
恐らく天国の方から、
そろそろこっちにおいでよ、と、
呼ばれてしまったのでしょう。
別れは本当に寂しいですが、
小倉さんの人生は
幸せだったのだと思います。
この思い出話は、
小倉さんの一周忌の供養と思い、
また、お世話になった感謝を込めて
書きました。
あらためて小倉茂徳さんの
ご冥福をお祈りします。
合掌
























