〇大村益次郎 関係書簡1
○安政二年二月五日 順蔵(緒方惟準?)より (『文書』252)
千里春風不帯梅香、却齎来千里外故人の馨書抔と申せはどうやら{破}陳儒臭し、久しふりに御書状拝見仕、お夏かしさいわん方なし。
お目出度御正月に逢ひお祝申升。
扨、昨年よりおまへさま四国へ御渡候様子承り、且又頻り御教育の様子承り大悦不斜奉存候。
御来書には、小生同様住処不定の由。尊公様已に御定の処、於此上御定様も有間敷、只今小生のみ于今御教示の通り恥入次第に奉存候。
扨、アメリカ一件、実に歯か抜る位の切噛を致し、歯か痛み入申候。歯医者は悦申由。
如御意小生もかよう慷慨のみに消光仕申候。
我輩は申に及はす、頃日は上一天{ 破 }一人より下は{ 破 }迄海防策を談し居申候。
実に世間の味が変り、アルチユルレリーエーレルト相成申候。
且又当今は昔時と違ひ、ひらい首といふ事も相成不申、先つひらい玉にても可仕哉と存居候。
扨、小生事当塾に罷在候事、昨冬渡辺卯三郎帰国に付{ 破 }滞留致ス時宜、御存の通りの申者に御座候。
併し人間の切り間故に、か様の時宜にも相及申候事、小生身に取ては先年の師家の折×よりたと相悦居申候事、
御憐察可被下候。
就夫当今は出精、且又篤実一直の人間と相成可申候。
御笑可被下候。
実は昨冬及承り、則手紙等御尋可申上候処、御無音打過御海容被下度、何卒御海容可被下候。
御地珍話も御座候はは為御聞被下度奉願上候。
当地格別の珍話も無御座候へ共、昨冬町人共へ海岸御手当に付、御冥加金差上可申候様御申候様御諭し有之候処、少々宛差上申候に付、直に又候大物共御用金被仰付、鴻池加嶋屋の類十萬両、其外準して多少有之候。
然処、右町人共彼是申立、出すまいと致し候処、御役人被申候は、此度の御用金は他時と事変り、若違輩の者は搦捕申様と手ひどく被仰候処、 皆々ヒシヒシと御請致候由、実に愉快無此上事に御座候。
併しまた御役人の御憐み{ 破 }左様に上を欺く様なる奴原は、小口より家財相取上被成候ても宜敷義と被存候事不亦愉快乎。
扨又、関東より京都へ非常まさかの節、天子様御立のき場処と用意致置様とか、就夫婦一人初、其外諸卿達御示談の上にて外夷退治の御祈念、所々寺々に御修行有之御心配の由。
右の如き雲上人迄も如斯被成申事不亦傷乎、
右は二ヶ条共奇談に御座候。
尚、些々宛の奇談は沢山御座候へ共、数へるに暇なし。
トツトベスロイトチヨン〱〱
二月五日
順蔵
良安契兄
尚々、御盛の由奉欣然候。以上。
{解説}
※渡辺卯三郎知行 天保二年―明治十四年六月二十一日 五一歳
加賀大聖寺藩士。
嘉永元年、適塾入門。嘉永六年、適塾六代目塾頭。
安政四年、大聖寺藩藩医になる。