○来島又兵衛と周布政之助の往復書簡

 

 長州藩世子毛利定広は、ある政治上の都合で、文久二年十二月二十八日から長期在京中だった。それが久しぶりに帰国することになったのだが、その移動に初めて海上帰国するという企画が持ち上がったのである。

 当初、その御用船に自慢の蒸気船壬戌丸をあてる予定であったが、あいにく修理中(横浜から長州への初航海で、いきなり故障してしまった。この船はとんだボロ船で、最初から機関に欠陥があったようである。購入時に長州人は点検しているのだから、いかに見る目がなかったかわかる)という事情で、代替として庚申丸という船が使用されることになった。庚申丸は、万延元年(一八六〇)に、長州藩が製造した和船である。

 

 しかし、周布政之助と来島又兵衛は、購入したばかりの癸亥丸を使おうという別案を持ちだした。癸亥丸は帆船で、二万ドルだったというから、壬戌丸の六分の一の価格で、大した船ではないが、それでも来島に言わせると、和船の庚申丸とくらべると、

「士と農夫ほどの違い、これ有り」(三月三十日付・周布あて書簡)

という事になる。ほぼ独断で癸亥丸を購入した(?)来島とすれば、この船の性能をアピールしたいところであったろう。

周布は来島と友人だったから、何も考えず(としか思えない)簡単に賛成し、「船将」の野村弥吉にその旨を通知し、細々と指示を与えた。

 

「儲公(世子)(朝廷へ)御暇仰せ出され候に付、右御船(癸亥丸)にて海上御帰国なられ候様、仕度存じ奉り候間、弥吉へ仰せ合われ、その仕向け御配意下さるべく候」(三月二十七日・周布→来島)

 

 ところが、後日これが庚申丸に変更(とは周布の主観だが)になった。

 だれかがたきつけたにせよ、世子自身の口からそのような希望が出たのである。

 

「庚申丸、癸亥丸御覧遊ばされ候ところ、御召艦は庚申丸と仰せ出され候由」(三月三十日付・来島→周布)

 

 この来島の書簡に、興味深い記述がある。世子が癸亥丸を見分した際、

「野村弥吉留守ゆえ、謙助行届かず、山尾は身軽者ゆえ、庚申丸より士官来号致し、山尾を御前へ出さず由」

 

 野村が留守(大坂へ行っていた)で、謙助という人物も頼りにならないので、山尾が癸亥丸の責任者に擬せられていたのだが、山尾の身分が低いため、本来ライバルであるはずの庚申丸から士官が来て指揮を取り世子を案内し、山尾を世子の目にふれないようにしたというのである。

 山尾は、不愉快であったろう。「お前は、どこかに行ってろ」程度の事は言われたかもしれない。

 

「(山尾は)甚だ心外がり、再度諸生の志を発し候由・・・皆人の前にての大恥辱、不平不大形由」

と、来島は同情的に書いている。

 

○周布政之助は洋行の主導者ではない

 結局、周布政之助と来島又兵衛の「癸亥丸」案は通らなかった。

「此度の儀は、思召の旨これ有り。庚申丸へ召させられ、癸亥丸は御乗替に仰せ付けられ候」(四月一日付・周布→来島)

と決定し、さらに四月三日付の書簡(周布→来島)では、

「儲公(世子定広)思召に、この度は初めて御船にて御帰国に付、御国にて製造の庚申丸へ召させらるべくとの御事に付、その沙汰に及び候。全く以て、船に優劣はこれ無き事に候間、この意を以て乗組衆へ御諭し、不平の心これ無き様、御扱ひ成し下さるべく候」

とあり、この間の事情が察せられる。

 この決定に、野村と山尾がむくれる事はまちがいないので、周布は来島に、

「野弥(野村弥吉)へ最前の示談𪗱𪘚の趣は、拠無き次第にこれ有り候段、御噂願い奉り候」

と頼んでいる。

 この件に関しては、一から十まで周布が悪い。周布と来島は仲がいい。来島の面子を通すために、周布は個人的友情だけで、衆議にかけず、勝手に「癸亥丸にしよう」と一人決めして、野村に通知したのだ。庚申丸は和船で、その性能は洋船の癸亥丸には劣っていたかもしれないが、長州藩が手造りした「思い入れのある」船である。周布は、そういう周囲の想いをまったく無視し、私情を優先したのである。

 周布政之助の言動は、無責任な失言が多すぎる。この時も、軽率な行動で一悶着を起こしたわけだが、何があっても、「俺は悪くない」と居直る周布が、この時は、

「自分の失態で恥をかかせてしまい、申し訳ない」

と、野村と山尾に謝罪した。

この辺りが周布の不思議な所で、山内容堂(土佐藩隠居)や中根市之丞(幕臣)、あるいは同僚の長州藩高官には高飛車に暴言を吐くが、どういうわけか長州の若者―高杉晋作や久坂玄瑞・吉田稔麿などーには異常なほど甘いのだ。

 野村と山尾は、今回の一件で多少はムカついていたであろうが、聡明な二人は反面これを好機と思ったのではないか。弱腰の周布にスネてみせ、ある事をねだった。

 

「野弥・山庸両人は、儲公三田尻御著船の上は、宿志を遂げ候様に、私において精々心配仕るべく候」(周布→来島)

 

 野村・山尾のいう「宿志」とは、「洋行」の事である。

 私は、周布が深謀遠慮をもって、以前から洋行を計画していたという通説はとらない。主導は周布ではなく、野村・山尾だったと思う。周布は、負い目のある二人に迫られて、希望をかなえてやったに過ぎない。

だから周布はこの時、場当り的に「洋行を托せる人物」として、たまたまこの時癸亥丸に便乗して京都に来ていた藩出入りの商人佐藤貞次郎を指名したのである。

 洋行までのドタバタ振りは後述するが、周布あるいは長州藩が、以前から洋行を計画していたならば、もう少し要領よく事が進まなければならないはずだ。