マヂカルラブリーのネタが優れた漫才である理由 | 埼玉的研究ノート

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今年のM-1グランプリでは、最終決戦に残った3組のうち、「見取り図」のみが「しゃべくり漫才」で、優勝したマヂカルラブリー含めた2組は、動きや歌がメインでしゃべりの部分が非常に少なかった。果たしてこれは「漫才」の大会と言えるのか――。こうした疑問がネット上では多く見られた。

 

もちろん、そもそもマヂカルラブリーのネタは笑えなかった、面白くないから漫才かどうかという議論が生まれるのだという声もあった。それは好みの問題であるためここでは論じない。最終決戦のレベルについては、昨年のほうが高かったような気は確かにする。ミルクボーイは別格だろう。しかし私自身はマヂカルラブリーは割と笑えた(特に、注目が集まりがちな野田より村上のツッコミがツボである)。

 

面白ければそれ以上ぐだぐた言う必要もないし、面白くないと思ったら静かに立ち去ればいいのだが、彼らのネタが漫才であるのかどうかという議論が巻き起こったのでそこに食いついてみたい。

 

では漫才はどのように定義されるのか。

 

そもそも、物事はどのように定義されるのか。少なくとも2つまったく異なる定義方法が存在する。

 

1つは、抽象的なレベルで本質を定義し、あるものがその本質を兼ね備えているかどうかで分類するというものである。それに従うと、大学を定義する場合、日本であれば学校教育法で定められた定義を満たしているかどうかで、あるものが大学であるかどうかが区別される(学校教育法が大学の本質をとらえているかどうかは措く)。

 

もう1つの考え方は、言語学で1970年代に提唱されたプロトタイプ理論である。それによると、あるものは、何か本質を決めてから分類されるのではなく、初めにプロトタイプ=典型例が示され、それと近いか遠いかで区別がなされる。あるものが大学であるかどうかは、「大学っぽい」かどうかで判断されることになる。「大学っぽい」というプロトタイプは、それをイメージする人のなかに存在し、その定義が社会で流通する場合は、一定数の人のあいだでそのイメージが共有されているときである。世間では、本質よりもこういう「○○っぽい」かどうかで定義されることのほうが多いように思う。「ハーフ」というときに、たいてい欧米系の顔の人が呼ばれるなど、である。

 

では、漫才はどのように定義されるのか。「先行研究」の類を見ずに私の勝手な考えを言うだけだが、プロトタイプ理論で行くならば、「しゃべくり漫才」というのは漫才の典型例とされているだろう。マヂカルラブリーのネタは、その典型例とは大きく離れている。動きが多いという点では、典型的なコントに近い。つまり、プロトタイプ理論的な考え方で定義するならば、マヂカルラブリーのネタはどちらかと言えばコントになる。

 

一方、漫才の本質は何かというところから定義をするとどうだろう。これこそが私の勝手な考えだが、マイク一本で、主に2人の人間がボケとツッコミを駆使して観客の想像力を掻き立て、そしてその想像したものをくすぐっていくことで笑わせるのが漫才の本質である。

 

この定義からすると、「しゃべくり漫才」は、喋りのみで観客の想像力を掻き立て、そしてくすぐっていく。

 

だが、観客は喋りのみによって想像力を刺激されるとは限らない。動きであったり表情であったり、間(ま)であったり音楽的なものであったり、上記の本質の範囲内でも様々な選択肢がある。

 

結果的に観客の想像力を掻き立て、そしてくすぐることに成功すれば、それは「面白い漫才」ということになる。

 

マヂカルラブリーの野田は、動き一つで、例えば最終決戦では激しく揺れる車内を観客に見せた。そして村上はツッコミによってそれをくすぐった。村上は単に野田のおかしなところを言葉にして代弁するだけではなかった。野田のボケを的確な言葉、特に的確な声の表情と間で拾うことで、観客の想像力をアシストもした。

 

過去の「伝説のネタ」の数々もそうだった。笑い飯の民俗博物館ネタも鳥人ネタも、観客はそれぞれを生き生きと想像し、くすぐられた。ミルクボーイのネタで、観客はコンフレークとモナカにまつわる様々な情景を想像し、そしてくすぐられた。ブラックマヨネーズは、細かいことを気にしながら、細かいところまで観客に想像させた。ポイントは、いずれのネタでも観客は同じような情景を見続け、そしてそれが様々に変化していったというまとまりのよさだったのではないだろうか。

 

少なくともこの点についていえば、やはりマヂラブのネタは一位だったといえるように思う。