ロシアの立憲民主党は、1905年革命の際に設立された、ロシアに西欧的な民主主義体制を確立することを目指した自由主義政党である。1917年2月革命では、その中心の一角として活躍し、ツァーリ打倒後に社会主義者とともに連立政権を組んで、ロシアの民主化を目指した。10月革命で社会主義者の一角を占めていたボリシェヴィキが反旗を翻して政権を力づくで奪取したのちは、白軍として内戦を戦うも、西欧諸国からの支援もむなしく、数年のうちに敗れていった。
「誰も排除しない」という点で象徴的であるのは、立憲民主党の党首ミリュコーフとならんで立ち上げメンバーとなり、その中心の一人であり続けた、マクシム・ヴィナヴェルというユダヤ人の弁護士にして政治家であった人物である。彼は1905年革命後に設立されたロシア帝国最初の国会(ドゥーマ)に、立憲民主党のペテルブルク代表の一人として選出された。
ヴィナヴェルはユダヤ人であることを隠すことがないばかりか、ユダヤ人の権利向上のために闘うことを公言していた。ユダヤ人の政治界隈でも中心の一角を占めた彼は、社会主義者やシオニストなどとの論争の末に、1907年には「ユダヤ人民グループ」という政治団体を結成している。これは政党ではなく、ユダヤ人の政治団体のなかではユダヤ色が最も薄いものではあったが、立憲民主党の幹部でありながら堂々とユダヤ人の民族的権利向上を訴えていたことは注目に値する。
ここで言いたいのは、彼が「ずうずうしい」ということではない。ユダヤ人が法的に差別されていたのは、ロシアが民主主義ではないことの象徴としてロシア人の自由主義者の間でも問題視されていたから、彼の姿勢は立憲民主党の理念と矛盾しない。それでも、ロシアよりユダヤを優先しているのではないか、という疑念が提示されても不思議ではなかったかもれない。少なくとも今日の日本で、「非日本人」系の政治家が「非日本人」の権利向上に一言でも触れようものなら、どの政党に属していても袋叩きにあうことだろう。ボリシェヴィキでさえ、ユダヤ人のことをことさらに取り上げる議論には批判的であった(社会主義が実現されれば、ユダヤ人差別も自ずと解消される、との立場だった)。
だが、ミリュコーフや、作家ナボコフの父親であるナボコフをはじめ、立憲民主党のロシア人のメンバーはそのことを是認した。ユダヤ人は国際関係の領域で特に疑念にさらされることが多かったが、にもかかわらず、ユダヤ人ヴィナヴェルは、内戦期に立憲民主党がクリミアに逃れて設立した臨時政府に外務大臣として入閣している。
ヴィナヴェルのロシアへの忠誠心と、立憲民主党の「誰も排除しない」という理念のいずれもが本物であったことは、次のことによっても確証される。ヴィナヴェルは、クリミアが陥落して他の白系ロシア人とともにパリに移住したのちも、ミリュコーフらとともに、ボリシェヴィキからのロシア奪還を目指して活動し続けた。ロシアのボリシェヴィキ化はユダヤ人にとってとも災難であると考えたヴィナヴェルは、並行してロシア出身のユダヤ人の間でもロシア・ユダヤ人として活動することもやめなかった。繰り返しになるが、しかし、そのことによってミリュコーフらがヴィナヴェルを避けることはなかったのである。むしろ、ヴィナヴェルが立ち上げたユダヤ系の雑誌に寄稿したりもしていた。
立憲民主党が最終的にボリシェヴィキに敗れた背景は複雑だが、まだ識字率が非常に低かったロシアゆえに仕方なかったかもしれないにせよ、「下から」の部分が不十分であったことがあっただろう。埼玉発の立憲民主党は、これからの時代、「右か左か」ではなく、「上からか草の根からか」である、自身は後者であり、それを推進していくと宣言した。ロシアの立憲民主党は、民衆からの支持という点で躓いた。ただ、包括的で民主的なロシアを目指し、「誰も排除しない」ことを守り抜いた点は確かである。「草の根」とそのことが両立できるか否かに、1世紀を経た「復活」の意義がかかっている。