腹痛に襲われた時ほど自らの存在の虚無を感じることはないというのは既に僕の中で定説になっている。


たとえばの話をしよう。


朝、しこたま牛乳を飲む。これでもかというくらい飲む。数値に換算するなら1リットルくらい牛乳を飲む。寝起きのすきっ腹にダイレクトに牛乳を注入。(ラップ化希望)


するとどうだろう。十中八九、僕らの一日の始まりは惨劇の舞台と化す。トイレから漏れる嗚咽が聞こえてくるかのようである。いや、トイレのなかであればまだいい。トイレは、脱出への唯一の突破口である。トイレに入ればまだ明るい未来を夢見ることができる。


これが満員電車や満員バスであったらどうだろう。急行西武池袋行き、石神井公園駅を出発したばかり。突如として襲う腹痛。これはまずい。なにがまずいって、この電車は急行。しかも石神井公園を出たばかり。終点・池袋までノンストップ。危険というシグナルが脳で警告音を発する。


「これは、非常にMAZUI」


石神井公園から池袋までおよそ20分。ところが腹部は予断を許さない状況と見え、しきりに突き刺すような痺れと痛みが襲う。これは、年に数回あるかないかのカタストロフィー・・・!!発射へのカウントダウンは加速度的に進行中。リミットが0になればそこは阿鼻叫喚の地獄絵図。しかもここは密室空間。もはやそれは犯罪のレベルといっても過言ではない。


そんなとき、あなたなら、どうしますか?

1年前からボクシングを嗜んでいる。


週に1~2回、1時間の濃密な肉体運動によって現代社会から受ける過酷な心理的ダメージを放出し、そして明日へのエネルギーを蓄える。それは自己の解放であり、また自己を取り戻す運動でもある。


「はじめの一歩」を読んだわけでもない。亀田や内藤に興味があるわけでもない。そんな私がなぜボクシングを始めたかって?


当時好きな女の子が、TOKIOの山口くんみたいなソフトマッチョが好きだと言ってたからです。


肉体は順調に10キロくらい肥大化したものの、好きなあの子は遠ざかるばかり。身体肥えて、精神は枯れる。


そんな風にして1年たった。


そして、ついに痔になった。

ゴルフを始めて3年目。


3年目になるが、ゴルフについて、まだまだわからないことばかりである。


まずもって、スライス。アイアンでスライス、ドライバーでドスライス。ボールがおもしろいように曲がる。最盛期の伊藤智仁かというくらい曲がる。練習場で打てば右のネットに当たり、コースに出れば右の森に消えていく。


もちろん打ちたくて打っているわけではない。イメージの中の軌道はいつだって至極まっとうなストレートボール。だがしかし現実は伊藤智仁の高速スライダー。どうしようもなく曲がる。


修正は試みた。あるときはスタンスを変え、ある時はテークバック、またある時は立ち位置を変えた。それでもダメ。程度の差はあれど曲がるのである。


それでも僕は今日もクラブを握り続ける。嫌々ながらもクラブを握り、そして振る。


なぜか。



中略



痔の調子が良い。

子供の頃のご馳走といえば言うまでもなくしらすだった。


しらす。シラス。


駿河湾に面した街(町ではない)で育ったので、至極当然のようにシラスは生活の一部だった。チーズのないピザがないように、僕が生まれ育った街はシラスは溢れていた。スーパーの鮮魚コーナーに溢れていた。


しらすの食し方には、3通りある。

1.ゆでる

2.干す

3.そのまま(生)


どれもが至高の一品となりうる可能性を持つが、あえて選べと言われれば生だ。それは間違いない。哀れなローマ人が殺戮をモチーフとした遊戯を生み出したように、極限にまで新鮮さを保った生じらすは味覚の最頂点、言うなれば「味のダンテズピーク」である。食べればわかる。一口でわかる。


わさび醤油につけるもよし。つけないもよし。その選択の自由は与えよう。だが、しかし。生じらすを前にした君には、食べないという権利を選択する自由はない。一度それを口にしたものは、味覚という人間の五感の最も崇高な器官によって制御されたmonsterに他ならない。


もう一度言おう。食べればわかる。


さあ、今すぐスーパーへ急げ。