【怪談説法】 「お題目さま」
三木大雲チャンネル•2020/07/19
文字起こし
蓮久寺住職三木大雲です。
本日の「怪談説法」させていただこうと思うんです。
ちょっとこの話、以前にも少し触れたと思うんですが、私はお寺の次男とし生まれましたので、なかなか継ぐお寺がなかったんですね。
その時期の話なんです。
大きなお寺さんにお勤めに出てたり、あるいは無償でですお墓の
掃除なんかもこの時期いろんなところで、修行ということでさせて頂いてたんですけれども、ちょっとまあ場所は、特定して言えないんですけれども、関西某所に、日蓮宗でいわゆる無住のお寺があったのです。
無住のお寺っていうのは誰も住んでない寺ですね。
ですからご住職様は、一様おられるんですけれども、普段はそこでお住みでないのです。
何でそういうお寺ができたかと言いますと、関西でも田舎の方のお寺なんですね。
ですのでほとんどお檀家さんがおられないので、そのお寺で生活して住職をしていても生活ができないので、いわゆる京都市内のお寺の住職をされながら、関西某所のお寺もまあ兼務されてたんですね。
用事がある時だけ行くというような感じの、いわゆる無住の寺があったわけです。
で無住のお寺ですから、やっぱりこう春先になってきたりしますと雑草がすごかったりですね。でまあひどいときにはそこのご住職が半年に一度行かれるかどうかぐらいなんでやっぱり汚れてくるんですよ。
でまぁそれを私を聞きしましてね、もし良ければ、そのお寺で私が泊まり込みで掃除をしに行ってもいいですかって、ご住職にお聞きしましたら・・そらもうむしろ助かりますと言っていただきまして、私その田舎のお寺に泊まりに行ったんです。
まず行きますと、必ずそのお寺では「しきたり」のようなものがありまして、行くとその村の長(おさ)言われる方にご挨拶に行かなくちゃいけないんですね。
私も着き次第、すぐにその方の所へ行きまして、実は今日から数日間
お寺の掃除が終わるまでの間、ここへ宿泊させていただいて、
もちろんその間をお経も唱えさせてもらいますし、よろしくお願いしますと挨拶に行ったんですね。
ちょうどその挨拶に行った時に、
この村のちょっと集まりみたいなのが最中だったんですよ。
皆さんいわゆる長老会議というと大げさかもしれませんけれども、
その村の主要な方達が集まって何か会議されたんですね。
丁度村の人間がみんな集まってるから、
じゃあ今日からちょっと三木さんが2~3日泊まれるそうだから、紹介までしていただいて、じゃあよろしくお願いしますということで帰ろうとしたらですね。
その長老の方がちょっと三木さん、あのちょっとだけお話ですかって言っていただいた。
あのなんでしょうお聞きしますと・・
明日の朝、
物言わぬ村人がたくさん行くかもしれませんけども、
申し訳ないですけど、一切挨拶せずにそのままほっといてくださいっておっしゃるんですね。
ではーそうですね、皆さんそのお寺にどんな用事で来られるんですかというと、いやちょっとそれは言えません。
ただ無言の村人が何人か行きますけれども、一切挨拶しないで下さいて、それ一つだけずっとおっしゃるんですね。
で私もさすが気になりましてねぇ・・
ちょっと詳細を教えて頂けませんかといったら「いやー大丈夫、大丈夫です、なんせ三木さんは誰ともしゃべらなかったらいいです」と、そのことばっかりおっしゃるんですね。
なんとかちょっとでもその秘密を知りたいなと思いまして、
なんとか食い下がって、詳細教えて頂けませんかって言ってお話をすると、長老の方がそこまでおっしゃるなら、ちょっと一度村人だけであの会議をして考えさせていただいて、もし村人みんながいいよってなったら三木さんに教えてあげますと言っていただきまして、そうですかという事で私お寺の方に行きまして掃除をしていてちょうど夕方ぐらいですかね何名かの村人の方が来られました。
三木さん、あの明日の朝の話なんですけれども、
皆集まって考えた結果、三木 さんにだけはお話しして良いかなと思いましたのでお話しさせてもらいますということでお話を聞きしたんですね。
どういうことだというと、明日のちょうど朝から1日このお寺にある石でできたというかねぇ木でできたというか、持つと石のように重いんですけど見た目は木なんですけど、おそらく木の化石ぎだと思うんですが、
その置物がある祠がお寺のちょっと隣のところの祠みたいなのがあってそこで飾ってあるんです。
村の人たちは皆さんそれを「お題目様」っていう風にして呼ばれてましたけども、見ますと石に「南無妙法蓮華経」とか何かお経がバーと金で書いてあるんです。
私たち「日蓮宗」は南無妙法蓮華経のことを別名を「大題目(おだいもく)」という呼び方をするんです。
まぁその影響でしょうね、
お題目様という、まあお題目が書いてある石という意味でそういうふうに読んでられたんですけども、年に一度だけ「縁日」があるんです。
でこのお題目様の縁日が、実は私が泊まりに行ったその日の次の日の朝からが縁日。
でこの年に一度の縁日に、実はお題目様に「願をかける」と必ず願い事が叶うという言い伝えがある石で、その拝み方が少し特殊でして・・
まず朝起きて願い事を言いに行く人は、朝から誰とも口をきいてはダメなんだそうです。
一番水って言って、起きて一番最初に水道の蛇口をひねって水をもらって、その水で口をゆすいだ後、誰ともしゃべらずにお題目様のところまで行って手を合わして、南無妙法蓮華経と3回唱えた後に願い事を言う。
でまたな南無妙法蓮華経を三回言って終えるそうなんです。
でこれまでは誰とも喋ったらダメなんですってその日。お題目様に挨拶し終わるまでは誰とも喋ってはいけないので、朝に村人が来ても私はあいさつ
しないでくださいという風な注意を受けてたんですよね。
でまぁあの実はその縁日が年に一度の縁日が明日なのでまぁ誰か村人は上がってきてもしゃべらないでくださいねって言われたんです。
この話を聞いたときに、実は丁度私お寺を探してまして、あのできれば生まれ故郷である京都で、どこかお寺が見つかればなというふうに思ってたんで、まぁちょっと厚かましいなと思いながら村長さんに。
「まことにあの申し訳ないんですけれども、私もそのお題目さまで手を合わさせていただけませんか」とお聞きしたんです。
そうすると村の方がちょっと顔色が変わった感じで、
そのお願いしたい内容って何ですかって聞いてこられたんですね。
ですから私は、できれば生まれ故郷の京都のどっかで、お寺に入りたいんです。
そしたらやそんなことは三木さん頑張ったらできることではないんですかって言われたんですけども・・
実は非常に難しいんです。
京都市内で、しかも代々お寺というのは継ぐ人が決まってますからね。
京都市内で継ぐ人がいないお寺で、そんなタイミング良く住職も変わりたいと思っておられる方もでなかなかいませんから。
実はまああの宝くじに当たるくらいの確率だと私は思っているんです。
どうかもし住職になった時には、世間の人たちのためにいろいろ頑張りますので、私もお題目様に手を合わさせてください。そうお願いしたんです。
そうするとまぁ夕方ぐらいでしたけれども、今からもう一度ね村の中で話し合って、でよかったらまた今晩報告に来ますって言っていただいて、
まぁまた話し合って数時間後にお寺の方に戻って来られまして、
「三木さんわかりました。明日三木さんお願いをしてください」
但しひとつだけ約束してもらいたいことがあるっておっしゃるんです。
それは何かというと、実はこの年でお題目様はもうお願い事をしないように村で決めて、今年が最後、明日ですよねですから私が泊まりに行った
明日にお願い事をして、それを最後にお題目様をもう「閉眼(へいげん)」という言い方するんですけれども、「閉じてしまいたいと思っているんです」と、おっしゃるんですね。
閉じた後、三木さんがおそらく願いが叶って京都市内のお寺のどこかの住職になったときには、このお題目様を引き取っていただけませんか。
もし引き取っていただけるならば、明日三木さんがお題目様にお願いしてもいいですよと言っていただいたんです。
もちろんですよ「私がもし京都市内の住職になれるようなことがあるならば、もちろんお題目様を引き取って、お寺で面倒を見させていただきます」と言う話をしたんです。
で、この会話の時に、一つ疑問が浮かんなんですけども、なぜ今年で止められるんですか?
そういう疑問が浮かんだんです。
その話を聞きしますと、実は村では毎年この縁日の時に村の人たちが代わる代わる願をかけに来てたんですね。
この願をかけるのは一つの約束ごとがあって、人間一人に、要するに一生に一度だけ願をかけることができるのだが、2回目お願いしてももう叶えてもらえないそうなんですよ。
ですから村人で今年はあなたが願い事を言いに行きなさいという風にして選ばれるそうなんですけども、だんだんとお年寄りの願いを毎年行ってるとなくなってきますね。
まだ村で新たに生まれたお子さんであるだとか、成年であるとかまだお願い事をしてない人に、じゃあ今年はあなたが行ってくださいって言って選ばれるそうなんですけど、「若い人になればなるほど嫌がる」って言うんですよね。
何を嫌がるかっていうと、「村で決めた願い事」をその人が言いに行くんですお題目様に・・
村で決めた願い事というと何かというと、例えば、豊作を祈って言ってきてくれとか、あるいは村に災害がないように言ってきてくれとかっていう風にして、自分の「私利私欲」のためのお願い事っていうのはお題目様に今まで村ではあの言ってはならないってなってたんです。
ところが若い人たちになればなるほど、いやいや一生に一度のお願いですから、2回目はもうないわけですから、村の豊作を祈ってもなんか損した気分になる。
若い人たちはやがて自分のお願い事はしてもいいけれども村の人たち、他の人たちのためになんか願をかけるっていうのは、まあちょっと嫌だって言い出したそうなんです。
そこで村の人たちは、お年寄りが集まったときに、もう時代が変わってきたな、昔なら自分の住んでいる村、生まれ故郷、これを守るために一生で一度のお願いごとを平気で出せたんですけども、なんとなく時代が変わってきて自分のためだけに願い事を言うようにこの村ではなってしまったですので、もう今年を最後にこのお題目様と閉じたいというお話だったんですね。
いやーそうでしたか分かりました。
でまぁ私の場合は住職になるという私利私欲のようにも一見聞こえますけれども、住職というものになっていただいたら後にお題目様を見てもらえるし、普通の事業とは違うんでということで私だけは特別許可いただいたんです。
で次の日の朝になりまして、朝口をすすいで、すぐにお題目様のところへ行きましてお題目を唱えて南無妙法蓮華経を三回言って「京都市内どこでもいいです。京都市内のどこか日蓮宗のお寺の跡継ぎとして私が選ばれるように一つお願いいたします。」
また南無妙法蓮華経3回唱えてお題目様にお願いしたんですね。
でその後、村の方が来られまして、何やらの願をかけたれられました。
この年は2つの願をお題目様でお願いしたんです。
それから数週間後ぐらい・・
1月はもう確実に経っていないぐらいなんですけども、日蓮宗の本山の管長猊下からお電話をいただきまして、今の蓮久寺にもしよかったら入るかというふうなお話をいただいて今蓮久寺の住職をさせていただいているんですね。
要するにこのお題目様にお願いしたことが叶ったわけです。
ありがとうございますということで、私ももう一度村に行きまして、
無事住職になれたのでありがとうございましたってお礼参りに行ったんですね。
お礼参りに行った時にまた村の人たちにもご挨拶させていただいたら、村の人たちが、実は三木住職が京都市内でお寺を探すということと、もう一つ「村の大きなお願い事」を最後にさせていただいたんです。
それが何かというと、この村に「温泉が湧きますように」という願を実は立てられたんです。
あーそうでしたか。
私は住職にならせていただきましたので、この村で温泉が出るといいですねって言って、まあその日は別れて、彼は、もし温泉が湧いたらまた報告しますねって言って言っていただいたんです。
それから2月ぐらいしてから、村の方たちがお題目様を持って来られましてね、私のお寺に。
今後、連久寺にこのお題目様を置いてくださいということで私も受けておりまして、その温泉のことはどうなりましたかってお聞きしましたら・・
実はあの後「温泉が突然湧き始めた」そうなんです。
とある小高いあの村には山があるんですけども、その山の上の方で湧き水が出た。
湧き水がずーっと急に出て触っているうちに、どんどん温かくなって温泉だーということで、今実はそこ、ちょっとあの場所は言わないように言われてるんで残念ながらここでお話してきませんけれども、関西某所に今はそこ温泉街としてあのちょっと賑わってるんですよ。
でそこはあのまあ温泉の名前があるんですけども、
その温泉の名前の付いた村が近くに出来まして若い人たちがそこであの近くで採れた農作物を売ってられるんですけど、そこの「名誉村民」として今も私の名前を残していただいているんです。
まあこれはお題目様というお話なんですけれども、私たちはですねテレビあるいはインターネット、いろんな媒体でいろんな災害、あるいは病気のこととか今もまあ聞きますよね。
でなんとなくですよ遠い国で起こった災害・・
あっあぁそうかあそこの国大変だな、あるいは日本国内でもそうですよね。
離れた所で災害があったらなんとなく「他人事」のように思ってしまう。
あー大変だなあそここの地域の人たちは、でも私たちは「お祈り」するっていうのは、基本的に実は仏教ではそうなんですけど「欲を捨てなさい」、そういう教えがあるんですが、
欲を捨ててじゃあ何をするのかというと「自分以外の人たちの幸福を願いなさい」っていうのが「仏教の祈り」というものなんですね。
ですから今もまあ疫病があったり、天災があったりしますけれども、自分の身には直接関係がなかったとしてもですね、どうかこれをご覧の皆様はそういった遠く離れた所で苦しんでられる方々のことを想ってですね
できれば「日々手を合わせて」いただけたらなという風に思います。
ということで本日の「怪談説法」これで終わらせていただきます。
本日もどうもありがとうございました。
以上
本日の「怪談説法」させていただこうと思うんです。
ちょっとこの話、以前にも少し触れたと思うんですが、私はお寺の次男とし生まれましたので、なかなか継ぐお寺がなかったんですね。
その時期の話なんです。
大きなお寺さんにお勤めに出てたり、あるいは無償でですお墓の
掃除なんかもこの時期いろんなところで、修行ということでさせて頂いてたんですけれども、ちょっとまあ場所は、特定して言えないんですけれども、関西某所に、日蓮宗でいわゆる無住のお寺があったのです。
無住のお寺っていうのは誰も住んでない寺ですね。
ですからご住職様は、一様おられるんですけれども、普段はそこでお住みでないのです。
何でそういうお寺ができたかと言いますと、関西でも田舎の方のお寺なんですね。
ですのでほとんどお檀家さんがおられないので、そのお寺で生活して住職をしていても生活ができないので、いわゆる京都市内のお寺の住職をされながら、関西某所のお寺もまあ兼務されてたんですね。
用事がある時だけ行くというような感じの、いわゆる無住の寺があったわけです。
で無住のお寺ですから、やっぱりこう春先になってきたりしますと雑草がすごかったりですね。でまあひどいときにはそこのご住職が半年に一度行かれるかどうかぐらいなんでやっぱり汚れてくるんですよ。
でまぁそれを私を聞きしましてね、もし良ければ、そのお寺で私が泊まり込みで掃除をしに行ってもいいですかって、ご住職にお聞きしましたら・・そらもうむしろ助かりますと言っていただきまして、私その田舎のお寺に泊まりに行ったんです。
まず行きますと、必ずそのお寺では「しきたり」のようなものがありまして、行くとその村の長(おさ)言われる方にご挨拶に行かなくちゃいけないんですね。
私も着き次第、すぐにその方の所へ行きまして、実は今日から数日間
お寺の掃除が終わるまでの間、ここへ宿泊させていただいて、
もちろんその間をお経も唱えさせてもらいますし、よろしくお願いしますと挨拶に行ったんですね。
ちょうどその挨拶に行った時に、
この村のちょっと集まりみたいなのが最中だったんですよ。
皆さんいわゆる長老会議というと大げさかもしれませんけれども、
その村の主要な方達が集まって何か会議されたんですね。
丁度村の人間がみんな集まってるから、
じゃあ今日からちょっと三木さんが2~3日泊まれるそうだから、紹介までしていただいて、じゃあよろしくお願いしますということで帰ろうとしたらですね。
その長老の方がちょっと三木さん、あのちょっとだけお話ですかって言っていただいた。
あのなんでしょうお聞きしますと・・
明日の朝、
物言わぬ村人がたくさん行くかもしれませんけども、
申し訳ないですけど、一切挨拶せずにそのままほっといてくださいっておっしゃるんですね。
ではーそうですね、皆さんそのお寺にどんな用事で来られるんですかというと、いやちょっとそれは言えません。
ただ無言の村人が何人か行きますけれども、一切挨拶しないで下さいて、それ一つだけずっとおっしゃるんですね。
で私もさすが気になりましてねぇ・・
ちょっと詳細を教えて頂けませんかといったら「いやー大丈夫、大丈夫です、なんせ三木さんは誰ともしゃべらなかったらいいです」と、そのことばっかりおっしゃるんですね。
なんとかちょっとでもその秘密を知りたいなと思いまして、
なんとか食い下がって、詳細教えて頂けませんかって言ってお話をすると、長老の方がそこまでおっしゃるなら、ちょっと一度村人だけであの会議をして考えさせていただいて、もし村人みんながいいよってなったら三木さんに教えてあげますと言っていただきまして、そうですかという事で私お寺の方に行きまして掃除をしていてちょうど夕方ぐらいですかね何名かの村人の方が来られました。
三木さん、あの明日の朝の話なんですけれども、
皆集まって考えた結果、三木 さんにだけはお話しして良いかなと思いましたのでお話しさせてもらいますということでお話を聞きしたんですね。
どういうことだというと、明日のちょうど朝から1日このお寺にある石でできたというかねぇ木でできたというか、持つと石のように重いんですけど見た目は木なんですけど、おそらく木の化石ぎだと思うんですが、
その置物がある祠がお寺のちょっと隣のところの祠みたいなのがあってそこで飾ってあるんです。
村の人たちは皆さんそれを「お題目様」っていう風にして呼ばれてましたけども、見ますと石に「南無妙法蓮華経」とか何かお経がバーと金で書いてあるんです。
私たち「日蓮宗」は南無妙法蓮華経のことを別名を「大題目(おだいもく)」という呼び方をするんです。
まぁその影響でしょうね、
お題目様という、まあお題目が書いてある石という意味でそういうふうに読んでられたんですけども、年に一度だけ「縁日」があるんです。
でこのお題目様の縁日が、実は私が泊まりに行ったその日の次の日の朝からが縁日。
でこの年に一度の縁日に、実はお題目様に「願をかける」と必ず願い事が叶うという言い伝えがある石で、その拝み方が少し特殊でして・・
まず朝起きて願い事を言いに行く人は、朝から誰とも口をきいてはダメなんだそうです。
一番水って言って、起きて一番最初に水道の蛇口をひねって水をもらって、その水で口をゆすいだ後、誰ともしゃべらずにお題目様のところまで行って手を合わして、南無妙法蓮華経と3回唱えた後に願い事を言う。
でまたな南無妙法蓮華経を三回言って終えるそうなんです。
でこれまでは誰とも喋ったらダメなんですってその日。お題目様に挨拶し終わるまでは誰とも喋ってはいけないので、朝に村人が来ても私はあいさつ
しないでくださいという風な注意を受けてたんですよね。
でまぁあの実はその縁日が年に一度の縁日が明日なのでまぁ誰か村人は上がってきてもしゃべらないでくださいねって言われたんです。
この話を聞いたときに、実は丁度私お寺を探してまして、あのできれば生まれ故郷である京都で、どこかお寺が見つかればなというふうに思ってたんで、まぁちょっと厚かましいなと思いながら村長さんに。
「まことにあの申し訳ないんですけれども、私もそのお題目さまで手を合わさせていただけませんか」とお聞きしたんです。
そうすると村の方がちょっと顔色が変わった感じで、
そのお願いしたい内容って何ですかって聞いてこられたんですね。
ですから私は、できれば生まれ故郷の京都のどっかで、お寺に入りたいんです。
そしたらやそんなことは三木さん頑張ったらできることではないんですかって言われたんですけども・・
実は非常に難しいんです。
京都市内で、しかも代々お寺というのは継ぐ人が決まってますからね。
京都市内で継ぐ人がいないお寺で、そんなタイミング良く住職も変わりたいと思っておられる方もでなかなかいませんから。
実はまああの宝くじに当たるくらいの確率だと私は思っているんです。
どうかもし住職になった時には、世間の人たちのためにいろいろ頑張りますので、私もお題目様に手を合わさせてください。そうお願いしたんです。
そうするとまぁ夕方ぐらいでしたけれども、今からもう一度ね村の中で話し合って、でよかったらまた今晩報告に来ますって言っていただいて、
まぁまた話し合って数時間後にお寺の方に戻って来られまして、
「三木さんわかりました。明日三木さんお願いをしてください」
但しひとつだけ約束してもらいたいことがあるっておっしゃるんです。
それは何かというと、実はこの年でお題目様はもうお願い事をしないように村で決めて、今年が最後、明日ですよねですから私が泊まりに行った
明日にお願い事をして、それを最後にお題目様をもう「閉眼(へいげん)」という言い方するんですけれども、「閉じてしまいたいと思っているんです」と、おっしゃるんですね。
閉じた後、三木さんがおそらく願いが叶って京都市内のお寺のどこかの住職になったときには、このお題目様を引き取っていただけませんか。
もし引き取っていただけるならば、明日三木さんがお題目様にお願いしてもいいですよと言っていただいたんです。
もちろんですよ「私がもし京都市内の住職になれるようなことがあるならば、もちろんお題目様を引き取って、お寺で面倒を見させていただきます」と言う話をしたんです。
で、この会話の時に、一つ疑問が浮かんなんですけども、なぜ今年で止められるんですか?
そういう疑問が浮かんだんです。
その話を聞きしますと、実は村では毎年この縁日の時に村の人たちが代わる代わる願をかけに来てたんですね。
この願をかけるのは一つの約束ごとがあって、人間一人に、要するに一生に一度だけ願をかけることができるのだが、2回目お願いしてももう叶えてもらえないそうなんですよ。
ですから村人で今年はあなたが願い事を言いに行きなさいという風にして選ばれるそうなんですけども、だんだんとお年寄りの願いを毎年行ってるとなくなってきますね。
まだ村で新たに生まれたお子さんであるだとか、成年であるとかまだお願い事をしてない人に、じゃあ今年はあなたが行ってくださいって言って選ばれるそうなんですけど、「若い人になればなるほど嫌がる」って言うんですよね。
何を嫌がるかっていうと、「村で決めた願い事」をその人が言いに行くんですお題目様に・・
村で決めた願い事というと何かというと、例えば、豊作を祈って言ってきてくれとか、あるいは村に災害がないように言ってきてくれとかっていう風にして、自分の「私利私欲」のためのお願い事っていうのはお題目様に今まで村ではあの言ってはならないってなってたんです。
ところが若い人たちになればなるほど、いやいや一生に一度のお願いですから、2回目はもうないわけですから、村の豊作を祈ってもなんか損した気分になる。
若い人たちはやがて自分のお願い事はしてもいいけれども村の人たち、他の人たちのためになんか願をかけるっていうのは、まあちょっと嫌だって言い出したそうなんです。
そこで村の人たちは、お年寄りが集まったときに、もう時代が変わってきたな、昔なら自分の住んでいる村、生まれ故郷、これを守るために一生で一度のお願いごとを平気で出せたんですけども、なんとなく時代が変わってきて自分のためだけに願い事を言うようにこの村ではなってしまったですので、もう今年を最後にこのお題目様と閉じたいというお話だったんですね。
いやーそうでしたか分かりました。
でまぁ私の場合は住職になるという私利私欲のようにも一見聞こえますけれども、住職というものになっていただいたら後にお題目様を見てもらえるし、普通の事業とは違うんでということで私だけは特別許可いただいたんです。
で次の日の朝になりまして、朝口をすすいで、すぐにお題目様のところへ行きましてお題目を唱えて南無妙法蓮華経を三回言って「京都市内どこでもいいです。京都市内のどこか日蓮宗のお寺の跡継ぎとして私が選ばれるように一つお願いいたします。」
また南無妙法蓮華経3回唱えてお題目様にお願いしたんですね。
でその後、村の方が来られまして、何やらの願をかけたれられました。
この年は2つの願をお題目様でお願いしたんです。
それから数週間後ぐらい・・
1月はもう確実に経っていないぐらいなんですけども、日蓮宗の本山の管長猊下からお電話をいただきまして、今の蓮久寺にもしよかったら入るかというふうなお話をいただいて今蓮久寺の住職をさせていただいているんですね。
要するにこのお題目様にお願いしたことが叶ったわけです。
ありがとうございますということで、私ももう一度村に行きまして、
無事住職になれたのでありがとうございましたってお礼参りに行ったんですね。
お礼参りに行った時にまた村の人たちにもご挨拶させていただいたら、村の人たちが、実は三木住職が京都市内でお寺を探すということと、もう一つ「村の大きなお願い事」を最後にさせていただいたんです。
それが何かというと、この村に「温泉が湧きますように」という願を実は立てられたんです。
あーそうでしたか。
私は住職にならせていただきましたので、この村で温泉が出るといいですねって言って、まあその日は別れて、彼は、もし温泉が湧いたらまた報告しますねって言って言っていただいたんです。
それから2月ぐらいしてから、村の方たちがお題目様を持って来られましてね、私のお寺に。
今後、連久寺にこのお題目様を置いてくださいということで私も受けておりまして、その温泉のことはどうなりましたかってお聞きしましたら・・
実はあの後「温泉が突然湧き始めた」そうなんです。
とある小高いあの村には山があるんですけども、その山の上の方で湧き水が出た。
湧き水がずーっと急に出て触っているうちに、どんどん温かくなって温泉だーということで、今実はそこ、ちょっとあの場所は言わないように言われてるんで残念ながらここでお話してきませんけれども、関西某所に今はそこ温泉街としてあのちょっと賑わってるんですよ。
でそこはあのまあ温泉の名前があるんですけども、
その温泉の名前の付いた村が近くに出来まして若い人たちがそこであの近くで採れた農作物を売ってられるんですけど、そこの「名誉村民」として今も私の名前を残していただいているんです。
まあこれはお題目様というお話なんですけれども、私たちはですねテレビあるいはインターネット、いろんな媒体でいろんな災害、あるいは病気のこととか今もまあ聞きますよね。
でなんとなくですよ遠い国で起こった災害・・
あっあぁそうかあそこの国大変だな、あるいは日本国内でもそうですよね。
離れた所で災害があったらなんとなく「他人事」のように思ってしまう。
あー大変だなあそここの地域の人たちは、でも私たちは「お祈り」するっていうのは、基本的に実は仏教ではそうなんですけど「欲を捨てなさい」、そういう教えがあるんですが、
欲を捨ててじゃあ何をするのかというと「自分以外の人たちの幸福を願いなさい」っていうのが「仏教の祈り」というものなんですね。
ですから今もまあ疫病があったり、天災があったりしますけれども、自分の身には直接関係がなかったとしてもですね、どうかこれをご覧の皆様はそういった遠く離れた所で苦しんでられる方々のことを想ってですね
できれば「日々手を合わせて」いただけたらなという風に思います。
ということで本日の「怪談説法」これで終わらせていただきます。
本日もどうもありがとうございました。
以上
◆三証(現証)
二つの「願掛け」が叶った不思議な「現証」のお話しでした。
また三木大雲上人は毒殺を免れた「シンクロニシティ現象」の体験者。
■■恫喝コメント 再掲[三木大雲]恐い話No.1『OKOWAチャンピオンシップ決勝戦』◆ふけめし
◆ふけめし
埼玉愛犬家連続殺人事件
「運が悪いやつって、どういうことですか」
「あんたお坊さんやから言うたげるわ。
昔なぁ、ひとりの修行僧が、うちの、アフリカケンネルに来よった。
毒入りのコーヒーを出した。
1本だけ、毒のないもんを置いた。
そいつ、3回とも、毒なしのコーヒー引いて、飲んどった。
ひょっとしたら、神仏は居るんかもしれんなぁ」
そう言って、笑ったそうなんです。
>そう言って、笑ったそうなんです。
・・平然と「毒」を用いる者が経てきた精神的な解明は、幼少期まで辿ることになるでしょう。
彼らの『悪癖』である陰湿な『異物混入』です。
三証とは、仏教における3つの証明のこと。理・文・現の3つをいう。この3つが揃ってはじめてその真理が完全なものであると証明されるとする。 この用語は仏教一般で使われることもあるが、主に日蓮系各宗派で使用される。 ウィキペディア