◆平成の妖怪 安倍晋三「歴史戦を終わらせる」
安倍首相は、日米、日韓、日中、日露と表裏の外交史を詳細に知る傑出した政治家です。
強面のプーチンが、二人だけで話し合う相手として交渉に応じた。
プーチンは、歴史に通じた冷酷な情報通です。
安倍首相は、余人を交えない会談で、率直な歴史を交えたハードな意見交換をする。
そのような会談を避けたいと怯むのが、オバマであり、パククネであり、習近平です。
直談判を怖れているのです。だから外に向かって吠えているw
[真珠湾慰霊]安倍首相「歴史戦は自分の代で終わらせたい」◆シナの走狗キッシンジャーの手先
「ちょうどよい機会なんだ。『戦後』にきちんとケジメをつける」
perfumekawaee@perfumekawaee安倍プーチン会談について ねずさんのひとりごと(12/26) https://t.co/RwOZiHljxL 先般の安倍総理とプーチンさんとの会談については、さまざまな論評があります。一点、総理の記者会見のなかにあった言葉に… https://t.co/uuowoXs38G
2016年12月26日 18:04
perfumekawaee@perfumekawaee実態上は、いまだ日本は占領統治下にあります。なぜなら、日本に米軍基地があるからです。それが不要と言っているのではありません。現下の特亜三国の横暴を考えれば、むしろいま日本に米軍基地がなければ困ります。ただし、日米安保があるといっても、米国は核を保有する国とは決して戦争はしません。
2016年12月26日 18:29
日本は世界を平和にします
最後に、今日の表題の「戦争をしたい人達」について。
平和を訴えている人たちが、実は一番暴力的であることが、最近沖縄で起きたデモへの妨害暴力事件などでわかってきました。彼らの後ろにいる人たちが、実は戦争をしたい人です。もっと詳しく言えば、侵略をしたい人達です。日本人でない人たちも多く混じっています。そうやって考えてみると、色々腑に落ちるところがあるはずですよ。少しだけでもいいですので、彼らがやっていることを調べてみてください。そうしたら目から鱗の経験が出来て、新年を気持ちよく迎えられること間違いなしです。どうぞよろしくお願いいたします。
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するめのよっちゃん#沖縄は日本だ@surumegesogeso【重大ニュース】 公安調査庁発表。米軍基地が集中する沖縄に、中国の大学やシンクタンクが沖縄独立求める団体関係者と交流を深め『中国に有利な世論を沖縄で作り日本国内の分断を狙っている』団体関係者を明らかにせよ!スパイ防止法、共謀罪の成… https://t.co/5EKCuxaoQb
2016年12月23日 02:39
するめのよっちゃん#沖縄は日本だ@surumegesogeso#報道されない沖縄 重要なニュースは人があまり見ていない時間帯にしれっと流れる。沖縄県民の皆さん、尖閣諸島は八重山の石垣市ですよ。この島を中国は日本が盗んだと世界中で訴えています。私達の知らない所で中国はあらゆる工作を仕掛けていま… https://t.co/zYiH3ZeW65
2016年12月20日 14:58
国際派日本人養成講座
No.801 沖縄は中国の領土なのか?
作成日時 : 2013/06/02 04:09
引用抜粋・・
■3.沖縄の中にあった中国人コロニー
沖縄の歴史が明瞭になってくるのは、12世紀頃からだ。源為朝が沖縄本島南部の豪族の娘との間にもうけた舜天(しゅんてん)が王となり、沖縄を統一したと言われている。沖縄の旧家の長男に「朝」の字が多いのは、「為朝」にあやかりたいという願望からだと言う。
1372年に、舜天の子孫の察度王(さつどおう)が明の光武帝に朝貢を求められ、恐る恐る従ったら、その莫大な返礼を見て驚いた。以後、琉球王国は中国の華夷秩序に依存し、明との朝貢貿易で稼ぐようになる。
明は鎖国政策をとっており、外国船の出入りも朝貢船に限定されていた。明と貿易をしようとすれば、明の服属国として朝貢貿易をするしかなかったのである。さらに明は冊封国に中国人を在留させて、朝貢貿易の政務を担当させた。那覇市内の久米という地域が、中国人の居留区となっていた。
寛永21(1644)年、明が滅び、清が成立したとき、満洲族の支配を忌避して、明人(漢民族)の36姓の部族が亡命してきた。現知事の仲井真弘多氏、前知事の稲嶺恵一氏とも、この36姓の子孫である。
久米では19世紀になっても中国語が話されており、日清戦争の終了まで、沖縄を中国圏に置こうと画策していた。現在も約3千人の県民が中国子孫を自認しており、約10億円の共有預金と会館を運営し、団結は固い。
歴史的に戦乱や飢饉の続く中国大陸から大量の難民が国外に脱出してきたが、その子孫が東南アジアでは多くの国で華僑として経済的実権を握ったり、またサンフランシスコやバンクーバーでも閉鎖的な中国人コロニーを築いて、現地社会との摩擦を起こしたりしている。そのミニ版が沖縄にもあったのである。
■5.「これほどまでに不幸な生活をしている人民は見たことがない」
その一方では、中国式官僚国家を築いた琉球王家の支配の下で、人民は悲惨な生活を余儀なくされていた。その一つに、明治の廃藩置県まで4百年間も続いていた「地割制」がある。
これは農民の土地私有を許さず、集落単位で8公2民の重税をかけ、さらに耕作地を2~3年、離島地域では10年ごとに交代させる一種の原始共産制であった。
台風と干魃(かんばつ)が交互に訪れる沖縄では、本土式農業は定着せず、絶えず深刻な食糧不足に悩まされていた。そして、各地で謀反や一揆が続発していたので、それを抑えるために編み出されたのが、この制度であった。
土地の私有が許されず、しかも数年毎に「地割替え」では、農民は農地を開拓したり、改良したりするはずもない。また、各集落には王府から探偵が配置され、謀反を起こす恐れのある者を徹底的に摘発した。
江戸時代には、すでに本土では識字率男子50%、女子25%と世界最高水準を達成していたが、沖縄では農民は一切、文字も読めず、自分の名前も書けない状況にあった。
嘉永6(1853)年、沖縄に寄港したペリー提督が「メキシコの労働者を除けば、これほどまでに不幸な生活をしている人民は見たことがない」と述べている。
明治34年に、最後の琉球王・尚泰が亡くなった時、当時の奈良原繁沖縄県知事が「喪に服するよう」県民に指示したが、従ったのは旧王都首里の士族だけで、本島北部金武村にいたっては、祝いの綱引き大会を二晩にわたって行ったという。
■6.中国帰化人「支那党」の暗躍
明治4(1871)年、沖縄に廃藩置県、四民平等の太政官令がもたらされた。しかし、中国帰化人の「支那党」がことごとく反対し、琉球王を「絶対に日本につくな」と恫喝し、民衆には「(清国の)黄色い軍艦が間もなく沖縄に救援に来る」と説いた。
明治6(1873)年、沖縄の年貢運搬船が台湾に漂着し、乗組員54名が蛮族に殺害された事件が起こった。日本政府は沖縄の統治権を主張して、清国に賠償を要求した。
中国は沖縄への日本統治権を認めながらも、「中国は台湾の領有権を有していない」と賠償を拒否した。このため、日本は明治7年4月、36百名の陸軍部隊を台湾に送って、蛮族を攻撃した。慌てた清国政府は日本の要求を全て呑んだ。
沖縄人民が殺害されて、日本に賠償を支払ったということは、沖縄が日本政府の統治下にあることを認めたことになる。そんな状況下でも、琉球王府は明治7(1874)年11月、独断で北京に朝貢使を派遣した。
さらに廃藩置県にも抵抗を示したので、日本政府は明治12年3月、警官160名、陸軍歩兵400余名を送って、強制執行を行った。王府役人は一人として反抗するものなく、あっさり首里城を明け渡した。しかし、その後も支那党は反日活動を続け、清国総理・李鴻章に琉球救援を依頼したりした。
初代県令・鍋島直彬は教育普及のために、小中学校を設置し、本島には師範学校を創設したが、長きにわたる地割制の愚民政策で県民の向上心は皆無に近く、効果は上がらなかった。明治18(1885)年には、本土における就学率は男子66%、女子32%に上っていたが、沖縄は明治30(1897)年になっても、男子がようやく30%、女子にいたっては5%以下に過ぎなかった。
■8.沖縄を本土から引き離そうとする策謀
明治41(1908)年以降、沖縄には特別島嶼町村制が施行されていた。「特別」となったのは、いまだ経済基盤が整わず、県財政の70%もの国庫補助を受けていたからである。
それでも大正5(1916)年頃から、「本土並みの地方自治」を訴える県民運動が展開された。廃藩置県に抵抗した沖縄が、今度は本土並みの要求をするまでになった。県財政を考えれば無理があったが、国民意識の浸透という点では、それまでの日本政府や奈良原知事などの努力の結果と言えるだろう。
沖縄戦では、多くの民間人が軍と一緒になって戦い、犠牲となったが、それも本土との一体化を目指した今までの努力があったからこそである。そして玉砕に際して、沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将が送った「沖縄県民斯ク戦へり、県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」との電文は、多くの県民の心を慰め、戦後は心ある政治家を動かして、沖縄の祖国復帰の原動力となった。
しかし、沖縄を本土から引き離そうとする策謀は、戦後も続く。米軍占領下、「沖縄人連盟」が結成され、7万人の会員を擁して、沖縄独立、地割制の復活を主張した。日本共産党は「沖縄民族は少数民族であり、歴史的に搾取、収奪された民族」として、沖縄独立論を唱えた。
昭和33(1958)年11月、沖縄でも台湾国民党政府の支援の下で琉球国民党が結成され、沖縄独立を画策する。また、沖縄戦で日本軍が沖縄の民間人を虐殺したというプロパガンダが、大江健三郎など左翼知識人によって流布された。
今回の中国の沖縄領有論も、こうした流れに乗った動きの一つである。現代の日本人は戦後の温室の中での経験しかないので、「そんな馬鹿な」と思うだろうが、沖縄が日本の一部となっているのは、我が先人たちの必死の努力の結果なのである。
それが一つ間違えれば、今の北朝鮮のような国が沖縄に存在していたかも知れないのである。そうなっていたら、沖縄県民の不幸は言うに及ばず、エネルギー輸入や工業製品輸出のシーレーンの喉元を握られて、戦後日本の高度成長も繁栄もなかったかも知れない。 そういう日を我々の子孫が迎えなくとも良いように、現時点で最大限の努力をするのは我々の責務なのである。
全文は⇒ http://blog.jog-net.jp/201306/article_1.html
・・歴史上、亡命シナ人が沖縄やベトナム、タイにコロニー(華僑)を置いたとしても、その国々を中国とは言えない。シナ人の国には成りえない。
元々古代から琉球の人々は、日本人であったのです。
縄文人の子孫である沖縄人と本土は遺伝子を共有している。
現在は、シナ人より前に分岐している古い遺伝子と判明しています。
シナ人より古い遺伝子を持った縄文人が住んでいたのです。
強国の恫喝に屈して開国した明治政府の人たちは、日本の末端の琉球を護る決断をした。
最も欧米列強の植民地獲得競争に晒される琉球を守るために、廃藩置県「琉球処分」を行ったのです。巨大な清国との軋轢も覚悟した。
戊辰戦争に比べれば穏やかな処置でした。
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[琉球処分]
1872年の琉球藩設置から1879年の沖縄県設置を経て、強権的に琉球を日本の一部に位置づけようとした日本政府の一連の政策をいう。当時、琉球王国の体制そのものには大きな影響はないだろうと高をくくっていたが、ことの重大さに気付き、明治政府の命令を拒否し嘆願を繰返したが、琉球処分官に任命された松田道之は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊400人の武力を引き連れ首里城に乗り込み、廃藩置県をおこなうことを通達。そして3月31日に首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、4月4日、琉球王国は沖縄県となった。 http://www.weblio.jp/content/%E7%90%89%E7%90%83%E5%87%A6%E5%88%86
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中国共産党に呼応する・・
中国帰化人「支那党」の暗躍は、現在にも続く暗い影を、日本と沖縄に落としている。
ももじ@実況@momoji331@raptpe 151203 虎ノ門ニュース 8時入り! 青山繁晴 翁長知事は初代の琉球王 1 https://t.co/nq6cT6SY62
2016年12月12日 19:24