毎年12月14日(水)になると義士祭りが盛大に行われる。
吉良邸討ち入りの日です。
昨日、木枯らしが冷たい日ですが、墓参に出かけました。
赤穂義士大石内蔵助他17名 細川邸切腹史跡
細川邸切腹跡地
赤穂浪士が預けられた家は、泉岳寺周辺です。(細川邸、松平邸、毛利邸、水野邸)
『浅野内匠頭の奥方、瑶泉院(三次浅野家)』
浅野長矩公夫人 阿くりの方(瑶泉院)行年四十一歳
大名家とはいえ女子の墓石は小さいのが普通ですが、浅野内匠頭の奥方、瑶泉院は別格であまり例がない。
泉岳寺の「泉」の院殿号を賜る功績抜群であった証拠です。
赤穂浪士討ち入り後、翌年の一月に、公儀は”四十六士”を全員切腹と処置した。四月、事件連類の者の処分を決めたのです。
”四十六士”の遺児で、十五歳以上の男子は大島への流罪とし、十五歳未満の男子は、年齢が達すると同じく流罪。女子はお構いなし。
これに異議を申し立てたのは、吉良の実子で上杉綱憲は、強硬に処刑を主張したようです。実家の吉良家は取り潰され、派遣して討ち死にした上杉遺臣家族の手前があった。
上記処分によって、吉田忠左衛門次男、伝内(25歳)、村松喜兵衛三男、政右衛門(23歳)、問瀬久太夫次男、佐太八(20歳) 中村勘助長男、忠三郎(15歳)の四名が遠島、十五歳未満の待命者は十五人に及んだ。
遠島にあたり・・
縁者から送られる食品などの生活物資。この有無・多寡により、流人にも貧富の差があった。島の住人に生活の迷惑をかけない配慮です。
瑶泉院の尽力で、島流しされた遺児は助けられました。
そして連座遠島の刑を待つ間、御赦免の運動を為されたのです。
・・宝永三年六月十五日、上野寛永寺に於いて、徳川綱吉母堂の桂昌院の一周忌大法要が催された。その日、大法要を以て天下に「大赦令」が布告される。
『追墓・寺坂吉右衛門の謎』
寺坂吉右衛門 行年八十三歳 右側・間十次郎 行年二十六歳
吉良邸に討ち入りした寺坂吉右衛門は、引き揚げ途中内蔵助の命を受け、瑶泉院殿及び、京都、赤穂、亀山、姫路の一党の遺族、縁類を歴訪して顛末報じた後、江戸に帰って自首。しかし公儀は、時効を以て取り上げず。
公儀の御目こぼし、阿吽呼吸であったのでしょう。
討ち入り後の寺坂吉右衛門、余命四十七年間の八十三歳で亡くなりました。
泉岳寺の墓は慶応四年に立てられ、”四十七士”になったのです。
『赤穂義士記念館』
怨敵・吉良上野介に一番槍をつけた、間十次郎の修行した木刀に刻まれている・・
「人を殺せば 死ななければなりません」
・・吉良個人の「大名いじめ」が大変を引き起こした。
南部坂雪の別れ(後編)
https://youtu.be/gXkTPwEPCkw
2015/06/27 に公開
寺坂吉右衛門(寺田聰)から瑤泉院(麻乃佳世)への報告という形で「吉良邸討入り」が演出されています。定番の泉岳寺のシーンはなく、内匠頭の霊には瑤泉院が伝えることとなっています。