■■■この世の記録から消された元朝日新聞記者 和田俊(たかし) | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。



[心の夢 魂の夢 ]・・・過去記事

すでに死んだ者を甦らせる「奇跡の力」は人間にはない。

かろうじて、死者の存在する場所に、夢を介(シンクロ)して意識を差し向けることしか出来ないのです。

心の夢は虚像(イメージ)であり辿りつけない。
魂の夢は実像(半物質界の)であり、中有(チベット死者の書 チベット語ではバルドウ)の幽界までなら到達するようです。

中有とは、あの世とこの世の中間世界で、半物質界の事・・・瞬間々物質界に通じる世界で、刹那の時間、「魂の夢」として視るのでしょう。

「死にたくない!死にたくない!死にたくない!」
絶叫している者が居る。

人を死に追いやった者の声でした。

間もなく、テレビでニュース解説者の訃報が速報されました。
中国共産党に支援されたポルポト軍によるカンボシ゛アの首都ぺノンペン陥落を、「解放された」と伝えた元記者でした。

ポルポトの留学生帰国運動の手紙が日本にも到着するも、半信半疑な留学生たちは、彼の”ポルポトを賞賛する”新聞記事でカンボジア人留学生は信じたのです。

ポルポト軍は、帰国した留学生たちを直ちに処刑した。
同じ留学生宛に、”ポルポトを賞賛して帰国を促す”欺瞞の手紙を書かせてから・・・合掌


慰霊塔カンボジヤ

キリング・フィールドにある慰霊塔。手前の芝生は、通路で区切られた区画がそれぞれ500名前後の囚人を埋めた壕の跡である(日本の仏教徒からの支援です)

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*追加画像2017.7.4 クリップ 和田俊ニュースフロンティア

(削除人が消してまわる画像w)

★和田俊03

 

元記者とは和田俊氏のことです。

彼の人物写真を検索しても出てきません。wikipediaも削除されていた。


この世の記録から消された男です。

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警告: 以前削除されたページを再作成しようとしています。(Wikipedia)

このページの編集を続行するのが適切かどうかご確認ください。 参考までに、このページの削除と移動の記録を以下に示します:

2008年4月20日 (日) 07:38 Calvero (会話 | 投稿記録) がページ「和田俊」を削除しました (WP:CSD 全般3 荒らしand/orいたずら: 内容: '和田俊(わだ たかし、1992年9月1日-)はこんにゃく。現在こんにゃくをやらせてもらっている。生まれたときの名前はファラ...' (投稿者 [[特別:Contri
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■和田俊氏死去 
 和田 俊氏(わだ・たかし=立正大教授、元朝日新聞論説副主幹)5日午前2時46分、けい部食道がんのため、札幌市白石区の病院で死去、66歳。自宅は東京都杉並区高井戸西2の16の38。葬儀・告別式は近親者だけで行う。喪主は長男礼(れい)氏。  朝日新聞ヨーロッパ総局長などを経て、92年10月から96年3月までテレビ朝日「ニュースステーション」のコメンテーターを務めた。
2002/10/05 15:46   【共同通信】


立正大は日蓮系の大学です。
「平和」を唱えると、うまい世渡りができると踏んでいる元朝日新聞記者のずる賢さに嫌悪を覚える。

無神論マルキスト(科学的社会主義者)の和田教授・・何を教える?



■ポルポト派を”優しい”と表現した朝日新聞のトンデモ記事
http://blogs.yahoo.co.jp/torakyojin88/44342602.html
1975年(昭和50年)4月19日の朝日新聞の記事
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カンボジア解放勢力のブノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。
入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。平穏のうちに行われたようだ。
しかも、解放勢力の指導者がブノンペンの"裏切り者"たちに対し、「身の安全のために、早く逃げろと
繰り返し忠告した。これを裏返せば「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。


それよりも目の前から消えてくれた方がいい」という意味であり、敵を遇するうえで、きわめて アジア的な優しさに あふれている ようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度とカンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、 新生カンボジアは、いわば「明るい社会主義国」として、人々の期待にこたえるかもしれない。

 


カンボジアは内戦中も、秘密警察的な暗さがなかった。ロン・ノル政府側の要人も、警備にはさして関心を払っていなかった。 政府主催の公式レセプションでも検問所はなく、招待状なしでも要人にやすやすと近づくことができた。 これでよく事件が起きないものだと不思議に思ったが、南国的明るさとは暗殺とはそぐわないのかもしれない。

 


ロン・ノル政府は七三年春、王族やその関係者を逮捕したことがあった。彼らの自宅には監視のため憲兵が派遣されたが、 外来者を呼びとがめるわけでもなく、暇をもてあまして昼寝ばかりしていた。
そして、しばらくするうち、憲兵はいつの間にか現れなくなった。逮捕された人たちは起訴もされず、罪状不明のまま釈放された。 拘留中も差し入れ、面会自由。酒も飲み放題だったという。

 


ハン・ツク・ハク首相(当時)の命を受けて、解放勢力側と接触をはかろうとした人物をたずねたときも、 あまりに開放的なのでびっくりした。秘密的なにおいはまったくなく、こうままにどんどん資料を見せてくれた。 その素朴さと明るさは類がない。

 


カンボジア王国民族連合政府は自力で解放を達成した数少ない国の一つとなった。
民族運動戦線(赤いクメール)を中心とする指導者たちは、徐々に社会主義の道を歩むであろう。
しかし、カンボジア人の融通自在の行動様式からみて、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか。 (和田前ブノンペン特派員)
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70年代、ポルポト派による虐殺を「西側による捏造だ」と否定する記事を同紙に発表。

しかもこの記事を、現地でなく東京の朝日新聞本社で書いた事が判明、批判を浴びた。

このときの「解放軍(ポルポト派)はアジア的優しさに満ちている」は流行語となった。


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経歴はご立派のようですが、
軽重浮薄なペン先で若いカンボジア人を死地に追いやりました。


テレビ・コメンテーターの最後の頃、彼を忘れていないカンボジア人や批判者が現れました。
顔つきが異様に変化すると、間もなく番組を降りたのです。



日本の仏教僧は、カンボジアの村人と協力して虐殺のあった沼地に入り骨を拾い、日本で浄財を集め供養しました。
その沼地を灌漑施設に変えて、生き残った少年少女たちに与えたのです。

 


不思議は、因縁(浄財・法華経)を結んで果(夢)となる・・・

 


死にたくない!死にたくない!死にたくない!」
絶叫している者が居る。
人を死に追いやった者の声・・・この世に存在しなかった男。