■④ユングのシンクロニシティ理論を超えて 「宇宙律」を動かす力 | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。

 

カールユングは シンクロニシティを、『おなじ意味を持つ、二つのあるいはそれ以上の因果的には無関係なできごとの同時生起』と定義しました。

意味することは明らかです・・・・宇宙に於いて、いくつかの出来事が、通常の因果関係の力によらず連続しておこり、意味あるパターンをつくりあげるということです。

したがっシンクロニシティは、科学の通常の諸法則からはみ出してしまうに違いありません。
なぜなら、宇宙の基底から生じるはるかに深い運動の表現であり、物質と意味とを切り離すことのできない形までまきこんでいるものだからです。


「因果律」とは、原因と結果の連鎖として定義されます。(”因果”とは仏教の基本構造でもある)
因果律に支配された宇宙観を信じる限り、「ランダムな偶然の一致、想像力の投影にすぎない」とシンクロニシティを否定する立場になります。
(シンクロニシティ F・D・ピート)

**********************************************************************************************************


現在では学問として古典的な物理学と工学を学び実務を経験してきましたが、それらを基礎にシンクロニシティ現象を掘り下げても、結局曖昧なものにしかなりませんでした。

現在の科学的理論(素粒子)はヒントにはなりましたが、理論を構築する土台にはならず、「群盲象を撫でる」のが実態です。

シンクロニシティ現象の体験者(観察者)としての考察が不足していると感じるからでしょう。

提唱者のユング自身は、体験者でした。深い考察は現在も色あせてはいません。
未だに彼を超える学者はいないようです。


仏教には、ヒントが無尽蔵に人類の智慧として蓄えられています。
しかし仏教を深く学ぼうとする人たちの輪に入るには忍耐がいります。
議論のための議論に絡め獲られて、シンクロニシティ現象の研究まで深まることには、ならないからです。
やわらかに遠慮しながら議論の俎上に載せても、各宗門教義に牽引され、それらの解釈から離れられず、進展することはありませんでした。

仏教の基本構造でもある「因果の法」から、踏み出せないからでしょう。

これは、因果律に支配された宇宙観を信じる”一般科学”の学問の世界でも同じです。
シンクロニシティがトランプのジョーカーに感じられるからでしょう。

シンクロニシティ現象は、”心と物質”をつなぐ不可解な現象です。
大真面目に考えるべき学問だと思いますが、なかなか固定観念(因果律に支配された宇宙観)に縛られて理解されないようですね。


神道、古神道、精霊信仰、アミニズムと遡及すると、ぼんやりとした世界が見えてきました。
太古の人たちと自分たちは、繋がっていると・・・

すると彼らの心と魂が身近になりました。精霊たちと人々は一体化していたのです。


懐かしい幼い頃を想い返すと、森の動物、野鳥、昆虫、草木、大木、あそんだ小石、登った岩・・・そして精霊の存在は身近な仲間でした。
太古の子供たちと同じ感覚を共有していたことに気づいたのです。
自然界に存在するあらゆるものと繋がる感覚でした。

それが他人とは異なり、シンクロニシティ現象を数多く体験する状況になったようです。

*(封印していた幼き頃の森での心を取り戻すと、野鳥や昆虫たちとの交流が戻ってきました。精霊も小枝を揺らせて歓迎してくれます。シャーマンの魂を取り戻したのです)



”心と物質”をつなぐのは、名も無い存在(シンクロニシティ)だと、太古の人々は知っていたのでしょう。

■シンクロニシティ現象を自在に操る太古のシャーマンが、その能力を得たのは、”真実”の宇宙の因果律である 『宇宙律』を意識して動かしていたからです。


それは、 『神人一如』 の心境なのだと感じます。

神は我なり我は神なり、神人一如の境地に立つた場合を無我の境と云ふのである。 (水鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)


シンクロニシティ現象を善なる意識で生起させましょう。
明るい未来を迎えるために・・・・集合無意識を揺らすことは不可能ではありません。
鍵となる太古の人々の魂を呼び寄せてみましょう。




うりずん琉球/土取利行(唄・演奏)Urizun/Toshi Tsuchitori  http://youtu.be/-PABYcxiquQ