いよいよ 夏ってこんな風だったなぁ という

強烈な日差しを 感じる時間が 多くなってきた


ずっと炎天下で 作業してたら やられるなと

直観的に思う暑さ





ネイティブアメリカン講座で

「毎回そこでじっと なにもしないでたたずめる 秘密の場所を持とう」

という テーマがあった


今日 プラムの木の下で 

あ、 ここにしようかな と思った

日陰だし 風通しもいいし


どんぐりなら どこでもいいかなと思うのだけど

多分 地球と繋がる感じの試みだから 

同じ位置が いいんでしょう


しばらく なにもせず 

ときに 目をつぶり たたずむ


確かにね 人間界の いろいろと

別のところと つながっている感は あるよ


確かに 在るんだよ

それは 今も ここに いつも・・・






アスパラが 一本生えてた


あーあ これもらってくるの 忘れちゃったな

食べごろなのに


この子は ほっとくと 木のようになる





最初に 木になった子は すでに 花を咲かせた後

まあるい 実をつけた


すごい勢いで 子孫を残そうとするもんだ


この実は 赤くなり 

その中には 数個の黒い種が入っている

ちゃんと 種から 発芽する





これは カラスムギかな

スズメムギらしきものと 今は これがたくさん種化している


実の先っぽをひっぱると 結構でっかい麦らしき実が

簡単に取れる


中身を取ったのが 上の写真

採られたもみ殻だけ観ても 芸術的に 美しい

誰か 褒めてやってよ

ほんとに美しいよ





実のほうは 一見 足のついた虫みたい


これをたくさん採ったから

乾燥させて またまたインコちゃんに あげてみよう

これも喜んでくれるかな





シロザが たくさん生えてきた


ホウレンソウと同じ科の植物


多分食べるなら このくらいの大きさのが

一番美味いんじゃないかと思って

採ってきた


木みたいにでかくなっちゃうと

草取りするのも 大変なくらい根を張ってしまう



シロザはさ

人も 食べられるんだよ


イネ科の草も 昔は人は雑穀として 食べたりもしていたよね


けどね

人が食べられないものの 存在が 

必要ない なんてことは ないんだよ


コンクリで埋めてしまった場所で

人間だけが 生きるなら

人間が食べないものは 必要ないかもしれないけど


他の生き物が 居る以上

それぞれが 必要としあって 存在しているわけで

人が 「気持ちわるっ」  と思うものだって

何ものかの 食べ物だったりする


人間の 美的感覚や 趣向しか

認めない 価値観を

定着させちゃったから 駆除するものが

たくさんになった


元のところに 帰ろうよ


そもそも 生き物って

どんな風に 存在してたっけ?


生態系保護的観点からの 「人間の存在悪」 なんて 

わたしは 信じたくはない


生き物たちが それぞれ棲みわけて 

生きている姿は 素晴らしい


けどさ 実際問題 人間は生きているのだから

そこに人間混ぜないで 考えても

やはりちょっと違ってくるんだよ


人間も 生きているのだから

人間抜きに考えても 現実的ではない

したがって 意味がない


人間である上で 

他の生き物の存在を 感じられるような

生き方を 提案できないものかな


もの言わず

「どんぐり小屋」という 在り方で

表現は しているとは思うけど


どうにか言葉で 提案できないかな


自然を 大切に・・・

とかいう ありきたりの言葉じゃなくてさ


ちょっと じっくり丁寧に 時間かけて

模索してみるよ


             ペタしてね

アカツメクサは 花盛り


この花には 素晴らしい効能があった気がするな

婦人科系のものに 効く・・・

そんな記憶が・・

また調べておかなきゃ




花には いい蜜があるのか

同じ形の蜂が 何匹も蜜を吸っていた





身体を丸めて しっかりした太い足で

花につかまっている


足が太くて

ミツバチっぽくないんだよな


結構臆病で

カメラを構えると すぐ飛んでしまう


このイネ科の植物が 今はたくさん生えている





観てよ

芸術的に 美しい配列 


連続するものの 美しさは

自然の中に 本当にたくさん存在するよね





イネ科ならば うちのインコちゃんたちが

食べられるはずなので

穂だけ採取


干してから あげてみる





野郎たちは もっぱら桑の実をついばむ


蜂も 鳥も 人間も

そこに在るものを ついばむことができる範囲で

生きる分には 同じ立場


その微妙な 配分を

うまく保って バランスを取ろうと思うことを

人間は 辞めたよね


こどもらも そんなこと 考えるきっかけすらない


社会自体が

人間中心の精神だから


自然に在るものは どんなものでも

自然に在る なにかしらかの存在により 尊ばれ 

ありがたく存在している


無駄なものは おそらく 無い


人間の判断で

「無駄だ」 と されているものは 

自然界にたくさんたくさんあるけれど


そのすべては 無駄なんかじゃない 


自分の都合で

駆除する際 頭の片隅にでも

そのことを置いて しなきゃならない


全ての存在は 尊ばれ ありがたく存在する


          ペタしてね

どんぐりが 週に二回になってしまったから

なかなか 畑作業がはかどらず


久々に来ると 子どもらがくる前の2時間は

がっつり農作業なのが 習慣になった


ひとしきり作業して

ちょっと疲れちゃったな という頃に

野郎たちは やってくる



野郎たちに コナラの芽の採取を促すと

飛んできて それぞれのポットに移し替えていた





「やるやる!!」 と

ノリノリで ポットにコナラを移植した彼ら


そのうちに 水やりを忘れて

枯らしてしまう子も いるだろうとは思う


けど 「自分で育てたい」 って

そう思えただけでも

素晴らしいんじゃないかな と思うから

いいんだ それでも


もちろん 5年くらい

ちゃんと自分で 立派な苗木に 育てて

彼らの手で どこかの山に 植樹できたら

ほんとに嬉しいのだけどね





桑の実は だいぶ 色が黒くなってきた



野郎たちに伝えると

桑の木に 飛びつくように 実を探し始めた




そして

美味い美味いと ひとしきり色付いた実を食べ終えると

他の遊びに 飛んでいった



まるで 野鳥のようだった



子どもらが 野鳥のように居る空間


木に登る子も

小鳥が 木に留まっているかのよう



・・・はて

どれが 「自然」 だったかな


子どもが 小鳥のように

木々の間に 馴染んでいた風景が

本来の 「自然」 ではなかったか


自然は 「護る」 ものではなく

「共に在るもの」 ではなかったか


子どもらよ 在るべき場所に


小鳥と共に 帰ろう 


              ペタしてね

久々の どんぐり


今年はコナラの芽が たくさん出たんだ




生まれたばかりの芽は ほんとに可愛らしい


何人かが 「自分の木」 を 育てるために

ポットに 移植して 持ち帰った


自分の登ってたコナラの木の 子どもを

自分で苗木に育てあげ

どこかの山に植え

自分の子どもが 登れるくらいのコナラに成長させる・・・


これは ロマンじゃないですか?


こんな夢を 抱ける子どもらは

ほんとに 幸せだと思う



コナラの子が たくさん芽生えている場所の近くには

シソの子どもたちが たくさん顔を出していた




毎年 種をまかずとも

お約束のように 生えてくれる シソたち

ほんとに ありがたい恵み





地面には 赤黒くなり始めた桑の実が

食べかけの状態で フンと共に落ちていた


鳥さんは わかっているんだよね

ここに美味しい実があって 

そろそろ食べられる時期だって


共に 生きさせてくれてありがとう



草刈をしていたら

お腹の大きな ニホントカゲを見つけた




カナヘビ ・ トカゲ が大好きな

野郎たちに見せようと 虫かごにしばらく居てもらった





彼らは 何も言わずとも

この妊婦さんの餌を 探しに行ったよ


帰りに 逃がしてあげることは わかっていたのにね

その間でも 何か食べ物をあげたいと思ったんだね


その思考回路自体が

ほんとに 貴重だと思う


教えてやったことではなく

彼らが ここに居て 身に着けたことだ





久しぶりに来た少女は

野草茶を作るべく

あちこちしゃがみながら 草を採っていた


ここで生きている

あちこちの草や 生き物たちと

この子たちは 共に生きている


言葉で伝えるのは

なかなか 難しい


自然と共にある感性は


やはり ここに居て

身に着けていく ことなんだろうね



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昨日の記事ね


決して 卑屈になって言ってるのではないんだよ


どんぐりは 「自己犠牲」 とは 違うの

かといって 「自己満足」 でもない


要するに どんぐりは 

わたしにとって 宇宙と同じということ

私が 「全体化」(万物・宇宙と一体化すること) するために 

必要な場所であり

通う者すべてに そのチャンスがある場所ということ


卑屈になるわけが ないじゃない





桑の実が 赤くなってきたー


今年は どんぐりにある桑の木 3本に

実がついたんだ


出来れば

栽培しなくても 自由に実ってくれる植物が

ずっと 生きていてくれている中で

子どもらが 集えるのがベスト


お互いの 「生」 を 

歓迎しながら 四季を通じて 居られることは

最高に 幸せなことなのではないかな





去年の記念樹の ベリー畑


こちらのブラックベリーは 順調に育ち

枝が いろいろなところに 飛び出し始めた


囲いを 広げて 踏まれないようにガード



野菜の種まきが たくさんできる時期なので

草を 少し整理して

畝を作った




ちびちゃんが 手伝ってくれる

もちあげるのも やっとの鍬





レディース野郎 と共に

アズキと 落花生の種をまいた



そうそう・・

今日は どんぐりの前に

午前中 保育室の 「畑の日」をしたんだ




2歳児くらいの子が 多いかな


苗を植えて 種をまいた


種は ほとんど ばらまき状態だけど

それでもいいんだ


こんなに小さいうちでも

興味のある子は 

土をかぶせていると

「いっしょにやっていい?」 と つたない口調で 聞いてくる


なんて 可愛らしい


私は 物心ついたときから

土に触るのが 好きだった


そして 小学生の時には 自分の畑を持ちたいと

親に切望した

無理だったけど・・・


小さい頃の いろいろは

ずっと後になっても 何かしらか 影響していくのだと思う


だからこその

幼少期の 経験を

豊かに していってあげたいよね


まぁ 何を経験させるかは

親の裁量にかかってくるけど



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