私は何のために生きているのか? 何のために生きてきたのか?
私はこの時代に、この国に、この親の元に生まれ、学び働き、結婚して子をもうけて育て、生きて生かされて現在74歳。68歳で第2の仕事を離れて2年間は新鮮な気分で農林業に没頭していたが、70歳を過ぎた頃から何のために生きているのか、自分は必要な存在ではなくなったのでは?と心許ない気分に陥るようになってきた。自分に与えられた仕事をよりよくこなしていこうとする仕事人間の生活は他者からの承認を働きがい、生きがいとする生活であったが、自分の裁量でどうにでもなるような「自由」な身になって、他者を意識して承認欲求を満たすような生き方から離れて主体的に生きがいを創造して自らの承認欲求を満たす人生を生きることになって、面食らうというか不適応症状に陥っていると言うことであろう。
私がこの世界に生まれ、生かされ生きて74年。私がこの世に産み出された意味は何なのか? 何のために生かされ生きているのだろうか。
「生きる意味」は? 何を目的として生きているのか。私が死んだところで何と言うこともないのではないか。
多忙な時、目先にやらねばならないことがある時は深く考えることは殆どなかったが、この世とオサラバすることが目先にちらつく歳になって、目先に為さねばならないことが迫ってこない「ゆとり(?)・手持ちぶさた(?)・自由」の中にあって自己の存在意義が疑問となってきた。
人の「生きる意味」・「存在意義」については、存在喪失である「死」と抱き合わせて人が歴史を残すようになってから常に問われてきた問題であった。西洋においては古代ギリシャの哲学の祖といわれるソクラテスよりも以前から、またユダヤ教において更にはイエス・キリストが宗教の面から「存在(生)」を説いた。アジアではゴータマ・シッダルータ(釈迦牟尼仏陀)がバラモン教を受けて、また中国においては孔子が諸子百家の思想を受けて説いた。あるいは、古代エジプトのピラミッド等に残された記録においても、既に死や死後の世界から現世を考える死生観が存在した。
人の生きる意味(存在意義)・生きる目的について述べた思想もあれば、人生は「不条理」との考え方もある。私も私なりに西洋思想や仏教、儒教とつまみ食いしながら考えてきたが、最近は「禅」の教えに近い考え方を持つようになっった。
ヒト以外の動物が「自己存在」を問うかどうかは私にはわからないが、ヒト以外は自己存在を問うことはないとの仮定の下に現在至った考えを以下に述べてみたい。
動物は生まれ、程度の差はあるが親の庇護を受けて育ち、自立できるようになると親離れして独立生活に入り、異性を求めて繁殖行動をして子孫を得て育て、子離れし、命ある限り行き、繁殖行動し、そして死ぬ。動物の一生は、食料を得て生命を維持することと繁殖行動をして子孫を産みだし育てることに集約される。生まれ、自己の生命維持と子孫を残すことに命をかけ、死ぬ。動物は自己保存のためにより良い環境を求めて移動できるが、植物は動物に比して制約がより多いと言える。即ち、種や胞子が落ちたところで生きるほかない。譬え好ましい環境下でなかったとしても、その場で精一杯生きるしかないのである。
動物と植物の違いはあるが、つまるところ生命を得てこの世に存在する生物は、その一生を生きる意味も目的も変わりはないと言えよう。
動植物はいわゆる人間のような「自死」はない。この世に生を受けた以上、自分のおかれた状況下で精一杯自己存在の保持とよりよい子孫(遺伝子)を残すように努め、生きて最期に死ぬ。
私は、突き詰めたところ、上記のようにヒトの人生も動植物と同じであろうと考えるようになった。
人が生きる意味、生きる目的はつまるところ生きて子孫を残して死んでいくことである。しかし人も人間以外の動植物と同じように、全ての人がそのような人生を全うできるわけではない。病死、事故死、戦死など不慮の死に遭遇することもあるし、異性との繁殖行動の機会を持たない場合もあれば機会を持っても子孫に恵まれルトは限らない。しかし、それもまた人生であって、運命に従うほかはない。この時代にこの場所(国)に生を与えられ、いのちが与えられている限り精一杯(一生懸命に)生きて死が与えられる時に死ぬ。それが人生の骨子であって、それ以上でもそれ以外でもない。
私は昭和の時代にあの父母の下に生を受け、成長し、学び、仕事に就き、結婚して一女をもうけ、還暦を迎え退職し、第2の職に就き、それも退職して古希を迎え、74歳となって尚(ナオ)生きている。劇的な人生でもなく優れた人生でもなく、極めて平凡な人生であるが、それでよいのだ、悔いるものでもなく無意味でもなく、与えられたいのちを全うすることが人生の目標である、というのが、今の私の「悟り(?)」である。誰だったかの歌の文句ではないが、「我が人生に悔いなし」と言うことだと思う。
といったようなところで、………「つれづれなるままに……」でした。…… ごきげんよう。
ごきげんよう。