前回のブログで、梅の花から梅酒に、梅酒から高村光太郎の『智恵子抄』へと思いが巡りました。
「詩」の素晴らしさから、「言葉」の持つコミュニケーションの手段としての力の素晴らしさに今更ながらに感心しました。そういう意味では「ヒト」というものはすごい力を与えられたというか、獲得することが出来たというか。
例えば、釈迦は十大弟子に、例えばアーナンダー(阿難)に教えを語った。孔子もまた子貢などの弟子達に道を説き、それが『論語』に遺されている。ソクラテスの教えは彼自身の著作はないが、『ソクラテスの弁明』や『クリトン』など弟子によって著作として今に伝えられている。
ユダヤ教の教えは『旧約聖書』として、イエス・キリストの教えは『新約聖書』として弟子によってまとめられ、キリスト教の教典となっている。 信者でなくとも、儒学や哲学を専門に学ばなくとも、われわれは仏教の「慈悲」や「諸行無常」等について、儒教の「仁」や「義」について、ソクラテスの「徳」や「無知の知」について、「モーゼの十戒」やイエスの「山上に垂訓」についてなど我々も常識程度には知っている。
釈迦、孔子、ソクラテス、イエスとそれぞれの先人の思想は「ことば」で弟子に語り伝えられ、文字として遺されて後世の人類の文化に、社会に、歴史に多大の影響を与えたのである。
「ことば」がなければ人類の発展もなかったと言えよう。
『旧約聖書』にあるバベルの塔の話は、傲慢になり神の命に従わぬ人間の「ことば」を乱すことで混乱させ、団結して神に逆らうことを懲らしめたといった話であるが、人間のコミュニケーションにとって如何に「ことば」が重要であるかを象徴的に述べていると言えるだろう。
ことばを大切にしなければ、と当たり前のことを当たり前に痛感した次第です。このブログもやっぱり「ことば」で表現しています。
と、いうことで、……… ごきげんよう。