「傲慢」・「自己中」・「ハラスメント」・「自己喪失」・「自己疎外」等々と精神・生き方の混乱・混沌としている現代社会において、人類の未来に向けて人生観・世界観・価値観の基盤に「慈悲」あるいは「アガペー」あるいは「仁」といったものを人類共通の精神・生き方の基盤に置けないものだろうか。失ったものならば取り戻せないものか。ないものならば付与できないものか。
仏教の「慈悲」は、「慈」(いつくしみ)と「悲」(あわれみ)からなる言葉であり、「抜苦与楽」(他者に楽しみ・喜び・幸福を与え、他者から苦しみ・悲しみ・不幸を取り除く)という意味である。然も誰彼と行った特定の人に偏って抜苦与楽するのではなく、他者全て(いっさいの衆生)に平等に抜苦与楽することが説かれている。生きとし生きる衆生の全てに対して慈悲心を持ち実践することによって、自らも幸福になると言うことでしょう。仏教では、人間の幸福は他の人を幸福にすることを抜きにしてはありえないということです。
仏教の慈悲とよく似た考え方にキリスト教の「アガペー」(神への愛・隣人愛)があります。キリスト教においても、自分だけが幸福になろうとするのではなく、「他の人と共に」幸福になることが説かれます。やはり、自己愛や特定の人への偏愛ではなく、全ての人に対して平等で見返りを求めない「無私・無償の愛」です。例えば「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(隣人愛)とか「お互いに愛し合いなさい。私(イエス)があなた方を愛したように、あなた方もお互いを愛し合いなさい」などの聖書の言葉に記されている。
儒教の孔子の「仁」も慈悲やアガペーに似ている。仁は「忠恕」とも説明されるが、忠恕とは「(自分に)まごころ(自分の良心に忠実であること)をつくすこと」と「(他者への)思いやり・いつくしみの心」のことである。孔子の「仁」もまた「慈悲のこころ」や「アガペー」と広い意味で似ていると言えよう。仏教はインドに始まり南アジアからアジア全域に広がり人生観・世界観・価値観の基盤となり人々の人生を支えた。儒教もまた中国に誕生し挑戦や日本に大きな影響を与えた。キリスト教も現在のイスラエルに始まり古代ローマからヨーロッパ全域・ロシアに広まり、更に宣教師によって世界各地に信者を拡大した。キリスト教が最も宗教的で儒教は「儒学」とも言われるように宗教的要素は少ないが、三者共に宗教のみならず「哲学」・「倫理学」に多大の影響を与えてきた。
キリスト教は、ニーチェが「神は死んだ」と述べたように近現代の中で人々の精神や人生に与える影響力を弱めたし、仏教も中国の共産主義思想や日本の葬式仏教化等により影響力を失ってきた。儒学もまた同様に影響力を失ってきている。
しかし、三者ともに持つ「慈悲」も「アガペー」も「仁」も価値を失ったわけではない。
なんとか、その取り戻しができないものだろうか。
そのように考えて、私が保育・幼児教育系の短期大学で教授をしていたとき、保育・幼児教育の根底にこの三者にソクラテスの「徳(アレテー)」を加えて、これらの思想のどれかを軸として保育・教育に携わって欲しい、そうして、そのような心を子ども達の心に根付かせて欲しいとの願いを込めて授業した。微々たるもので、はたしてどこまで学生の心に届いたか心許ないが、わずかでも生きて欲しい。
そのような願いを込めながら、……… ごきげんよう。