中島みゆきさんは、独特の声で決して美声とは言えないが歌詞や曲のメッセージを聴き手に伝える歌唱力は作詞と同じく「天才」である。
時に彼女でなくては描けないメロディーは作曲面でも天才と言ってよい。但し、多作のためか私にとっては彼女らしくない駄作もあると思うのだが。
しかし、今日は「作詞家」中島みゆきについて……。
彼女の作詞家としての天才ぶりを支えるものは、なんと言っても彼女の駆使する「言葉」の多様さ、豊かさ、適切さであり、比喩の素晴らしさであり、魅力的な「まさしくこれしかない」と感じざるを得ない造語の妙ではないか。天性の感性と幅広い努力の賜物なのであろう。
彼女にとって、ある場合においては、「言葉」は曲を彩るものにしか過ぎないのではないか、歌詞前後の意味が通じずとも曲の雰囲気を的確に彩れば良いと考えているのではと思う曲がある。逆に、歌詞に合わせてメロディーを作っている場合もあろう。そんなことは他の作詞・作曲家でも同じなのであろうが。
例えとして、私の感じる(鈍感なわたしがとやかく語る資格はないが語らせて下さい)フレーズ(?)をいくつか列挙してみたい。
例えば『あばよ』の「明日も今日も留守なんて 見え透く手口使われるほど」の「見え透く手口」の表現であり、『かもめはかもめ』の「孔雀や鳩や ましてや 女には なれない」である。孔雀や鳩と比較して、なぜ「かもめ」なのか。かもめが「女にはなれない」となぜにつながっていくのか。ここらが中島みゆきの彼女らしいところではないか? ついでにいえば、彼女の歌には「鳥」が多出する。『忘れ鳥の歌』・『はぐれ鳥』・『かもめはかもめ』・『みにくいあひるの子』であり『地上の星』の「つばめ」であり、鳥ではないが『この空を飛べたら』etcである。
彼女にとって、『時代』は流れ過ぎていくものではなく、「まわる」もののようである。去ってしまうのではなく、生まれ変わって「巡り会うもの」なのだ。『わかれうた』の冒頭部に突如「途(ミチ)に倒れて だれかの名を 呼び続けたことが ありますか」の問いかけから始まるのも心に残る。普段歩む「道」ではなく、「途」である点にも注目したい。単に道路で倒れたのではなく、人生という生きていく途上の挫折(?)を問うているのではないか。 「そうして、擬人化された「たそがれ」は「優しい人好しでは ありません」と続く。従来の歌詞にはない意外性、ひょっとすればシャンソンにはあるかもしれないような比喩の見事さ。「わかれ」は「幸せ」の後ろをついてくると言った擬人化。ついでに「うかれ街」なる造語。曲・詩ともい『わかれうた』は他者にはまねのできない後世に残る名曲であると信じる。
『アザミ嬢のララバイ』でも、春の「菜の花」・秋の「桔梗」は何となく納得するが、次には夏の花や冬の花が比較されて出てくるのではなく、なんと「夜」に咲くアザミが登場する。アザミは夜咲くのか? そんなことはどうでも良くて、彼女にとっては、眠れない夜に訪ねてくる者をララバイを歌って慰めてくれる女性はまさに「アザミ」の花のような女性なのだ。アザミの花の持つ感じが表現したい女性にピッタリであるということなのだろう。
『ひとり上手』においては、「ひとり上手」なる造語、「サヨナラの海に流れ着く」私。なんてうまくぴったりくる用語なのだろうか。
『おもいで河』では「涙の国」から「吹く風」が、であり、「おもいで河」には「砂の舟(=心)」は重くて流れない、とくる。すごい持って行きようではないか。私など凡人には当然ながら思いつきもしない言葉の豊かさ、発想の豊かさ、夢の深さではないか。
先述したが、「鳥」が彼女の詩に多く登場する。しかしそれはまた「空」と一つなのではないか、と思う。。『地上の星』の「つばめ」も『この空を飛べたら』の「空が恋しい」人も同じような擬人化である。中島みゆきさん自身が「空」への思いが強いのではないか。この「人」はみゆきさん自身かもしれないと思う。
「バカいってんじゃないよ。何を勘違いして述べ立てているのだ?」とか「ろくでもねえ奴が何をごたくを並べているのだ、解ったかのようにご託を述べ立てているのだ、とお叱りを受けるのは承知で、でも語りたい、との心境をご容赦下さい。
でももうやめときます。私が感想を語れば語るほどにトンチンカンな感想を述べているようで、中島みゆきという天才を汚しているようで、でも「いいものはいい」と感想を述べさせてもらっても許されるのではないかと。
そんなことや、あんなことやで、今日は終わります。 ごきげんよろしゅう。