昨夕から雨がパラつきだして、今朝起きたら本降りに。
菊を約200本、百日草を約150本、千日紅やアスターなどを各30本、これらに水やりをしなくてすむのが私にとってはラッキー。昨夕から雨の予想だったので、身体にムチ打ってシイタケの原木(ホダ木)の立てかけを終了させ、遮光ネットもかけ終わって一段落。これで、この雨を受けて椎茸菌も繁殖してくれるでしょう。私にとっては、まさに恵みの雨です。
ただし、豪雨災害に遭われた方々や被災に心配をなさっている方々にとっては、この梅雨もご心配なことですから、私も喜んでばかりもいられないのですが。しかし今の私にとっては、足首、膝、股関節、腰、肩、肘、首と関節痛や筋肉痛が農林業作業で痛さやダルさ、しんどさのピークに来ていましたから、今日・明日の雨で少しは回復してくれるものと期待しています。鎮痛剤を塗り鎮痛シップを貼りながら、寒いのでコタツに入ってのブログです。
過日、「生きがい・生きる目的」を見失った不安について述べました。その不安は美輪明宏氏の『ヨイトマケの唄』の歌詞を噛みしめながら、かなり解消されたことも報告しました。今朝、突然ながら雨を幸いにチャップリンの『モダンタイムス』をDVDで見ました。久しぶりに、ヤスパースの『現代の精神的状況』やキェルケゴールやニーチェの20世紀の時代に対する警鐘を想起しました。
巨大企業でしかも製造に従事している方々は規格に合った製品を大量生産しなければならない。製品に自己の個性を入れてはいけないし、入れようもない。分業化が細分化されているから熟練はさほど必要はないが、作業は単純作用の繰り返しとなる。それでは巨大企業の事務・営業等の分野の方々といえば、やや個性の発揮のしようもあるが、しかし巨大企業の役員ともなれば別だろうが一般社員では巨大な機械の一部品のような存在でしかありようがなく、<代替可能な存在>であって、「私でなければ」といった自己存在の価値を自覚できない、自覚しにくい存在としてしかありようがない。ドラマの上司の台詞ではないが、「お前の代わりなどいくらでもいるのだからな。いつやめたっていいぞ」などというパワハラがありうる世界である。
「鶏頭となるも、牛尾となるなかれ」ということわざではないが、そういう意味では、中小・零細企業で「必要とされる労働力」として、また「熟練工」として他に代えがたい技術・能力を認められる存在として生きる方が「生きがい」を感じることができるといえるかもしれない。私も高校の教員、管理職として、自己のよき個性を磨き上げ発揮して「良き教育者」として自負できる生き方を目指してきた。定年退職後も第2の仕事として短期大学の特任教授として同様の思いで働いてきた。その評価は私が為すものではないし、様々であろう。私自身も目指したところと目的を果たさんとした生き方は自負しているが、結果については満足していない。
今は3年前から農林業見習いが専業である。約1.5aの畑と、約2,000本の原木シイタケの栽培とに取り組んでいる。約5aの田は大規模農家に依頼して耕作してもらい、私はあぜ草を刈るだけである。約30haの山林は木材価格の値下がりもあって手入れする資金もなく、ほぼ放置状態にある。これらの農地や山林は「維持・管理」とまではいかないが、私名義の所有地として「私」以外の方が勝手にどうこうできるものではなく、できようができまいが私が生きて意識ある限りは私が何とかしていかなければならない。これらは「代替不可能」なのである。
世間的には存在価値がないような私であっても、家族の一員としてもしかりだが、私としての「かけがえのなさ」・「存在価値」があるのだということを自覚し、責任を果たしていこう、いかねばと考えている。
他者にとってはつまらんことですが、私の心境の変化というか最近の気づきについて書きました。
哲学や宗教やと学んで「知識」としては知ってはいても「知識」にしか過ぎなかったものが、歳をとり、苦楽の時を経て体験を積んで、少しずつ知識が「実感として解ってきた」と言えることが増えてきます。そういう意味でも、歳を重ねることは、まんざら悪いことではないな、と思う次第です。 ……… 何てことをつぶやかせて頂きながら、ごきげんよう。